町 宿
リューフ・ブールフは五年前とはまったく違う場所に変貌していた。
ナアイがラシや郷の者と来たときは、郡主は高い城壁を巡らした城などに住んではいなかったし、きれいに並んだ石造りの頑丈そうな建物も、木で組上げられた小屋のような家々も、その姿すらなく、右にも左にもなだらかな丘陵地帯が広がっていたはずである。
いまいるところは、町の周囲をぐるりと囲む石垣の内側だった。
中央の城に向かって、荷車が並んで通れるほど広い、石で舗装された道が伸びている。道の両脇には大小さまざまの家が立ち並び、それらはみんな、商店やら屋台であるらしい。
道を通る人の頭で隠れ、並んだ店の先はどこまで伸びているのか見当もつかない。
これが、町、なのかと初めて見る様子に驚く。
だが、もっとも驚いたのは、人の多さとそれらの人々が造り出す喧噪のすさまじさだった。
老いも若きも、男も女も、広い道を埋め尽くすように、押しあいへしあい、せめぎあっている。
ものを売り買いするやりとりの声やら、怒声、子どもか、もしくは家畜のものらしい泣き声、ナアイの聞き慣れた鍛冶の鎚音、遠くでは誰かが喧嘩をしていて、すぐそばでは、どろぼう! と言う声があがる。
そういった、あらゆる音がごちゃ混ぜになり、良かれ悪しかれここには活気がみなぎっていた。
「こぞう、じゃまだよ!」
道の真中に立ちつくしている旅人を歓迎する人間はどこにもいなかった。
何人かに怒鳴られるうち、ようやく郷の者がよく泊まるという宿の名を思い出す。
そばの屋台で石細工を売っている青年に尋ねると、青年は値踏みするように、嫌な目つきでじろじろ見てから、首を振った。
買わないものには口もききたくないということだろうか。
道を往来する人々に次々声をかけてみたが、いずれもナアイを子どもと見て、ろくに返事もしないか、悪態をつくばかりだった。
今しも声をかけたのは、人の良さそうな中年男。
「それがね、俺もここへ来たばかりで、道を聞いたって、誰も教えてくれないんだ」
男は気弱げな笑いを浮かべ、ふたたび雑踏の中へ紛れていった。
ナアイはいまさらながら途方に暮れ始めていた。ランドーザたちのすすめを受けておくべきだったとも後悔した。
しかし、もう戻るわけにも行かない。
ひょっとしたら、誰か郷の者が通りすがるかも知れないという、あるはずのない可能性を思いつき、あたりを見渡す。
――だめだ、人が多すぎる
これ以上他人から邪険にされないよう、近くの店の壁際に移動し、考え込む。
目の焦点を合わせずに、ぼんやり往来する人々を眺めていると、いつからか、だれかの視線を感じた。
見覚えのない若い女が、道の真向かいから自分をじっと見ていた。
視線が合ったとたん、その女はナアイに微笑みかけ、往来の人を避けながら近づいてくる。二十歳をひとつかふたつ越えているような、目もとの涼しい美しい女だ。
薄化粧で、濃い赤に塗られた唇が目立つ。
「お困りのようね、あなた」
声を聞いた瞬間、背中はぞくりと総毛だった。
その感覚に困惑していると、女は顔を近づけてきて、何を探してるの、と尋ねる。
嗅いだこともない甘酸っぱいよい香りとともに、かすかに酒の匂いも漂う。
先ほどから尋ね求めている宿の名を告げると、女は眉間にしわを寄せ、まあ、とナアイの二の腕を軽くつねった。
「いけない子!」
女は腕をからませてきて、一緒にいらっしゃいと、耳元にささやく。
ナアイは見知らぬ女の案内に気も進まないまま、仕方なく手を預け、導かれるとおりに歩き出した。
「どこから来たの?」
女はトファーズと名乗った。
自分より背は高い。
「リュ、リュグベルリヤからです」
答えると、聞くたび総毛立つ声で、次の質問を頭上から降らせてくる。
「まあ、そんなに遠くから? ひと月くらいかかるのよね?」
「い、いえ、ここから二、三日歩けば着きます」
あら、そうだったわ、とけらけら笑い、女はナアイをしげしげと見た。
あなたの髪の色があんまり見慣れないもんだから、勘違いしちゃったのよ、といいわけのように言う。
髪のことを言われるのは嫌だったが、ナアイの髪の色に本当に感心している様子で、黒い髪ってすてきだわ、とほめられた。
トファーズは、大通りから外れた細い路地の奥へ奥へと案内していく。
奥路地は、石造りの背の高い建物に囲まれていた。
この細い路地でさえ、大通りと同様、砕石による舗装がゆきとどいている。
ナアイは今日何度目かもわからない驚きを感じた。
日の当たらない通路の空気はいくぶん冷えており、ときおり獣油の焼けた匂いやら、豆を煎る香ばしい匂いに混じり、すえたかび臭さが鼻をつく。
気づくと、こんなに細い路地なのに、思ったより人の往来は多い。
大通りと異なるのは、通りすがる男も女も一様に無口で、顔をうつむけていることだった。
誰も彼もナアイたちの脇を急いですり抜けていく。
大通りの喧噪が背後でだいぶ遠くなったころ、トファーズは足を止めた。
「ここよ」
かつて聞き知った、その名前を冠する宿は、奥路地の、さらに一番奥の突き当たりに店を構えていた。
「なんか……想像してたのと、だいぶ違いますね」
どことなく不気味な宿の様子に、思わずうめくような声を出してしまう。
「外からじゃ、ね。でも中は期待以上かもよ?」
トファーズは含みのある笑顔をナアイに向けた。
と、何か思いついたように訊く。
「ところで、ここのことは誰に聞いたの?」
郷で聞いた大人たちの話を告げ、とても親切で安い宿だと評判です、と結ぶ。
トファーズはナアイの言葉を、首をかしげて聞いていたが、急に真顔となった。
「それじゃ、あなたはここで、なにをするのか知らないのね?」
「なにを、って……ここは人を泊めるところでしょう?」
「そうね、確かに泊めはするけど。その、あなた女の人と泊まったことある?」
ナアイにもおぼろげながら、トファーズのいわんとすることがつかめた。
「あの」
顔から火が出そうになる。
次に言うべき言葉が見つからない。
トファーズはからめた腕をそっと外し、密着させていた豊満なからだをナアイから急いで離した。
「ごめんなさい。あたし、あたしてっきり」
羞じたようなトファーズの言葉を、ナアイは最後まで聞けなかった。
どん、と誰かに突き飛ばされる。
その勢いで売春宿の壁に体を強くぶつけた。
そばに立てかけてあった棒クイは、がらがらと音を立てて倒れる。
「この売女ぁ!」
雷鳴にも似たがらがら声が背後から響く。
トファーズの悲鳴が聞こえた。
起き上がったナアイの目に、小山のような巨漢が、彼女を殴りつけている光景が映った。
「だましやがって! こぞう相手に商売だとぉっ!」
ナアイは素早く背負子をおろし、その脇に吊った木剣を抜く。
「やめろ!」
怒声の合間をぬって、ナアイの声は路地に響きわたった。
巨漢は急に口を閉じると、ゆっくり顔を振り向ける。
陰気な目をしたヒゲだらけの男だった。
「なんだ、おめえは?」
抑えつけた声に、無気味な迫力がある。
気圧されそうになるのをかろうじてこらえ、木剣をかまえた。
巨漢はトファーズから手を離し、こちらへ向き直った。
彼女はそのままくずおれ、すすり泣く。
「ばかが! 死にたいのかこぞう」
巨漢はいまいましげに舌うちした。
だらしなく開いた
「くだらねぇ義理立てしやがって」
いきなり剣を横に薙いでくる。
予告も何もない無慈悲な一撃。
ナアイはかろうじてそれをかわせた。
「ふ? む」
巨漢は当てが外れたらしい、が、休まず痛烈な攻撃をしかけてきた。
巨体に似合わぬ敏捷さと、正確な打ち込みに、ナアイはまったく反撃の隙をつかめない。
――なんてやつ!
昨日、初めての実戦で余裕の勝利を得たため、調子に乗っていたと認めざるをえない。この巨漢は、追い剥ぎなどとは比較にならない相応の修業を積んだ男だ。
よく見れば相手の力量はわかるはずだった。
にもかかわらずこんな不利な戦いを挑んでしまうとは!
相手の剣は肉厚で幅の広い長剣。
実用一点張りの、頑丈さと重さだけが取りえの武器。
その剣をたった一撃受けただけで、ヒコシュの軽い木剣など、ひとたまりもなく折れてしまうだろう。
剣を合わせず、ひたすらかわし続けるしかなかった。
しかし、狭い路地の突き当たりに押し込められていては、それにも限界がある。
いつのまにか集まってきた見物人たちもナアイの敗北を予期し、無言で同情の視線を送っていた。
「ビルゴ、やめて! まだ子どもじゃない!」
トファーズが巨漢の足にすがりついた。
わずか、隙ができる。
「やっ!」
その隙めがけ、鋭くナアイは木剣を打ち込んだ。
しかし巨漢は女を足にまとわりつかせたまま素早く剣を返した。
空中で二本の剣がぶち当たる。
べき、という音とともに木剣はふたつに折れ、その直後、ナアイは頭に衝撃をくらってよろめいた。
折れた木剣の端が頭に当たったのだった。
――う?
打撃にもうろうとしたナアイは自分が頭を押さえ、尻もちをついたことにも気づかない。目の前の巨漢が異様にふくれあがり、視野をふさぐ。
意識はそのまま闇の縁に落ち込んでいった。
巨漢ビルゴは気絶寸前のナアイに最後の一撃をくれてやろうと、にやにや笑いで長剣を大上段に振り上げていた。
背後に近づいた恐るべき災厄には注意も払っていない。
その剣士はビルゴの背後に、音もなく近寄っていたという。
不思議なことに、いつどこからどうやって現れたのか、見物人の誰の記憶にも残っていなかった。
剣士のすすけたマントは、その中央でゆらめき、長剣を振り下ろす寸前のビルゴは突然白目をむくと、泡を吹いて倒れた。
剣士は通路の上で完全に気絶している少年を一瞥し、一瞬動きを止めると、次の瞬間にさっと身をひるがえし、路地から出て行った。
風のような動き。
――何者かは知らない。ごつい鉄の面当てを下ろしていて、顔も見えなかったよ
剣士の去った直後にやってきたビルゴの部下たちが、見物人にいくら問いただしても、その正体を知る手がかりは何も得られなかった。
大柄な人物であるということと、全身が薄汚れた黒いマントで覆われ、見慣れない兜と、異様な鉄の面当てをつけていたという情報から、どうやら剣士らしいと判明しただけだった。
――流れ者の剣士――
そう結論づけるしかなかった。
ただし、なぜその人物がビルゴから該当する少年、あるいは娼婦、を助けたかについて、納得のゆく答えは得られなかった。
手がかりを得ようにも騒ぎのもととなった被疑者たちは全員、とうにその姿をくらましていたのだった。
仮にも郡守備隊の小隊長が、流れ者風情に悶絶させられたのでは、エリュン郡守備隊設立以来の不祥事になる。
だが闘技会をひかえてこれ以上騒ぎを大きくするわけにもいかない。
ビルゴの部下は関係者の追求と捜索を中止した。
相手が剣士なら、闘技会に出るつもりかも知れない。
面子をつぶされた礼なら、その時に充分してやる、と考えたのだった。
彼らの判断は正しかった。
少なくとも、その半分は。
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