第一回 幽玄

 佐野甚兵衛さの じんべえは、ただ一人立っていた。

 深い山の中。周りには誰もいない。ただ、冷厳とした屯倉山みやけやまの神気と、濃く深いもやだけである。

 何刻が経っただろうか。自分でも判らなくなるほどの静寂が、目の前に広がっている。

 甚兵衛は、ただ佇立ちょりつしているのではない。待っているのだ。払暁ふっぎょうと共に寝床から出て、ここで待つ。それが甚兵衛の日課だった。


「むっ……」


 僅かな氣の揺れ感じ取った甚兵衛は、諸肌になり六十を越えた身体を露わにした。

 身体には、何処にも弛みは無い。現役から退いたといえ、鈍らせないように日々の修練は欠かしていないのだ。

 その身体に、氣が刺す。何かが、敵意を持って近付いている証拠である。甚兵衛は息を呑んだ。

 幾日振りだろうか。待っていても、そうそう現れるものではない。

 目の前の靄が蠢きだした。来る、その前兆である。甚兵衛は目を細めると、靄が次第に人の形へと変化していく。


(来たな……)


 幽玄の化生けしょうではない。脳裏に描いた、かつての敵である。その出現を、甚兵衛は待っていたのだ。

 甚兵衛は腰を落とすと、左手で脇差の鯉口を切った。右手はだらりと下げたままである。得意の構えだ。

 靄の形が、確かな人になった。

 男。四十前半の武士だ。裃姿で正眼に構えている。見るからに、城勤めという風貌である。滑稽だ。自らの想像とは言え、このような山奥で見られる格好ではない。


「お前か」


 甚兵衛は、口元を緩めた。

 男は、強敵だった。名は覚えていないが、紙一重で何とか勝ち得た男だった。二十五年ほど前の事だろうか。


(確か……)


 江戸。そう、徳河家の傍流である姉ヶ崎徳河家が、某摂関家と組んで徳河宗家に取って代わろうとした時に戦った男だ。


(そうだ。そうに違いない)


 あの時、甚兵衛は幕閣に雇われて姉ヶ関徳河家の家老を殺した。その際に護衛をしていたのが、この男だった。

 平山采女ひらやまうねめ

 思い出した。そんな名前の男だった。

 念真流という夜須藩の御留流おとどめりゅうを使っていたのを、はっきりと覚えている。何故、夜須の御留流を使う剣客が、姉ヶ崎徳河家に? と思ったものだ。


(あれは面白かった)


 遠く過ぎ去った、昔日の記憶。思い出しただけで、六十を幾つか過ぎた身体が、ぐっと引き締まる。

 平山が、正眼から下段に構えを変えていた。圧力が更に強くなり、諸肌に汗が噴き出した。

 甚兵衛は、まだ抜いていなかった。潮合いを探っているのだ。不用意に仕掛ければ、逆撃を蒙るのは目に見えている。

 生死の紙一重までは、抜かない。平山のような使い手相手には、特にそうだ。

 抜刀術。

 それが、甚兵衛が最も得意とする形である。しかも、氣を発せずに抜き、そして斬る。これにより、相手に気付かれずに、不意を打つ事が出来るのだ。

 それを、


夜鴉やがらす


 と、呼ぶ友がいた。夜に飛ぶ鴉のように、気付かれないからだという。

 まだ、平山は下段のままだった。動かない。潮合いが来ないのだ。

 焦れる。抑える。そして、また焦れる。その繰り返しの中で、甚兵衛は必死に耐えていた。


(まるで、小僧のようだ)


 と、思わず自嘲したくなる。


「お前さんと向かい合っていると、色々思い出すではないか」


 声に出してみた。勿論、返事はない。だが、脳裏には若き日が鮮やかに蘇ってくる。

 植山甚蔵よこやま じんぞう

 それが、甚兵衛の本名だった。

 生まれは西国九州の怡土いと藩。何の特徴もない馬廻格の、次男坊だった。三つの時に初めて竹刀を握り、それからは部屋住みをいい事に、丹下たんげ流羽島道場で剣一筋に励んできた。

 二十一歳の時に家老に呼び出され、人を斬るように命じられた。御家の為と言われた。その時は、我が剣が主君の助けになると信じて、悪い気はしなかった。言われた通り、夜道で襲い三人を斬った。それが、初めての殺しだった。斬った相手は家老の政敵で、政争の道具にされていたと、後で気付いた。

 全てが片付くと、今度は自分に討っ手を差し向けられた。口封じだろう。怒りに震えたが、それは一瞬だけで不思議と、


「これが運命だったのだ」


 と、受け入れる事が出来た。

 幾人かの討っ手を返り討ちにして、藩を出奔した。それ以来、家族とは会っていない。

 怡土を出た甚兵衛は、大坂・京都・江戸と用心棒をしながら転々とし、気付いた時には、殺しを生業とする始末屋になっていた。

 音羽屋市治郎おとわや いちじろうという元締めから仕事を依頼され、年に二件ほどの仕事をした。斬れ、と言われたら斬る。善人であろうが、悪人であろうが関係はない。殺しの標的まとに拘りはなかった。女や赤子すら、手に掛けた事がある。

 こだわったとしたら、仕事の難しさだろう。身を焦がす緊張感。その中にいて、初めて生きていると実感する事が出来たのだ。

 だからと言って、生き残れないと判りきった仕事は避けた。刺し違える事は、暗殺ではない。自分が無事に逃げ延びられてこそ、暗殺は成功と呼べるのである。

 恍惚感を覚えるような、魔道を歩いた。そうした日々の中で、唯一人間らしい思い出といえば、妻と過ごした生活だろう。

 子宝には恵まれなかったが、二人で過ごす時だけが、唯一殺しを忘れられる時間だった。だから、妻には自分が始末屋である事は打ち明けなかった。本当の自分を知って欲しいと思う反面で、全く関わりのない場所に居て欲しかったのだ。

 その妻も死んだ。老齢を理由に始末屋から足を洗い、元締めから貰った隠居料で那珂なか毛野郡けぬのこおりに屋敷を構えて四年目の事だった。隠居三年目に病を患い、一年看病をしたが助ける事は出来なかった。それから屋敷を引き払い、この屯倉山で暮らしている。


「どうした。嫌な事でも思い出したか?」


 平山に、そう言われた気がした。

 煩い。お前は死んだのだ。死人は黙っておれ。そう言い返したいが、声にはしなかった。

 猛烈な氣が、全身を打ってきた。腰を更に落とし、両足の五指に力を込める。


(潮合いか)


 そう思った時には、気勢が挙がった。

 下段からの突きだった。身を逸らして避ける。まだ、抜かない。抜く時は、生死の紙一重。それも、斬れると確信した時だけだ。

 今度は、下からの斬り上げが迫った。それも、後方に飛び退く事で躱す。

 前に出る。そう思うと同時に、平山が視界から消えた。

 上。跳躍したのだ。

 そうだ。こうした技を使っていた。


(二度も同じ手を)


 跳躍からの、斬り落とし。

 それを鼻先で躱しながら、甚兵衛は大脇差に右手を伸ばした。

 着地する瞬間に抜き、その胴を払った。

 手応えはない。ただ、平山の姿は消えていた。


「儂の勝ちだな」


 今回も僅かな差で勝利を得た。やはり、平山采女は強い。

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