決 意

「母さん。話したいことがあるんだ」


 戸外が闇に包まれる直前、ナアイは戻った。

 小屋に入るなり、唐突に話を切り出す。

 草原から戻るあいだ、どうやって家族を説得するか思い悩んだすえ、結局、単刀直入に話をするのがもっとも自分らしいやり方だと考えていた。

 なるべく声がうわずらないよう、落ち着いて話そうと気を遣う。

 妙にかすれた声となった。


 ヘンニは食卓の向こうにいて、こちらに背を向けていた。

「これまで、ずっと黙っていたけど、言わずにおこうとも考えたんだけど、でもやっぱり、母さんにはどうしても話さないと」

 言葉を切り、相手の様子をうかがう。


「ヘンニ? 母さん?」


 彼女はこちらを向くこともしない。


 不安を感じてナアイは小屋の中を見わたした。

 気づけば、従姉妹の姿もない。

 食卓は朝出かけたときのままだ。


 ようやくナアイは異変を察知した。


「ラフィは? まだ帰ってないの?」

 ヘンニは体ごとゆっくりナアイのほうへ向きを変えた。

 視線は食卓の上をさまよい、無表情だった。

「少し具合が悪いの。寝てるわ」

「なんだか変だよ? 何かあったの?」

 ヘンニは青ざめた顔で、首を振るだけだ。

「ちょっとラフィの様子を見てきていい? あとで」


 突然ヘンニは鋭く声を発した。


「おまえは剣士になるつもりなんだろ?」

 ナアイは息を呑む。

 従姉妹への信頼が一瞬ゆらいだ。


「だいぶ前から分かっていたよ。十五になったら、おまえは闘技会に出たいって。いつかそう言うだろうと思ってた」


 見破られていた、悟られていた、という事実に、一瞬で血の気が引く。


「闘技会は手っ取り早いからね。なりたいなら、バパラマズの剣士にでもなんでもなればいいのさ。あたしは……母さんは止めないよ。止めても無駄なんだ。血筋ってものは」

 血筋、と言われても、よく分からない。

 寸時混乱した。

「母さん、ぼくは、ラシの仇を……」

 ヘンニはようやく顔を上げ、はじめて仮の息子の目をまっすぐに見た。


 ナアイは自分の決意のもととなる、この五年の変わらぬ思いを、育ての母である叔母へ伝えはじめる。




 鍛冶職人のラシは、近郊はおろか遠く隣国にまで、信頼に足る剣鍛冶としての風評を持ち、同時に剣士としても名高い男だった。

 若いころ、自分のふるさとである辺境の僻地〈リュグベルリヤごう〉をとび出し諸国を旅し、北の大国では剣技を王侯貴族に教える剣術指南でもあったという。

 ラシ同様、さとを見限り、遠い異国で暮らしていた兄夫婦、つまりナアイの両親が、生まれたばかりの赤子を残して病死したとき、ラシは仕事も身分も振り捨て、あわれな境遇の甥を引き取った。

 それがなければラシは、あるいは北の大国随一の剣士として、富と名誉を手中にし、王候貴族達の寵愛を一身に受けていたかも知れない。


 まだ幼いナアイに、ヘンニがなにげなく話したそのことで、ラシは彼女を怒鳴り付けたことがあった。


『ばかめ! あれほど話すなと言ったのに! 二度とそんな話をするな』


 あまりの剣幕にヘンニもナアイも凍りついた。

 当時、乳飲み子だったラフィは恐怖に泣き出した。


 普段、めったに怒気を表わさない叔父だけに、その出来事は遠い記憶にいつまでも残っていた。

 それに、なぜ叔父があれほど怒ったのか、その理由もいまなら理解できるような気がしていた。

 

 ラシは自分に不必要な負い目を負わせたくなかったのだ、とナアイは考えている。


 きっと己の過去を知らせることで、その輝かしい経歴を閉ざしたのも、世の趨勢から取り残されたような故郷の僻地で、ほそぼそと鍛冶工房を営んでいるのも、自分を引き取ったからだと、感じさせたくなかったのであろう。


 物心ついてすぐに、ラシもヘンニも自分たちは実の両親ではないと、ナアイに打ち明けていた。


「ねぇ、ラシ。ラシは本当のお父さんじゃないの?」

 ある日そう尋ねると、かりそめの父は微笑みながら、目にいっぱい涙をためたナアイの頭に手を当てた。

「ああ、そうだよナアイ。おまえは俺の兄弟の子どもだ。だがね、俺は本当の子どものように、おまえを大切に思っているんだよ」


 自分の頭をなでる、たくましい叔父の腕に、幼いナアイは心から安心して飛び込んでいった。

 事実、ラシもヘンニも、彼らの実子ラフィとへだてなく、いや、むしろ兄の子である自分を嫡子として愛し、育てたのだった。

 いまもヘンニは「叔母さん」ではなく「母さん」と呼ばれるのを好んでいる。

 むろん、ナアイも彼女を母親として考えていた。

 剣の師でもあるラシは、単なる叔父や父親以上の存在だった。


 だが、その後のあの怒りを見たことで、かえって、叔父夫婦に対するもうしわけなさと罪悪感が芽生えてしまったようにも思えるのだった。




 ラシはナアイが生まれてから五つ目の冬を越したとき、突然、剣の扱い方を伝え始めた。

 おそらく、異国人の母親ゆずりであろう黒い瞳と毛髪を持つ甥が、先の人生でなんらかの差別を受けたとしても、自らはね返す気力と実力を持たせようとしたのだろう。

 ナアイは生まれつき剣を扱うのに向いていたようだった。

 上達も早く、ラシはその出来のいい生徒ぶりに感心した様子だった。

 なによりナアイ自身、剣術を気に入っていた。


 やがてナアイは家業の鍛冶の仕事にも興味をおぼえる。


 たのむと、ラシは鍛冶の仕事も教えてくれたが、不思議なことに、彼は自分が金槌を握るより、木剣を握る方を喜ぶのだ。


「おまえさんは剣士になりたいか?」

「うん、ラシみたいになりたい」

「それじゃ、〈剣士の十法じゅっぽう〉を教えてやろう」

「けんしのじっぽう……なに?」

「ジュッポウだ。剣士は、どんなときに剣を使うべきか、ということだよ」

「ふーん……」


 あらゆる国のあらゆる剣士が心得ているべき剣王ドゥールの<剣士の十法>を教えてくれたのも、ラシだった。


 彼の死は、ナアイの心に深く大きな穴を開けた。

 あのときも父であり師である叔父の勝利を信じて疑わなかった。


 ラシは輝ける太陽だった。


 それはしかし、素性も分からない異国から来た剣士の技により一瞬にして砕かれたのだ。


 ナアイはラシの仇を討つのは自分に課せられた使命だと信じている。

 剣を教えられたときから、彼のような剣士になるのは夢であったけれども、その思いが決意に変わったのは、その死によってであった。


 ――ゾアス・ヴェーブを討つ!


 それが今回の旅の目標であり、剣士になるもっとも大きな動機のひとつだ。

 そのためには〈剣士の十法〉に従い、まず剣士となり、ゾアスに挑戦する資格を得なくてはならない。

 闘技会に出て剣士になった後は、郡守備隊で経験を積み、実力をつける。

 それから、いまやエリュン郡主代行としてバパラマズに次ぐ権力者となったゾアスに勝負を挑み、正々堂々討ち果たすつもりだった。


 ――何年かかるか分からないが、必ずそれを成し遂げてみせる




 ヘンニはずっと無言のまま、ナアイの語ることばに耳を傾けていた。

 どう受け止めたのか、分からない。

 が、話すべきことはすべて話したつもりだった。


「そう、あんたはまだ」

 ヘンニは目を落とした。

 食卓に置かれた燭台の光が彼女の顔を、さらに悲しげに浮かび上がらせた。

「あのひとは剣士らしい死に方をしたよ。……あれが剣士の最後さね。けど、昨日だったら、おまえが剣士になるといっても止めただろうけどね」


 やはりヘンニの話はよくわからない。


「昨日と今日の、何が違うの?」

 その問いには答えず、やおらヘンニは、パンと干し肉、ケル山羊のチーズを取り出し、ナアイに与えた。夕飯の替りというわけだった。


「母さん!」

「水差しのは古いから、水瓶から汲みなさい」


 ヘンニは立ち上がると、小屋の奥にあるついたてに向かった。

 その向こうにはヘンニの寝床がある。

 寝るにはまだ早い時間だが、ヘンニはもう休むつもりらしかった。

 その背中へ声をかけた。


「母さん、明朝、行きます」


 好きにしな、とつぶやき歩を止めると、ヘンニは振り返り、早いのかい、と付け加えた。

 ナアイが無言でうなずくと、ついたての後にその姿は隠れた。


 叔母を見送り、ナアイは従姉妹の容体を見に行くため立ち上がる。

 もうひとつの燭台に火をともした。

 それを手に持ち、小屋の中にあるたったひとつの扉を開ける。


 掲げた燭台の光が室内の少女を照らした。


 昼間見た愛らしい顔に疲労をのぞかせ、年下の従姉妹は眠っている。

 寝床に近づくと、疲労と見えたのは泣き腫らし、むくんだ顔のせいだった。


 どうやら闘技会のことはラフィにも知れているらしい。


 ――ごめんね。何も言わずに行くけど、必ずまた戻ってくるよ


 頬にそっと口づけをすると、従姉妹の寝室から出ていった。





 ナアイが小屋から出て納屋に入ったことを音で知ると、ヘンニはむくりと寝床から起きあがる。

 虚空の闇に語りかけた。


「思うとおりになってうれしいかい?」


 闇からの声。


「俺の思いではない」

「あんたは、わたしからすべてを奪っていく。あの子もラシも……姫様も」

「……あの女の話はよせ」

「恐ろしい人だよ、あんたは」

「ラシは俺との約束を果たしてくれたようだ」

「あの子を、ナアイをどうするんだい?」


 ほんの少し沈黙したあと、闇は答えた。


「どうもしない。それは、あれ自身が決めることだ」





 屋外の納屋に向かう途中、家畜小屋からバリが出てきてナアイの後に従う。

 少年はバリとともに納屋に入り、隅の寝床に腰掛け、出立の荷造りをはじめた。


 ヘンニの態度は気になった。

 叔母は結局、ナアイが剣士の道に進むことを認めたようだった。

 しかしそれは、自分の決意の固さを聞くまでもなく、最初からなにか別な理由によって、そうせざるを得なくなっているようでもあった。

 だが、そんな不審も行き当たりばったりの荷造り作業を経て、意識の隅に追いやられていく。


 片道二日、滞在三日の道程にふさわしく、荷造りは思うより簡単に終わる。

 帰りのことは考えない。

 モカドの木剣は置いていき、かわりに旅行でよく使われる、軽いヒコシュの木剣を持っていくことにした。

 試合用の木剣なら闘技場で貸してもらえると考えていたからだった。


 すべての準備を終え寝床を整えると、軽く伸びをして横になる。

 ふいに昼間見た剣士の姿を思い出した。


 ナアイはあの剣士から出ていた威圧感のような、ある独特の雰囲気を知っている。

 それは、ラシによってなじみ深い、〈達人〉特有の風格とも言えるものだった。


 ――いったい何者だろう


 準備の終わるのを待ちかまえていたバリが、足もとにすりよってきた。

 頭部の触覚を足首へからませる。

 ナアイはその生き物を抱き上げた。


 バリは〈なあい〉と鳴く。


 クルシクルは言葉をしゃべる四つ足の獣だ。

 知能は高く、家畜の番程度はこなす。

 もちろんしゃべると言っても、ただ声音をまねするだけで、その生涯に三つから五つ程度の単語しか話さない。

 ある日突然発語するのがこの獣の不思議な特性だから、人と会話することはできないし、特定の言葉をおぼえるようにしつけることもできない。


〈なあい〉という単語は、バリが最初にしゃべった言葉だ。

 ナアイは小さな友達へ語りかけた。

「お前ともしばらく会えないな」


 〈でゅろう〉 〈でゅろう〉


 バリの触覚が、うねうね動く。

「んん? なんだそれは、新しいことば? ……いつおぼえたの?」

 聞き慣れない単語を話すバリを見つめた。

「でゅろう、デュロウ。名前? なのかな?」


 〈でゅろう〉 〈なあい、なあいなあい〉


 バリは嬉しそうに鳴いた。

「わかったよ、まあクルシクルだからな、おまえは。勝手にどっかでおぼえたんだろうさ」

 ナアイは屈託なくバリに話しかける。

 しばらくバリのなめらかな毛を撫でているうちに、そろそろと眠りに引き込まれていく。完全に眠りに落ちる寸前、従姉妹から聞いた話を思い出した。


 ――そういえば、昼間言ってたヘンニの話って、なんだったんだろう


 それ以上深く考えることもなく、そこでナアイの意識はとぎれた。

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