第二回 孤独
仕掛けた罠に、兔が一羽だけ掛かっていた。
山道から脇に入った、藪の中である。獣の通り道。そう睨んで、仕掛けた括り罠だった。まだ掛かって間もないのか、罠を外そうと必死に足掻いている。
「獣のくせに、何とも鈍くさい奴だのう」
と、甚兵衛は兔の首に手を伸ばすと、素早く手折った。
(ほほう)
持ち上げると、中々の重みがある。秋の恵みを一身に享受していたのだろう。だから、間抜けにも素人の罠に掛かるのだ。
「苦しまずに死ねるだけマシというものよ」
妻は一年間、病で苦しんだ末に死んだ。苦痛の表情はおくびにも出さなかったが、それは心配させないようにしているだけだという事は、痛いほど伝わっていた。夜な夜な、苦痛を堪えるように布団を噛んでいたのだ。その姿を見る度、ひと思いにと何度思った事か。そして妻は、痛みを堪えながら死んだ。
甚兵衛は、兎を腰からぶら下げると、次の罠に移動した。
山の中に、大小様々な罠を五ヶ所設けている。獲れるのは兎や猪が主だが、稀に鹿や穴熊も掛かる事がある。猿や狸は食う気にならないので、逃がすようにしていた。
こうした罠の作り方は、時折現れる猟師に習った。かつて急病の猟師を小屋に担ぎ込み、助けた事がある。その礼にと、罠の作り方や山の知識を伝授してもらったのだ。猟師は
結局、この日の収穫は兔が二羽だった。よく獲れた方だろう。十日も獲れない日はざらである。だからと言って、生活が困る事はない。あくまで、猟は片手間なのだ。だからか、不猟の焦りもないし、逃げられても悔しくもない。
「運が良い奴め」
と、笑えるほどだ。
甚兵衛の棲家は、屯倉山の中腹にある。かつては寺院だったものが廃寺になり、それを甚兵衛が買い取った。
仏壇も
二羽をぶら下げて山門を潜ると、白く大きな犬が甚兵衛を出迎えた。
「お、犬っころ。今日は来たか」
甚兵衛は、その犬の背中を撫でた。
犬はひとつ頭を上下させて、尻尾を振っている。今の自分に、友達と呼べる者がいるとしたら、この大きな犬だけだ。
名前は付けていない。ただ、〔犬〕とだけ呼んでいる。
野良犬だろう。いつしか、この棲家に通うようになっていた。たまにふらっと現れては、甚兵衛が与える飯を食べ翌日には消える。この犬が、普段何をしているか判らない。多分、この屯倉山が犬の縄張りで、子分に飯を食べさせてもらう感覚なのかもしれない。
「晩飯に兎を食わせてやろう」
犬は一つ吠えて、境内の隅で寝転んだ。
庫裏に戻ると、昨夜の菜飯と味噌汁で朝餉を摂り、裏の水場で兎を解体した。
皮を剥いで、内蔵を取り出し、肉を切り分ける。こうした手際も、猟師から学んだものだ。最初は抵抗があったが、今では慣れたものである。
それから、甚兵衛は本堂に移動した。
本堂には仏具はない。廃寺になった時に売られたのか、盗難の憂き目に遭ったのだろう。今では木材が山積みにされ、床は木屑が散乱していた。
甚兵衛の肩書きは、
師匠と呼べる男は、かつて京で名を馳せた名工だった。しかし女で身を持ち崩し、酒毒に犯されると、落ちぶれて暮らしていた。そうした時に甚兵衛は男と出会い、酒と引き換えに技術を学んだ。
弟子入りして二年目に、男は死んだ。一斗ほどの血を吐き、俯せなっていた。発見したのは甚兵衛で、懐には血反吐を浴びた菩薩像があった。きっとそれは、男が忘れたくても忘れられなかった女だったのだろう。
(菩薩の
そう思いながら、菩薩像を男と共に埋めた。
二刻ほど木を削った。木材は檜で、道具は小刀を使う。鑿も使うが、小刀の方が性に合った。
今は、
幕府への不満が高まりい時勢がきな臭くなっている今、勝軍地蔵のようなものが売れると思ったのだろう。屯倉山の奥に棲む甚兵衛にも、そうした世の流れ、時代の足音というものは否が応でもでも耳に入る。しかし、刺客として政事やそれを成す人の暗部を長い間見てきた甚兵衛にとっては、今更興味を引く話題ではなかった。
(政事など、なるようになればいい)
仕えるべき主君もない。守るべき妻もいない。もはや、武士ではないかもしれない。ただ死なないから生きている老いぼれだ。
ただ一つだけ気になると言えば、二人の弟子である。
生涯で二人だけ、甚兵衛は弟子を取った。これは好きで取ったわけでなく、元締めたる音羽屋市治郎にどうしてもと、頼まれたのだ。
二人は血の繋がりはないが、兄弟のように育った十歳の少年だった。それぞれの父親も始末屋で、仕事に失敗して死に、孤児になったのを音羽屋に引き取られたという。
甚兵衛は、音羽屋の屋敷を訪ねては二人の少年に剣を教授し、時には屋敷から連れ出して山に籠る事もした。
そうした日々の中で、二人を我が息子のようにも感じもしたが、その感情を甚兵衛は敢えて抑え厳しく接した。
始末屋に育てなければならないである。暗黒街で生きていくならば、いつか敵同士にならんとも限らない。そして、甘さが二人の命取りになるからだ。そう何度も、自分に言い聞かせていた。
初めて人を斬らせたのは、二人が十五歳になった頃だ。街道筋で辻斬りをさせた。二人は嫌がったが、
「始末屋になりたいのなら、四の五の言わず斬れ。嫌なら始末屋を諦めろ」
そう言うと、二人は斬った。
斬った後は一両ずつ与え、女を抱けと命じた。それを数回繰り返し、甚兵衛は二人を仕事に同行させるようになった。そうした生活は、二人が二十歳になるまで続いた。今二人は、独り立ちをして江戸と大坂に別れて働いている。
◆◇◆◇◆◇◆◇
気が付けば、夕方になっていた。窓からは茜色の光が差し込んでいる。
甚兵衛は作業を切り上げると、境内に出て火を熾した。材料は、廃材と木屑。乾いているので、火はすぐに燃え上がった。
その火で、切り分けた兔の肉を串に刺して焼いた。味付けは、岩塩をまぶしただけである。遠火だが、強火。この
焼けるまでは、酒だった。切り出した丸太に腰掛け、瓢箪に満たした酒を呷った。それとは別に、かっぽ酒も用意している。竹に酒を満たし、温めたものだ。
酒は好きだった。毎晩の酒は欠かす事はない。時には深酒をして焚き火の傍で眠り込む事もある。特に、独りになってからはそうだ。酔いの中で、孤独を紛らわせているのだろう。寂しいという自覚はないが、酒が空虚な心を埋めてくれるとは思っている。つまり、酒に逃げているのだ。特に、今は諌めてくれる妻はいない。
「おっ」
匂いに釣られてか、何処からか犬が傍に寄って来た。もう辺りは暗くなりつつある。
「犬よ、我慢だ。まだ、焼けておらぬぞ」
と、甚兵衛は犬の背を撫でた。
肉から脂が染みだし、それが火に垂れるとジュッと旨そうな音が鳴った。
「まだだぞ。焼き具合が重要なのだ。それに、まず食べるのは儂だ。お前は働いておらぬ」
そう言った所で、無論返事はない。また、酒を煽る。どうしようもない孤独が、そこにあった。
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