野 望

 ナアイは木剣を振るう。


 眼前には、古木に布を巻き、地面に深く埋め込んだクイが三本並んで立っていた。

 それら敵に見立てたクイ=擬敵を木剣で打ち付け、ひたすら早打ちをくりかえす。


 鍛錬を始めた早朝には黒々としていた北東の山脈も、いつしか中空にのぼる早春の太陽に照らされ、その地肌を緑にいろどっていた。

 自分の立つ草原も鮮やかに色づき、緩やかな風は緑色の波となって足もとにまとわりつく。


 ふと、手を止め、ナアイはこわばった右手の指を木剣から引きはがした。

 そうして額に巻いた布からしみだす汗をぬぐう。

 抑えつけていた呼吸を一気に開放し、ほう、と大きなためいきをついた。


 モカドの大枝から切り出された木剣は丈夫だが、大きく重く、まだ扱いづらい。

 長時間の鍛錬で、両腕はすでに限界近く疲れきっていた。


 ――それでも前の春よりは、ましな振りになったな


 ナアイはようやく十五歳になった。

 叔母によれば、さとの同年代に比べ、小柄で、痩せて見えるらしかった。


 肉の少ない頬にできる淡い陰影、細くとおった鼻筋、その下でやや〈への字〉に結ばれた薄い唇、とがった顎は、実際以上に痩せた印象を与えるという。

 ただ、彼をもっとも特徴づけているのは、切れ長の眼からのぞく黒い瞳と、漆黒の毛髪だった。


 郷の中には誰一人、そのような容姿を持つ者はいない。


 疲労した肉体をいやすため、ナアイはかたわらの大石に腰を下ろし、うすぼんやりとラシのことを考えた。


 ――軽々とやっちゃってたなぁ


 叔父はかつて、モカドの木剣を目にもとまらぬ速さで振るい、擬敵を五本あっという間に叩き伏せて見せた。

 自分はまだ三本でも精一杯だ。


 ――でも、もう、ラシは喜ばない。どれほど上達しても……


 にわかに叔父の最期を思い出した。

 五年前の、あの試合のことを、ありありと思い描く。



「また恐い顔してる」 


 黒い回想をさえぎり、声がした。

 従姉妹のラフィだった。


「父さんのこと考えてたのね」

 言い当てられ、ぎくりとする。

「ナアイがその顔になっているときは必ず」

「なにしに来たんだ」


 その理由は明白だった。

 けれど、物思いにふける姿を見られた気恥ずかしさから、思わずとがった声を出してしまう。

 彼女は無言で昼食の入った布包みを差し出すと、となりに座った。


「母さんがね、今日は早く帰って来なさいって、なにか大事な話があるんだって」

「……何だろう?」

「わかってるくせに」

「とすると、あのこと?」

 ラフィは首を横にふった。

「ううん、本当は知らないの。でも母さん、いらいらしているようだったわ」

 叔母に感づかれたのか、と一瞬息を詰まらせる。


 ヘンニには、できれば直前まで黙っているつもりだった。

 だが、どこで分かったのだろう、ここ数日の自分の行動が、それを彼女に気づかせたのか、いや、待て。

 もうひとつの可能性を探ってみた。


「まさか、話したんじゃないだろうな」

 従姉妹の表情は急激に変わる。

「あたしが? ばかみたい!」

 ナアイの手から布包みをひったくると、ラフィは荒々しく立ち上がった。

「あたしから話してほしいの? 本当に話すわよ! 話してもいいのね?」

「分かった! 分かったから。疑って悪かったよ!」


 ――この様子では、彼女から秘密が漏れたのではなさそうだ


 真っ赤になって怒るその態度に、安心する。

「まあ落ち着いてよ、ラフィ。腹がへって死にそうなんだ。」

 ラフィは昼食をナアイに投げつけた。


「あたし帰るわ。早く帰って来るのよ!」

 母親そっくりにそう言うと、彼女は一度も振り返ることなく、来た道を小走りに戻っていく。

 三つ年下の従姉妹の後ろ姿を見送り、大石の上に散らばった昼食を顧みて、ちぇっ、と舌打ちした。


 ナアイは剣士になるつもりだ。


 もう何年も前のこと、ある日ラフィにその決意を打ち明けた。

 彼女はくるくる動く大きな目を自分へじっと止め、しばらくそのままに、やがて小声で、父さんのせい? と訊いた。

 黙っていた。


 ――母さんに話す?

 ――いや……


 ラフィは、じゃ言わない、と約束したきり、以来、秘密はしっかり保たれている。

 ナアイの疑念は、彼女の守秘に対する礼儀を著しく欠いていた。

 怒るのも当然かな、と自省する。


 ――まあいいさ、あいつの機嫌ぐらいすぐ直せる


 従姉妹のことを頭から追い出し、ナアイは散らばった昼食を拾い集めた。

 泥のついていない、食べられるところを口にほおばりつつ、剣士になるための具体的計画について考えはじめた。

 数日前に立案したばかりで、ラフィにも内緒の、それはまだ、自分ひとりの秘密だった。


 数年前から、ナアイは家計を助けるため、村郷むらざとの鍛冶屋で見習いをはじめている。


 五日前、親方の使いを予定より早くすませ、鍛冶工房に戻った。

 工房に入ろうとしたとき、ちょうど郷を訪れた細工商と親方の話を立ち聞きしてしまったのだった。


『それがさ、昨日剣を握ったばかりの農夫とか、商人の子せがれとか、ひどいのは、道ばたの物乞いまでが、職と報奨金めあてに出場してるのさ』

『へっぴり腰かね?』

『剣の先っぽを、がちゃがちゃ合わせるだけで、へっぴり腰にもなってないやね』

『そりゃひどい。じゃあ今回の闘技会はつまらんなぁ』


 ラシの死後半年ほど経ったとき、エリュン郡主ぐんしゅバパラマズが突如、闘技会の開催を郡内ぐんないに発布した。

 十五歳以上の男子なら、職業、身分を問わず誰でも参加でき、優秀な成績を残した者には報奨金と、郡主の認定剣士とされる特典もある。


 長年続く隣郡デテラとの小競り合いも年々激しさを増しており、闘技会開催の目的が、同時期にバパラマズの設立した<郡守備隊ぐんしゅびたい>増強にあることは明白だった。

 隣郡との抗争を有利に進めようと郡内の有能な剣士、あるいは才能のある若者を徴発するという意図なのだ。


 報奨金はまた、入隊の支度金でもあった。


 ナアイは闘技会出場資格の下限である十五歳になるのを心待ちにしていた。

 もちろん、出場者中もっとも若輩で出場するということに、若干の不安を持っていたが、最終的にそれを吹き飛ばしたのは、ラシ・クルスムという剣の達人に付いて基礎から剣の扱い方を学んだ事実だった。

 同時に、彼の死後、習ったことをひとつひとつ思い出しながら、独自の研鑽に明け暮れた日々も、ナアイに闘技会出場の揺るぎない決意を固めさせていた。


 細工商の話によって、九度目の闘技会はいよいよ十日後に迫っていると知れた。

 待ち続けた機会は、ついに訪れたのだった。


 パンと干し肉の昼食を済ますと、ナアイは木をくりぬいた自作の水筒で水を飲んだ。飲み終わると、それを枕にして、大石の上であお向けになる。

 闘技会開催まで、あと五日しかない。

 闘技会の開催場所となっている郡主バパラマズの館までは歩いて二日ほどの距離だが、余裕を見て今晩出立するつもりだった。


 バパラマズの館周辺は、たびかさなる闘技会により多くの人が集まり、いまではちょっとした町になっているという。

 時間に余裕があれば、そこを見物するのも悪くはない。


 しかしそうなると、叔母とラフィに、今晩、闘技会に出場することを明かさなくてはならない。……その光景を思い浮かべ、ナアイの気分は果てしなく重くなった。


 ――ヘンニにどう切り出すか。んぅ?!


 自分に向けられている何者かの視線を感じ、素早く起きあがる。


 その剣士は、大石の上で横になっているナアイを見つめていた。

 いや、実際は兜についた面当てでその目はよく見えなかった。

 しかし強烈な視線はそれでも自分に伝わってくる。

 剣士は自分から十歩ほど離れた場所にいた。

 どれほど前からそこにいたのか、全く気づかなかった。

「あ!」

 足もとの木剣を探り当て、構えようとしたとたん、剣士はさっと身をひるがえし、早足で立ち去っていく。


 大柄の剣士だった。


 くるぶしまである埃まみれの変色したマント、ところどころ錆をふき赤茶けた兜、剣の柄頭がマントの正面を割り、ぬっと突き出していた。

 異形の面当てに開いた一文字の窓から、刺すような視線を送ってきたこと以外、剣士の顔や表情をうかがい知ることはできなかった。


 身のこなしといい、隙のない後ろ姿といい、ただものではないと知れた。


 どうすればよいのかわからず、ナアイはその剣士が村郷の方角へ向かうのを、ただ呆然と見送った。

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