少 女

 薄暗い森の中、家に向かう道を下りながら、ラフィは登りの時とは正反対の気持ちを味わっていた。

 自分が疑われるなんて思ってもみなかった。

 もちろん、ナアイが本気で言ったのではないと知っている。

 だが、ほんの少しでも疑うようなことを言われたのがしゃくだった。

 何のために、母親に嘘をついてまで、これまで〈あのこと〉を隠してきたのか。


 事実この一年は、従兄弟が剣術の鍛錬に熱心になればなるほど、ヘンニも自分に、ナアイの様子に何か変わったことがないかとか、どんなことを言っていたかとか、頻繁に探りを入れてきていた。

 そのほとんどに、さあ、とか、知らない、と答えるのが、どれほど大変で気の重くなることなのか、三つ年上のあいつにはちっとも分かっていない。


 ――こんなことなら、あんな約束なんてしなきゃ良かった!


 しかしその約束は、秘密をナアイと共有している、という、後ろめたくありつつも、言いしれぬ喜びを彼女に与えている。

 ラフィはすぐにそのことばを心中で打ち消した。


 ――大体、ひまさえあれば剣ばっかり振っているのに!


 剣士になりたい、なんてことが、母親にばれないわけはないだろう。


 腹立ちまぎれに、大声でタルサ叔母の口まねをしてみる。

「男なんてばか。人の気も知らないでさ!」

 自分も結婚したら、叔母みたいに、良人おっとをそんなふうに言うのだろうか。

 ラフィはその想像に頬が熱くなるのを感じた。


 ――従兄妹同士というのは珍しいことじゃないわ


 村郷の中にも何組かそういう夫婦はいる。

 だから自分とナアイだって、そう悪い組み合わせとは思わない。

 友達のヴェーンは、血のつながりがあると、変な子が生まれると言っていたけれど、本当のことだろうか。


 ところどころ道のまんなかに張り出した、大きな木の根を注意深く避けながら、ラフィは十二の少女らしい想像をたくましくふくらませていた。

 さっきまでの不満はウソのように消えている。


 ――三冬も越せば今の見習いから、店を構えるくらいの腕になるぞ


 鍛冶屋の親方が、ナアイの物覚えのよさに、母にそう請け合っていた。

 おまけに、やせて見えても、彼は骨太で肩幅の広いしっかりした骨格を、しなやかな力強い筋肉でつつんでいる。

 さとのおない年にくらべ今はやや小柄でも、あと二、三年ほどで筋肉質のがっちりした体格となり、背丈もまだまだのびるに違いなかった。

 そうなると、自分にはますます従兄弟が好ましく感じられるだろう。


 やがてナアイはラシが遺した鍛冶工房を受け継ぎ、郷の鍛冶屋として独り立ちするに違いない。

 三年たてば従兄弟は十八、自分は十五。仮に親方になるのが、もう二、三年のびたとしても、所帯を持つのに遅すぎることはない。

 そこまで考えてラフィは、またいつもの問題につきあたった。


 ――本当に剣士になりたいのかしら?


 たぶんそうだろう。

 でなければあれほど熱心に剣の練習ができるものではない。

 急に、ナアイが剣士になる、ということが現実味をおびて彼女の心をくもらせた。

 先ほどの従兄弟の態度がひきおこした新しい不安だった。


 これまでは、もし剣士になるとしても、それは父親のように、普段は鍛冶屋をしながら、隣の郡と小競り合いがあるとき、郡主の依頼で剣を振るう、程度のことだと思っていた。


 ――でも、もし、自分の思っている以上のことを考えていたとしたら?


 突き出した木の根をよけそこね、ラフィはうつ伏せに転ぶ。

 突然、ひとつのことばが彼女の脳裏をよぎった。


 ――闘技会!


 いつだったかナアイを訪ね、村郷の鍛冶工房に行った帰り、何人かの友だちと話したことを思い出した。


『闘技会に出場すると、賞金がもらえるんだぜ』

『ふーん』

『出場するだけで二十五エマルがもらえるってさ。腕がいいと、バパラマズお抱えの剣士様になれるって。別に剣士になりたいわけじゃないから、とりあえず出て、賞金だけもらうのもいいなあって』

『やめときなさい、ケガをして恥をかくだけよ。あんたは物売りの方が似合うわ』


 そのあと、その子の苦い表情を見て、みんなで大笑いしたけれど、闘技会に出ると剣士になれるんだわ! 


 あまりにも単純すぎて、これまで考えもしなかったことが頭の中で急激にまとまり、冷厳な結果が、ラフィの記憶と思考の奥から浮かび上がってきた。



 良人おっとの葬式を済ませて以来、母ヘンニは極端に他人とのつきあいを避けるようになった。

 ラシの死からひと冬を越したとき、とうとう彼女は幼い自分を連れ、ナアイとともにラシの工房近くの家に移り住んだ。

 その家は村郷を離れた高い岩山のふもと近く、うっそうと繁る森の際に建てられていた。

 工房は少し離れた川辺にある。

 今は亡き父親が、良い剣を作るのに必要な砂鉄と水とを、岩山とそのふもとの清流とに求めたためであった。


 ラフィは家に戻ると、まっすぐ井戸を目指した。


 泣き腫らして火照った顔に井戸の水が心地よい。

 しかし、水桶の水面に映る顔を見て、再び泣きそうになる。

 束ねていた髪の毛はほどけ、茶褐色の豊かなうねりは、乱れに乱れていた。

 髪飾りもなくしてしまったようだ。

 泣いたことがばれないように、森の中をあちこち歩き回り時間をつぶしたのに、それが何の役にも立っていない。

 今、母親から腫れた目の理由をきかれたら、もう、例の約束を守り通す自信もない。いや、むしろ自分の考えを母親にぶつけ、ナアイが家を出ると言い出したら止めてもらうつもりだった。


 気の晴れないまま、顔をうつむけ、頑丈な小屋の戸を開けた。


 ――あれ?


 西日のさしこむ部屋の中には人の気配がない。

「母さん?」

 静まりかえった居間の雰囲気に、ラフィは身ぶるいした。

 そろそろ夕食の支度にかからねばならないというのに、かまどには火も起こされていなかった。


「母さん? どこ!」

 悪寒にも似た孤独感をふりはらおうと、母親を探しまわる。

 家の中にも外の納屋にも、その姿は見えない。


 家畜小屋に入って行くと、寝そべって家畜の番をしていたクルシクルのバリが、足下にじゃれついてきた。

「うるさい! バリ! あっち行け!」

 その小動物は小屋の隅に飛びのき、特有の触覚をうなだれさせたまま、ご機嫌ななめの遊び相手を恨めしそうにうかがう。


 涙が再びあふれ出した。

 直感的に母親の行く先を予想し、探すべき場所を定めた。

 家畜小屋の扉を閉めもせず、少女は父親の鍛冶工房を目指し走り出す。



 ラシの鍛冶工房は主を失ってからというもの、ナアイが時々掃除に行くぐらいで、母は過去を思いだしてつらくなるのか、滅多に近寄ろうとはしない。


 ラフィも幼いころ、安置されている無惨な父の死骸を工房の窓からのぞき見てからは、そこを忌避するようになっていた。

 特に、そろそろ日も落ちかけようとするこんな時刻には、昔も今も一度も行ったことはない。


 目的地にたどりつくと、日はもう山陰に隠れていた。

 夕暮れの薄闇にうかぶ小屋の姿は想像以上に無気味に感じる。

 夜をひかえた空気が、勢いよく流れる川水の冷たさを素肌に伝えてきた。


「母さん、いる?」


 工房の入り口に立ち、震える声で母を呼んだ。応答はない。

 中に入って行くのは恐かった。

 だが、ためらっていても仕方がない。

 ラフィは扉の取っ手に指をかける。

 こんなとき、ナアイが一緒にいてくれたらと思う。

 扉は大きくきしんで開き、少女を震え上がらせた。


「母ぁさぁん!」


 真っ暗な小屋の中からは、やはり誰の返事もない。

 これ以上、もう一歩も小屋の中に入るつもりはなかった。

 どのくらい扉の前で立ちつくしていただろうか、あきらめて引き返そうと振り返った。

 と、急にその視野は黒い影に占領された。


 ――!


 大きな黒い影が背後に立っていた。

 ラフィはその場にしゃがみ込み、もはや、影の背後から聞こえる母親の声に反応することもできなかった。


 全身を覆うすすけて変色したマントから手を伸ばすと、その〈影〉は、失神した少女を軽々とかついだ。


 そうしてヘンニと連れだち、彼女たちの家へ向かった。

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