彼 我

 紫色のしみが天井についていた。

 タチオイクルの果実をぶつけるとそんな色となる。

 トファーズが誰かと喧嘩をして、それを相手に投げつけ、外れてそこへ当たったのか、あるいはその逆か。

 いや、天井めがけて投げつけでもしないかぎり、そんなところにしみのつくはずはない。


 寝転んだまま、正面の天井から目を移し、部屋全体をくまなく見渡す。

 飾り縁のついた大きな衣装戸棚、自分のいま寝ている寝台と、その足もとにある華奢な椅子。

 右手にある扉の横には、取っ手のついた引き出しのたくさんある化粧台が置かれ、その前には自分の背負子がちゃんと立てかけてあった。


 調度品は少ないが、きちんと整頓された部屋の様子に、ナアイは好感を持つ。

 郷の納屋を思うと、こんな部屋に住めるトファーズがほんの少し羨ましかった。


 頭上にある窓のカーテンごしに、そよ風が入ってきた。

 ナアイは顔を上げて時間を知ろうとした。

 日の登り具合からすると……良かった、まだ昼前だ。

 昨日は、まわりを見わたすこんな余裕もなかった、と苦々しい思いになった。


 気絶したナアイはトファーズに助けられたらしい。

 あのビルゴという巨漢がどうなったのか、トファーズはなぜ無事なのか、そもそも自分が気絶している間に何があったかは知らない。

 しかしふたりともこうして生きているところを見ると、彼女が自分のために何らかの形でビルゴに命乞いをしたのではないか、とナアイは考えている。


 気絶からさめて見た、昨夜のトファーズの顔はひどかった。

 自分でもよく驚きの声をこらえられたと思う。


 ナアイが、ここはどこ、と尋ねると、トファーズはここが安全な隠れ家であることを説明してくれ、心配しないで目を閉じて休むのよ、と言った。


 ――母さんみたいだったな


 不思議に、ナアイは安らいでいる。


 ノックの音がして扉が開き、トファーズが食事を持ってきた。

 濃厚なヒッチ・スープの匂いが鼻孔をくすぐる。

 ナアイは寝床から起き上がった。たまらなく空腹だ。


「あ、そのままでいいのよ」

 大丈夫です、と言おうとして、目がくらむ。

「まだ寝てたほうがいいみたいね」

 少年の様子に、トファーズは心配そうに眉をひそめた。

「いえ、こんなにお世話になって。もう出て行きますから」

「気にしないで。あたしのせいでそうなったんだから、このくらいはさせて」


 ナアイはトファーズの顔を見る。


 昨日よりひどいありさまになっていた。

 あちこち腫れあがり、青黒く変色し、爪のひっかき傷らしい赤茶けた筋が右の頬に二本ついている。

 左の目の腫れもまだ引かず、なかば目はふさがっていた。

 無力感にさいなまれ、ナアイは思わず顔をそむける。


「ひどい顔ね、分かるわ、自分でも見たくないの」


 トファーズは悲しげに言うと、スープの入った盆を枕元へ置いた。

 寝床の足もとにあった椅子に腰掛ける。


「ごめんなさい。見たくないとか、そんなんじゃないんです」

「あなた、自分を責めることはないわよ。あたしの顔をこんなにしたのはビルゴで、あなたはあいつから、あたしを守ってくれようとしたんだから」


 例の巨漢、ビルゴはエリュン郡守備隊の小隊長だった。

 素性の知れない、いかがわしい男で、粗暴なため町の嫌われ者だという。

 どの売春宿でも要注意の客として腫れものに触るように扱っているらしい。


 トファーズは、この男をひどく毛嫌いしていた。

 しかし、ビルゴの方はトファーズに、ご執心の様子であり、自分の女にしようとしつこく誘いをかけていたという。

 いままでは、そのたびに、なんやかやと理由をつけ、誘いをはねのけていたものの、昨日は体の具合が悪いと偽ってビルゴの誘いを反故にした矢先、運悪くナアイと一緒のところを見つかったというわけであった。


「客の選り好みなんかするから罰が当たったんだわ。そんな身分でもないのにね」


 トファーズはいくぶん自嘲気味に言う。


 自分にもっと力があれば、背後に近づいたビルゴに気づき、トファーズに警告することもできただろうし、それ以上にこんな無様な姿になることもなかったと、ナアイは悔やんだ。


「さあ、つまらないことをいつまでも気に病まないで、あたしの作ったスープ、食べるの? 食べないの?」

 気分を変えようと、明るい口調でそう言ってくれるトファーズの気遣いを無駄にはしたくなかった。

「いただきます!」

 口に運んだスープはとてもうまい。

 煮崩れたヒッチが舌の上でとろけるようだ。

「おいしい! ……こんなおいしいスープ、生まれて初めて食べた!」

「大袈裟ね!」

 トファーズは素直に喜んだ。

 笑顔を作ろうとしてうまくいかない様子に心が痛む。そう言えば、まだ正式に礼もしていなかったことに思い至った。

 ナアイはスープの残った皿を膝に置く。


「あら、もういいの?」

「あの……トファーズさん。昨日はありがとうございます。僕のために、あんな奴に命乞いをしてくださって」

「さん、は付けないで。トファーズでいいわ。で、それは一体、何のこと?」

「僕を助けるために、ビルゴをなだめてくださったんでしょう?」

 そのことばの意味に理解の及ばない様子で、わずか彼女は絶句した。

 やがて、合点もいったのか首を振る。

「とんでもない! あなた、なにか勘違いしてるわよ」


 ナアイは自分の助かったわけを知らされた。


 当たり前と言えば当たり前のようだが、身に覚えのないことだった。

 自分たちを死から救ったその剣士が何者であるかさえ、まったく分からない。

 ひょっとしてランドーザ、かとも考えた。

「赤い……その、髪をしていたとか?」

「髪の毛どころか、顔なんかわからなかったわよ。汚ならしいカブトを被って、見たこともない鉄の面当てをつけてたし」

 トファーズから聞いた様子からすると違うようだ。

 兜に、鉄の面当て……


 ――あの剣士か!


 郷で自分を見つめていた異様な剣士のことを思い出した。

 だが、やはり助けられるような理由に覚えはない。

 急に黙りこむナアイの様子を気にしたのか、トファーズは、気楽そうに言う。

「ひょっとして、知り合いとか?」

「いえ、郷で見かけただけで。 ……後をつけられてるのかな」

「怖いわね。だけど助けてくれたんだし」

「それはそうなんですが、もしこの場所にも」

「やめて、恐ろしいこと言わないで」

 トファーズは演技がかった様子に身体を震わせた。

「でも、ここは安全。昨夜も言ったけど誰にも教えていないし、誰も知らない場所なの」

 そのセリフは、まるで自分で自分を説得しようとでもしているように、ナアイには感じられた。

 同時に、これから自分が、逃れられない何かに巻き込まれるのではないかという、予感にも似た思いに捉えられていた。








 ジュニン・グルゥツは金髪を指でよじる。

 目の前にいる部下を、この場で思いっきり殴りつけてやりたかった。


「これはおおごとだぞ、ビルゴ」


 感情を抑えてしゃべるのには苦労した。

 なかなかゾアス閣下のようにはいかない。


 ジュニンは、巨体を心持ちすぼめ、神妙そうに座っていても、相変わらずふてぶてしい態度のビルゴに射殺すような視線を向け、くりかえした。


「貴様にはこれがどれほど大きな問題か、まったく分かっておらんのだ」


 尋問にも叱責にも、この無能な部下は自分の視線を巧みに避け、ばかのように同じ言いわけをするだけだった。


「だから、さっきから言ってるとおり、後ろからいきなり、じゃ、手のうちようがありませんやね」

「そうか、じゃ俺ももう一度いってやる。酔っていれば、遅れをとるのが当然だ!」

「はあ、しかし」

「どこの誰ともわからん奴にやられただけならまだしも、仕返しのために町中を駆けずりまわり、自分の恥を喧伝するとは!」

「ですから、あれは部下のやつらが勝手にやったことで」

「この期間中は身をつつしめと言ったはずだ! 忘れたとは言わさん。酒も、女も、喧嘩も、騒ぎもだ!」


 ジュニンの怒声は専用の控室から廊下にまで漏れだしていた。

 部屋の前ですれ違う郡守備隊の剣士は互いに肩をすくめて通り過ぎる。


「まぁ隊長分かってくださいよ。へへ、女にこけにされちゃ黙っておれんでしょ」

「守備隊がこけにされたときには、どう責任をとるつもりだ?」


 ジュニンの声は一段低まった。


「ビルゴ、貴様にひとつ教えといてやろう。今度の闘技会は、我が郡の力を内外にひろく知らせるためのもの。この五年の間、数多くのいくさをくりかえしてきたのは、すべてこの闘技会を目指してのことだったのだ。今、我らの微細な動きまでが巷の注目を集めている。その大事なときに郡守備隊の小隊長ともあろうものが、娼婦を襲い、子どもを手にかけようとし、あげく、流れ者にひとたまりもなくのばされた。こんなことが郡内、いや他の郡にまで広まったら、いいかビルゴ……貴様は俺の手で殺してやる、かならずな」


 さしものビルゴも顔を青ざめさせた。

 これは脅しではない。

 ジュニンは本気だった。


「一度だけ機会をやる。明日の闘技会に出してやろう。貴様に恥をかかせた男が出てきたら、かならず斃せ!」

 巨漢はゴクリとつばを飲む。

「も、もし、出てこなかったら?」

「出てくるさ。流れ者の剣士が闘技会目当てでなくて、何でここにいる? それだけじゃない。明日は郡守備隊の剣士以外、勝者は必要ない。 ……つまり、貴様がそうするんだ」

 ビルゴは少し間を置き、うめくように問いを発した。

「すると、午後の部、一番手ということですかい?」

「もちろんそうなるな。午前から何人勝ち抜いてくるかは分からんが、その全てを貴様に任せる。負けることは許さん。いいな?」


 ビルゴはジュニンの部屋から出るとすぐ、城の中庭に面した回廊を通り抜け、その一階に建てられた木造の郡守備隊の兵舎に向かった。

 そこには自分専用の私室があった。


 ――若造が!


 二十歳もそこそこのジュニンに、四十もそろそろ近い自分が怒鳴り付けられたのは癪だった。

 角張った顎をなでると、ビルゴは通路に大量の唾を吐いた。

 厚ぼったい唇がめくれ、その下から歯垢に黄色く染まった歯が見え隠れする。


 ――どんな野郎だか知らねえが、後ろから襲ってくるような奴だ、どうせ大した腕でもあるめえ。明日、もしその野郎に出くわすようなら、きっと、この俺になめた真似をしたつぐないをさせてやる


 途中、城に住み込んでいる下働きの卑民とすれ違う。

 その女はビルゴから身を避けるようにして足早に通り過ぎた。


 ビルゴは城の中でも嫌われていた。


 ――メスが!


 ふりかえり、好色な目で女を追うと、ビルゴは陰惨な妄想をはじめた。


 ――闘技会が終わったら、次はあの売女とこぞうだ


 トファーズの居所など、淫売宿の親父をちょいとひねればすぐに分かることだし、あのこぞうは郡代のゾアスみたいな黒髪だったから、町の中にいれば、必ず目立って簡単に見つかることだろう。


 ビルゴはトファーズを捕まえた後、どのようにしていたぶろうかと考えた。

 女性をさいなむことも、この男の汚らわしい性癖のひとつだった。


 以前、試したことのある方法を使うことにした。

 その想像はビルゴを非常に興奮させた。


 ――とりあえず明日だ、明日が終わったら


 充血した目で私室に閉じ込もると、ビルゴは淫虐な計画の、さらに細部を具体的に練りはじめた。

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