5 【件名】楽しいですか。
結局残業する羽目になった。
いつもよりずいぶん遅くなった帰り道、電車のドア横を運よくゲットして、泥みたいにグダグダの体を、手すりにもたれかける。
今年の梅雨は、ほんとによく雨が降る。しとしと降る。
夜の雨の中を行く電車は、なんだかどんどん闇夜に飲み込まれていくようで怖い。
窓をつたう雨のしずくが、速度に負けて横に流れた。
ネオンに照らされてきらきら光るしずくは、そのまま消えていくのがもったいないくらいに、きれいだ。
ずっとずっと、やりたかったインテリアコーディネーターになって、もうずいぶん経った。
今ではチームのトップを任せられるようになった。
とはいえ、まだまだ経験不足はどうしようもなく、何をしてもダメ出しをくらってばかりだ。
ただ、これまでと違うのは、私一人がダメだといわれて終わっていたのとは、180度変わってしまって、私だけのことではなくなったこと。
少ないながらも、私についてきてくれているスタッフたちの評価につながってしまう。
経験を積んで、評価されて一番上に立ったはずなのに。
まるで、仕事を始めたてのころのように何もかもが手探りだ。
少し混んできた車内で、ドア横をキープしつつ手帳を開ける。
明日は打ち合わせが3件。
今日入ったクレームも、スタッフに任せてきたけれど明日朝一で確認しなくちゃな。
あぁ、そうだ。
こないだのプレゼン、やり直しを食らったんだ。
電車の揺れに足を踏ん張りながら、ペンを走らせる。
この仕事を始めて、最初は雑用をしながらいろんな現場に足しげく通った。
そのうち社内でも、一番大きなチームに呼んでもらえることとなった。
トップにいるのは、社内どころか業界でも有名なコーディネーターの花山さんで、
そんな人に、声をかけてもらえたことがうれしくって、ほとんど忠犬のように四六時中くっついて仕事を教わってきた。いや、盗んできたっていうのが正しいか。
いつしか花山の右腕と呼ばれて、やっと念願の自分のチームを得たのだ。
私のチームはまだまだ社内でも小さなもので、スタッフも女の子が3人だけ。
個性的な子達ではあるし、若さゆえの無鉄砲さも無茶もあるけれど、私の思い付きのアイデアや、急な計画変更にも文句もなく従ってくれている。
私を信じてついてきてくれてる。
そう、思えば思うほど失敗は許されることではなかった。
花山さんが私に与えてくれたステップアップの道を、今度は私が彼女たちに示さなければ。そのためには、社内での高評価は絶対条件だ。
妙な使命感も私を走らせる原動力になった。
けどなぁ…。
どれだけ走り回っても、今私がしている仕事は、
花山さんと一緒にやっていたものと比べると、規模の小さなものばかりだ。
ふと、こないだのプレゼンで言われたことを思い出した。
クライアントは、以前にも仕事をしたことのある人だった。
「これなら、花山さんに頼むよ。そのほうがクオリティ高いでしょ。」
「別に、花山カラーでやってくれっていうんじゃないんだよ。練り直してもらえる?」
パタン
頭の中で回る、あのクライアントの言葉をかき消すように、力を込めて手帳を閉じた。
赤い皮が鮮やかな手帳は、チームを持った時に自分へのご褒美として、ハイブランドのものを選んで買ったもの。これを買うときは、花山さんも一緒だった。
「その赤が、擦り切れるぐらい頑張ったら、違う世界が見えるのかもよ」
冗談を言うようにそういって、「頑張んな」と手帳に合わせたペンをプレゼントしてくれた。今手の中でそれは、異様に冷たい。
まだまだ。これからだ。
頑張らなくちゃ。もっと。
今、立ち止まってる場合じゃないんだ。
ふう。
身体中の空気を入れ替えるように、ため息を絞り出したころ、やっと駅に着いた。
さぁ。帰ったら明日のプレゼンの最終確認をしなくては。
また同じことを言われていちゃ、もう先はない。
もう少し。
ヒールの足元に力を入れて、電車を降りた。
手帳を鞄に押し込め携帯を見ると、メールのところに赤く表示された、新着メールのしるし。
花山さんからだ!
何かミスがあったのか、と慌てて本文を開けた。
[件名 楽しいですか?]
いまのあなたを見てると、自分で自分をどんどん追い込んでる気がする。
あなたは、いい仕事してるよ。感心してる。
けど、周りからどう評価されるかだけを考えて、
今まで仕事してきたんじゃないでしょう?
評価は後からついてくる。
焦る必要も、必要以上に自分を大きく見せる必要もない。
自分の足元をしっかり見据えて進みなさい。
スタッフたちは、みんな必死であなたについてきてる。
でも、このまま一人で突っ走ったら誰もついてこれなくなるよ。
チームを信じなさい。
信じて、ゆっくり、のんびりやんなさい。
あれ?
携帯を持つ手が震えてる。
あれ。私。
携帯の画面に、ぽたっと落ちたしずく。
鼻の奥がつんとした。なんで。
しとしと降っていた雨が、街灯をぼやけさせていて、改札の先のアスファルトに丸い光を落していた。その輪を眺めながら、ぐっと鼻の奥の痛みを飲み込んで目を閉じる。
赤い手帳が、もっともっと擦り切れるとき、
私は花山さんになるんだと思ってた。
だから、その時見えるのは花山さんと同じ景色だと思ってた。
駄目だなぁ。私。
あのプレゼンの後、スタッフがいくつかアイデアを出してくれた。
でも、私はほとんど話を聞かなかった。花山さんのやっていた方法と違ったからだ。
私の知ってるものと、違うアイデアだったから。
私、花山さんになりたかったわけじゃない。
傘を開いて、家路を急ぐ。
まだ、まだ間に合うかな。
あの子たちの話、明日すぐききたい。
プレゼンまでに、みんなで考えたい。
できるかな。
急いだ歩幅を、ふと、ゆるめた。
電車から見えた、きらきらのしずくがビニール傘の上で揺れている。
なんだ、ちゃんとここに留まってる光があるんだ。
あんな高速で、流れてしまわないものも。
大丈夫!
まだまだこれからだ。
一歩、足を出したとき、ふうわりと風が吹いた。
SONG@ 『風の向こうへ』嵐
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