危 機

 ジュニンがゾアスのそばへ赴くと、ちょうどデテラ郡主ガドロスがバパラマズに大声で露骨な皮肉を言っている最中だった。

「いや、たいした負けっぷりだ! 戦場でもあんな無様な負け方にはそうそうお目にかかれんなあ。わはは」


 郡主バパラマズは横目に非難の色を浮かべ、ゾアスをちらちら伺った。

 ゾアスはジュニンを見ると席を立ち、首の動きで貴賓席の脇へ行くよう指示する。


「ビルゴも、もう少しやると思ったが」

「……申し訳ありません。考えが至りませんでした」

「貴様のせいではない。あの子どもが予想以上に強すぎた。……惜しい、実に惜しい。本来なら手元において鍛えたいところだ。……残念なことに日が悪かったな」


 ゾアスの素直な賞賛を受けるあの子どもに少し嫉妬した。

 けれども、閣下の言いたいことは分かる。

 つまり、あのこぞうの勝ち方はあまりに鮮やかすぎたということだ。

 郡守備隊の剣士、それも小隊長の肩書きを持つ男が、剣を合わせる間もなく子どもに斬り殺されたなどという、最高に不名誉なことは、あってはならないことなのだ。


「まったく不本意なことだ。ビルゴの恥を我らが注がねばならんとは」

 ジュニンは黙っていた。

「が、郡守備隊の剣士の実力は子ども一人に劣るなどと言われては元も子もない。かわいそうだがには死んでもらうしかないだろう」

 ゾアスは無造作に言い放つ。






 神経は限りなく鋭敏になり、全身をつつむ筋肉の筋一本一本の動きまで、正確に知ることができる。

 それだけではない、自分の意志がからだの隅々まで、余すところなくいきわたり、忠実に実行されてゆく。


 ナアイはいま、己の肉体を完全に自らの意のままに動かしていた。


 まるで体重などないかのような奇妙な浮遊感とともに、五感はとぎすまされ、これまで感じたこともない新しい感覚を造り出していた。

 耳をすませば、相手のほんの少しの動作によって生み出される空気のうねりの音さえ聞こえるような気がする。

 相手が次にどんな攻撃をするか、防御をするのかまで、手にとるように読めた。


 ビルゴを斃したときから、体の中の何かが変わっていた。


 ナアイは三人目の剣士の剣を、一撃で叩き落とし、構えも解かずに四人目の剣士の登場を待っている。

 不思議なことに勝ったという喜びも、生き残ったという安堵も、心中にはわきあがってこない。

 余りにも鋭くなりすぎた感覚に比べ、自分の中の感情を造り出す部分、そこだけが麻痺しているかのようだった。

 その不均衡はナアイを戸惑わせ続けている。

 もっとも、その原因に思いめぐらすひまはない。

 今ならどんな相手が来ても勝てるという自信があった。

 たとえあのゾアスが相手だろうと必ず、勝てる。


 審判役の衛士は三人勝ち抜いた挑戦者への規定通り、ここで試合をやめるかどうかただそうと、ナアイへ近づいた。

「挑戦をここまでにすることもできるが、続けるかね?それとも……」

 言いつつ、その顔を覗き込もうとした衛士の動きは止まる。

 黒髪の少年は自分のことばなど一顧だにしていないとわかったのだった。

 

 衛士はつかの間、少年を凝視していた。

 やがて、その手を高く掲げ、試合の再会を宣言した。


 四人目の相手がナアイの目の前に現れた。

 緊張した面持ちで剣を構えている。

 上げられていた審判の手が振り下ろされた。





 ――まずいな……


 ナアイの剣技とその質の変化を目の当たりにして、ランドーザは驚いていた。

 経験から、それの意味するところ、また、それがどういうときに起こるかを、よく認識していたからであった。


 ――何があった、ナアイ!


 剣士にはときおり、自分の能力を超え神技に近づく剣の冴えを見せるときがある。

 場所や条件は特定されない。

 あるものは戦場で、あるものは一人剣を振っているとき、ナアイの如く闘技中に突如それが起こることもある。


 それらはすべて、ランドーザの知る限り、ある一定の法則にしたがっていた。


 すなわち、何かの抑圧により、精神がぎりぎりまで追いつめられ、これ以上耐えることのできない限界でその抑圧がとり除かれると、それは起こるのである。

 急激に開放された精神が五感を、肉体をも凌駕し、恐るべき洞察力と危険なまでの剣技を同時にその剣士に与える。


 度をこえた悲しみ、怒り、不安、恐怖、そして憎しみなどの感情は、容易にその引き金になると、ランドーザは知っていた。


「が!」


 四人目の剣士はたったひと言叫んで斃れた。

 ナアイの剣はその男の額を断ち割っていた。


 闘技場の見物人達からの声援もすでにとだえている。

 みんなこの先どうなるのかと息をひそめ、黒髪の少年剣士を見ているのだ。


 ――だが、もうすぐ……破綻がくる。


 そばのルルザを見やった。

 彼女は自分の腕を抱えて両袖を握りしめ、凄惨な試合を、震えながらも必死で見届けている。

 闘技場のナアイへ目を移した。

 あいつはもう自分の手の出しようのないところにいる。

 ランドーザの表情は曇った。






 めまい。

 からだをつつむ疲労感に、立っていることもおっくうなのだ。


 ――なんだ、これは………


 ナアイの肉体はかつてない異常をきたしはじめていた。

 四人の剣士と戦ったとはいえ、こんなに疲れるほど動いた覚えはなかった。


 ランドーザの予感した破綻がいま、確実に訪れていたのだった。


 自身の能力を超えて働きつづける精神の要求に、少年期のまだ成長しきっていない幼い五感も肉体も消耗し、ついてゆけなくなったのである。


 ナアイは、すでに危機的状況に突入していた。


 五試合目が始まると、勝負はあっけなく決まった。

 下からすり上げた相手の剣は、それを受けた自分の剣を宙高くはね飛ばした。


 ――!


 ナアイは息を呑む思いで、相手が頭上に振り上げた剣を見つめる。

 敵の動作は妙にゆっくり感じられた。


 ――ラシの時と同じだ……


 自分はここで死ぬのだ。


 この数日に知り合った者の顔が浮かんでは消えた。

 上方の剣はゆっくり自分に向かって落ちてくる。


 目を閉じた。

 刃風が鋭く自分の顔の前を走り抜けていった。


 ――?


 会場の喧騒は大きなうねりとなり、耳朶じだを震わせるほどの大音響となって、ナアイを包む。


 一体どうしたのか。

 自分はまだ生きている。

 目を開けた。


 目前に、異様な光景が広がっていた。

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