第四回 侠客
誰か来る。
そう感じたのは、昼餉を終えて午後の仕事に励んでいる時だった。
手は止めなかった。気配は山門の外にある。道に迷った旅人か、付近を通る
読めない。
(昔は、もっと鋭かったものだ)
眠っていても人が近付くと目を覚まし、人数やそれが人か獣かまで読み取る事が出来た。
感覚が鈍くなったのは、平穏な生活の賜物というものかもしれない。
甚兵衛は、気にせず鑿を進めた。
今は、武士像を彫っている最中だった。騎馬武者で、手には十文字槍を持っている。髭は長くして、水滸伝の
武者象の制作は、依頼を受けての事ではなかった。ただ、彫りたいと思って始めた。置物であるが、子ども向けの玩具としても売れるだろう。
無視していた気配が近付いてきた。山門の内にいる。人数までは判らないが、殺気は感じられなかった。もしかすると、殺気を消しているのかもしれない。
(もはや、始末屋として失格だのう)
甚兵衛は苦笑し、脇の一刀を手繰り寄せた。
先日投げ殺した志士の仲間だろうか。他に、敵となる相手は思い浮かばない。始末屋から足を洗う際に、悪縁は全て断った。自分を仇として狙う者がいないわけでもないだろうが、この稼業というものは偽装に偽装を重ねている。元締め以下、密偵などの協力者が情報を売らない限りは、素人が始末屋まで辿り着く事はまず不可能だ。
(臆病になる必要もないのだが)
と、自分に言い聞かせた。
久し振りに人を殺したからだろう。いや、臆病は将来のものだ。忘れていた。子どもの時分には、一人で眠るのが怖いと泣いたものだ。痛みにも死にも臆病だった。だからこそ、五十路過ぎまで生きてこられたのかもしれない。
しかし、今となってはどうでもいい。生きようか死のうが、どうでもいい事だ。
甚兵衛は戸を開けた。
「あんたは」
目が細く、背の低い男が立っていた。その背後には、強面の男達が番犬のように控えている。
「これはこれは、松牧の衆」
甚兵衛が不機嫌そうに言った。
松牧一家の長右衛門と、その子分衆である。甚兵衛にとっては招かざる客だった。
「連れ立って、儂に何か用件でも?」
「へえ。実は、この度は是非ともお聞き遂げて頂きたい儀がございまして」
と、長右衛門が深々と頭を下げた。
長右衛門は、腰の低い男だ。若い割りに粋がる所はなく、町民の慶弔事には欠かさず銭を贈る気配りも出来る。長く暗黒街で生きて来たが、ここまで出来た親分は少ない。日陰者である事を自覚し、市井の隅で生きさせてもらう事に、恩義を感じているのだ。貫録ある親分として慕われるのも、十分頷ける。
「頼み? 親分の頼みとあれば話だけは聞くが、こう大勢で来られてはのう」
そう言うと、子分の一人が気色ばんだ。やはり狂犬である。
「やめねぇか」
長右衛門は振り向くと、その子分を張り倒した。
「生意気して申し訳ございません。私の躾がなっておりませんで」
更に頭を下げる長右衛門を一瞥し、甚兵衛は鼻を鳴らした。
「構わんよ」
この若い親分を苛めても仕方がないし、実は何かと世話になっている男だ。この寺院を安く売り、修繕の段取りをしたのは長右衛門である。何でも、甚兵衛を世話するように音羽屋から口利きがあったらしい。二人がどんな関係であるかは知らない。だから、甚兵衛はそこまで気にはしていない。
「使いをくれりゃ、お屋敷まで伺ったものを。しかし、今は仕事中でね」
「木彫でございますね」
「そうだ」
長右衛門も、甚兵衛の客だった。鷲の木彫をそこそこの値で売った事がある。
「では、終わるまで待たせていただきます。勿論、お目障りにならぬよう、境内の外で」
「それには及ばぬよ」
待たれては気が散って到底集中できない。
「中で話を伺おう。茶などないがね」
「お気遣い無く」
長右衛門を本堂に入れた。散乱する木屑を足で払い、
向かって座ると、更に小さいと感じた。故に、福耳がより大きく見える。この男が渡世で〔弥勒〕と渾名されるのは、この福耳故かもしれない。
「話とは何かな?」
「現役を退いた佐野様には甚だ申し上げにくい事ではございますが」
「聞くだけ聞くよ」
「へぇ。実は人を一人、殺っちゃもらえないかと。勿論、お礼は十分に」
「ほう、儂に仕事か」
そう言われた事に、何故か驚きは無かった。長右衛門は、音羽屋市治郎との付き合いから、甚兵衛が始末屋だった事を知っている。そして、ヤクザが元始末屋に頼む事と言えば、人殺し以外にない。
「だが、断る」
甚兵衛は即答した。もう始末屋稼業から足を洗ったのだ。それに銭の為に殺しはやるまい、と決めてもいる。
「
長右衛門の声色が多少太くなった。腹でも立ったのか。だとすると、この男の存外小さいものだ。
「決めた事よ」
「相手は生きてちゃいけねぇ悪人なんですぜ」
「誰であろうとも、儂は銭の為に人を斬る事を禁じたのだ」
長右衛門は、甚兵衛を見据えたまま、福耳に手をやった。摘まんで、親指で弾く。それが癖なのだろう。
そして、長右衛門は一つ頷いた。
「聞いていた通りでございますな」
長右衛門の表情が、不意に柔らかいものになった。腹立ちは演技だったのかもしれない。
「音羽屋さんが申しておりました。佐野様に人殺しを頼んでも無駄だと」
「ほう」
「そして、燃え尽きた灰だとも」
「今度は挑発か。しかし、無駄というものだ。『まだ若い者には負けん』と言って刀を取るほど勝気ではないのでね」
「そうですか」
「
甚兵衛は、鼻頭を人差し指で掻いた。青臭い事を言っている、その気恥ずかしさが後から湧いてきたのだ。
「ご内室がいらっしゃるのですね」
「いた。死んだのだ、病でね」
「……」
「気にする事はない。既に過去だ」
「それを聞いちゃ、佐野様に刀を抜かせられません。そうしたご事情を知らぬとは言え、失礼いたしました」
「謝る事ではない。自分が勝手に決めている事だ。だがね、誓いを破れば妻に叱られそうな気がしての」
「その誓い、大切にされて下さい。私のような木っ端ヤクザに言われるまでもないでしょうが」
「すまん」
「それでは、私はこれにて失礼いたしやす。そうだ、最後にお尋ねしたいのですが」
「何だい?」
「人を斬るコツはありますか?」
甚兵衛は長右衛門から視線を外し、少し考えて口を開いた。
「まぁ、相手から目を離さぬ事だのう。二つの眼で、しかと動きを見れば勝つ」
「なるほど。動きを見定めるのですね」
「……親分、自分で斬るつもりかい?」
長右衛門が、一つ頷く。真剣な眼差しだ。覚悟を決めているのだろう。死ぬ覚悟を。
「自分の役目ですからね。その為に、城井の殿様から十手を、堅気衆からお情けを頂いているんで」
そう言って、長右衛門は腰を上げた。一礼して、本堂を出て行く。その長右衛門を、甚兵衛は呼び止めた。
「誰を斬るのだ、長右衛門」
長右衛門が振り向き、口を開いた。
「笹川村の門神という浪人です。村の衆が困っておりますからね。ここで私が
笹川村の門神様。松牧で聞いた名前である。何でも、盗賊団を一人で退治したほどの凄腕だとか。長右衛門には、まず斬れない。ならば死ぬ気だろうと、遠ざかる背中を眺めながら甚兵衛は思った。
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