7 簡単で困難
『ねぇ、知ってる?コピー用紙も、43回折ったら月に届くんだよ。』
何言ってんだと思った。
けど、声を荒げれば余計ややこしくなることを知ってる。
カフェ、と呼ぶには若干懐かしすぎるその喫茶店の奥で、ミックスジュースなんてすするユイ子は、吸いきれなかったのだろう。まるでクロール中の息継ぎのように、ぷはぁーっと息を吐いた。
おい、別れ話しようってんだぞ。そこはコーヒー頼んどけよ、と言いたかったをの飲み込んだ俺はエライ。
ユイ子の取り扱いについては、慣れている。
多分。
『…へぇ。』
突然の雑学披露に絞り出した相槌は、使いこまれた木のテーブルを転がって落ちる。ユイ子の耳には、届きもしない。
正直、うんざりだった。
気が付けば俺に懐いていたもんだから、見た目のまぁまぁなかわいさもあって、ついつい受け入れてしまったのが運のツキ。
いつだって楽しいことを追いかけ続けるユイ子は、俺が毎日必死で働こうと、地道にキャリアを積み重ねていようと、そんなものはお構いなしだった。
ユイ子に楽しいことを提供するための存在。
それ以上でも、以下でもない。
『すごいよねぇ。月だよ?月!あんな紙っきれが、地球の外に出るなんて。信じられないよね。』
頬杖ついた手のひらは、相変わらず子どものようにふっくらとした頬を押しつぶす。
たまらなく愛らしいが、今はそこを振り切るのだ。俺の未来のために。
『あのさ。』
『うん?』
『‥別れないか?』
よっしゃぁぁ!言ったぁ!
荒くなりそうな鼻息を、ググッと吸い込んだ。ここは冷静に、だ。
ユイ子の事だ。泣いてごねることもあり得る。
やだやだ!そんなのやだ!ってあの黒目がちな目に、ふるふると涙をためてしまうのだ。
ぽたりとテーブルに落ちた涙を、指でくるくるして、俺のことを好きなのに、とか言ったりするから。
そうなったら面倒だ。
『‥え。』
『いや!ユイ子が、悪いとか!そういうのじゃなくて!俺はいま、仕事をやりたいんだ。だから、こう、ユイ子の思うようには動けないし。自分の時間みたいなのもやっぱ持ちたいっていうか!』
『‥持てば?』
は?
アタフタと羽ばたきそうになっていた俺の手は、ピタリと止まる。
『好きにすればいいじゃん。あなたの時間、あなたの思うように。‥どうぞ?』
『‥いいの?』
『何がダメなの?』
『‥ほら!あの、お前が楽しめるように‥休みの日の計画練るとかさ。会社帰りの飯の店とか、あと連休の旅行とかさ‥!』
そう。
俺はこの数年。
ユイ子のためにありとあらゆる時間を、注ぎ込んできたのだ。あと、金も。
いつだって、ワクワクしていたいの、なんて可愛く微笑むもんだから。
だから、俺は。
『‥それ。私が頼んだっけ?』
ずずずーっと、残りわずかなミックスジュースが吸い込まれた。頬を押しつぶしたまま。唇尖らせて。
なんだよそれ!かわいいな!
俺のコーヒーと言えば、上澄みはほぼ水だ。
『‥いや、あの。そういう事じゃ‥』
木枠の窓の外は、嫌に晴れているし暑い。喫茶店の使い込まれた皮のシートは、空調が悪いのだろうか。妙に肌に馴染んでくる。
飲みきったグラスに、ストローをすとっと落としたユイ子は、ぼんやりと外を見た。
『私はあなたが、私のためだとあれもこれもと用意するのが、凄い嫌い。』
でもね?と、ゆっくり瞬きをした。
横顔のまま。
『私はあなたが好きだから、もう簡単なことでワクワクするの。』
『簡単な、って。』
視線だけを俺によこしたかと思うと、手を伸ばして、俺のアイスコーヒーをストローでグルンと混ぜた。
しれっと、なかったことになった上澄み。
『どうやったら、43回折れるかなぁって、喫茶店でお茶しながら、バカみたいに話したりすることよ。』
気が付けば、俺は懐いていたもんだから。
見た目の愛しすぎるかわいさもあって、ついつい必死に喜ばせようとしまくったのが運のツキ。
『案外、それでいいのよ。ね?』
そう言って、諭すように頬を上げたユイ子に、
『‥うん。そうだね』
と、俺は少し、情けない気持ちで頷く。
別れ話は7回目。
8回しか折れないコピー用紙を43回折って、
いつか月に行くまで。
俺は、ユイ子をワクワクさせるのだ。
窓の外は暑いらしい。
ふと外を見た視界の端で、ユイ子が『簡単ね』と、つぶやいたのは。
聞こえなかったことにする。
Song@YUKI『joy』
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