第18話 ※古の王
美しい山々が連なる宇雅の地。
そこへ辿り着いたひとりの男。
「ああ、なんと美しい所だろうか」
晴れ渡った空にかかる雲さえ、その地を輝かせていた。
後ろを見ると、立派な出雲の大社がそびえ立つようにそこにある。
こうして今も大勢の人々が大社に足を運んでいる。自分も神に挨拶をした方がよいか、と思った宇雅だったが、先刻の父の言葉を思い出した。
『出雲の今の主に挨拶などいらぬ。お前は堂々とその地へ入れ』
今の主、という言葉にひっかかりを感じた宇雅だったが、それよりもこれからどうしたらよいものか、と考えあぐねていると目の前を大きな鳥が横切った。
「っ!?」
その鳥は今まで見たことがない程大きく、そ
して美しい色をしていた。まるでこの世のものではないような、そんな不思議な空気を纏っている鳥だった。
『ピー』
甲高い声で鳴いたかと思うと、あたりの空間がぐにゃりと歪む。
今までそこにいたはずの人々は消え、かわりに一人の美しい女が現れた。彼女は白い服を身に着け、その首には翡翠色の
よく見ると、彼女は何やら石のようなものを磨いていた。それもすごく嬉しそうに……。
――なんと綺麗な
宇雅はしばしその女に魅入っていた。
だがその笑顔が隣にいる人物に向けられていることに気付く。今まで見えていなかったが、彼女の隣には同じ服を身に纏った男がいた。顔ははっきりとは見えないが、おそらくこの二人は夫婦の関係であろうと宇雅は推測した。
しばらくの間そうして見つめていたが、またも空間がぐにゃりと歪んだ。
辺りは先ほどと違い、真っ暗である。
ザザーン、ザザーン
耳を澄ますと、波の打ち寄せる音が聞こえる。ここはどうやら浜辺らしい。
その証拠に、サク、サクと砂を踏む音が聞こえてくる。
さて誰が来たのかとよく目を凝らしてはみるが、辺りは真っ暗なため何も見えない。それでもその足音は確実に近づいてくる。
『――』
か細い声で、その
誰かの名を。
雲の切れ間から月明りが辺りを照らすと、声の主が姿を現した。
――先程の女だった。
だがその顔は苦し気に歪み、美しい琥珀の瞳からは涙が零れている。
一体どうしたというのか。先ほどはあんなに嬉しそうにしていたではないか。宇雅はとっさに彼女に駆け寄った。
だが彼女に宇雅の姿は見えない。
これは過去の映像であり、‟今ここで起こっていること”ではないのだ。
『――』
彼女が再びその名を呼ぶ。
何故だか答えなければならない気がして、宇雅は彼女に声をかける。
「どうしたのだ、何があったのだ。悲しいことがあるなら、私に話せ」
女がこちらを見ることはない。
未だ悲し気に涙を流しながら、その体は海へ向かっていく。
「(まさか――)」
嫌な汗が宇雅の背中を伝う。
目の前にいるこの女は、その体を海へ海へと沈ませていく。
宇雅の予感は的中した。
「……っ待て! 行ってはならん! こちらへ戻って来るのだ!!」
だがその声が、彼女に届くことはない。
「待て!……っ戻るのだ!!」
必死に叫ぶも、女は深い海へと潜っていく。こちらを見る事はなく、悲し気な瞳を揺らしながら、深い深い海へとその体を沈めていく。
「頼む! 行かんでくれっ! ……私を置いて、行かないでくれっ……!!」
必死に伸ばしたその手が彼女に届くことはなく、ただ宙を切っただけだった。
『
彼女は最後にその名を呼ぶと、深い海へとその身を沈めた。
◆
彼女の姿が海に消えた後も、宇雅はそこから離れなかった。
ただ涙を流しながら、深い海の底を見つめていた。
『ピー』
先程の鳥が再び鳴く。
すると目の前の海は消え、大きな宮殿のような建物が現れた。
大勢の人々が何かを囲む様にしてその場に立ち尽くしている。その中心には見覚えのある人物が……。
「父上!!」
輪の中心にいたのは紛れもなく、宇雅の父である須佐ノ男だった。
だがその顔は悲し気に歪み、ボロボロと涙を流している。近づいて見ると、その腕に大事そうに何かを抱えている。
……宇雅はそれを見る勇気がなかった。
きっとあの腕の中にいるのは‟彼女”だろうと、わかっていたからだ。
静かにすすり泣く声だけが響いていた空間が、一瞬騒がしくなったかと思うと一人の男が慌てて入って来た。
先程彼女の隣にいた、あの男だ。
だがその男の顔をはっきりと見た宇雅は、どうして自分がここへ行けと言われたのかをやっと理解した。
――その男は、自分と瓜二つの顔をしていた――
なんとなくは気づいていたが、その男が纏っている雰囲気が懐かしいと思えたのは、それが自分自身であったからだ。
そして先ほど彼女が呼んだその名を、宇雅は知っていた。
――大己貴尊――、それが自分の本当の名。
そこまで理解すると宇雅――
「思い出したか、宇雅」
静かにそう問うてくる人物が誰なのか、振り返らずともわかっていた。
「義父上……」
須佐ノ男は、涙声で返事をする義息子のその震えた背中に向かって、優しく声をかける。
「出雲九州連合王国第二代王、大己貴尊。それがお前だ。本当の、お前」
それから須佐ノ男は、今見たものは実際に過去に起こった事だと説明した。あの女は須佐ノ男の実の娘である。名を
だがその幸せも長くは続かなかった。
国を広げる為に、大己貴尊は各地へ赴かなければならなかった。その為、ずっとこの地で妻の側にいたいと思っても、それは叶わぬ願いだった。
帰らぬ夫を待ち続け、やがて己の巫女の力が衰え始めていることに気付くと、彼女は自害したのだという。だが、本当の理由は父である彼にもわからなかった。
「では私は何故、この地ではなくあの社で神をしているのでしょう」
そう、今の宇雅は社に祀られている神である。人間として生きていた自分が何故、神として祀られているのか、その疑問に須佐ノ男は答える。
「お前はまだ全ての記憶を思い出したわけではないから知らぬだろう。あの後、悲しみに暮れたお前はこの地を他の者に託し、各地を転々とした。それからのお前がどうなったかは知らぬ。だが後裔の誰かしらがあの土地に社を建て、古の王の魂を鎮めるべく神として祀った。それがはじまり」
おそらくはお前の話を誰かしらが書に書き留めていたのだろうと義父は言う。
「昔、古の時代。神社とは主に、偉人や英雄を祀るためのものであった。『神』とは、すばらしい人、という意味で我々は使っていたのだ。だから今の人々が言う『神』とは、少し違う」
どこか遠くを見つめて義父はそう説明した。
「別れ際に仰っていた、‟今の”大国主、とは一体誰なのですか?」
「さあな」
興味ない、とでもいうように須佐ノ男はそっけなく答える。
「大国主、とはつまりこの出雲の国の主。それら全てを祀っているのではないか?後の人間たちが神だなんだと祀り上げてできたものに、私はあまり興味がない」
宇雅が姿を消した後も、この出雲国を統べる者は何人としていたという。だがそれら全てを須佐ノ男は知っているわけではなかった。
「さあ、もうわかっただろう。お前の正体が。そして、その胸のつかえもとれただろう」
やはり自分の心を見透かしていたのだな――
と、この男は思った。
宇雅は気付いた時にはもう、あの社にいた。自分が過去、どこで何をしていたのか、どうして神としてここに存在しているのか――、
それを誰かに訊ねる事は、一度としてなかった。
誰にも聞けなかった――。
偉大な大君を前に、何と言葉をかけていいのかわからずにいた宇雅だったが、ふと先ほどの彼女を思い出す。
須世毘姫、彼女はとても美しく可憐な人だった。だが彼女の纏う雰囲気が、誰かのそれと重なる。
「もしや大王、芽衣は……」
芽衣――、その名を聞くと須佐ノ男は宇雅をまっすぐに見つめ、こう答えた。
「芽衣――、彼女は須世毘姫の生まれ変わりだ」
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