第5話 ※ あたらしい、仲間




 その日はいつになく、静かだった。




いつも境内にいるはずの猫たちの姿はなく、かわりに禍々しく重い空気が辺りを包んでいた。この異変にいち早く気づいた宇雅神は、下界へ白狐たちを遣わせた。





「何だ、また野狐が入り込んだか?」

「それにしてはこの空気、少し異質だな」



この社に限ったことではないが、神のいる場所には‟そういった類の力を持つ何か”、が入り込むことがある。それは神と呼ばれるものではないが、中地半端な力を持っているため、人間に神だと錯覚させることも容易かった。

その類の物が入り込んだのだろうと神使たちは周りを見渡すが、それらしきものは見つからない。だがこの重苦しい空気は未だこの場所に留まっていた。



「おかしいな、姿が見当たらないとなると、ただの穢れか」


「いや、確かに何かの気配はするぞ。一度祓うか」



そう言葉を交わし神使たちが突風を起こすと、鳥居の辺りでユラリ、と黒い影が姿を現した。


「出たぞ、あれだ!」

一匹の白狐がその影へと走りだすと、その影は待ってましたと言わんばかりに白狐へ襲い掛かった。


「ギャアアー!」



噛みつかれた箇所は黒く腫れ上がり、みるみるうちに体中にへと黒い穢れが広がっていく。ただの妖に、神の使いである白狐を攻撃することは不可能だ。だが、この黒い影はそれをいとも簡単にやってみせたのだ。

最早、ただの妖ではないと悟った他の白狐たちは、この事態を一刻も早く伝えるべく、主の元へと急いだ。




「さあ、お前たちの主のもとへ私を連れていけ……」

黒い影は不敵に笑うと、ふっと姿を消した。














「主様!」

騒がしく入って来た白狐たちに驚くこともなく、宇雅は珍しく真剣な表情で報告を聞いていた。


「何者かが入り込みました。一匹、やられて……」

「そうか、よく連れてきてくれた。待ってい

たよ」


え……、と白狐たちが主の言葉に疑問を浮かべていると、背後から先ほどの黒い影が姿を現した。


「な、……貴様! 神の御前へどうやって、」


彼らが驚くのも無理はない。本来、神の御前にはその神使たちと、許されたごく僅かな者たちしか立ち入ることはできない。だがこの影は、さも当たり前のようにここへ入ってきたのだ。


「このような結界、私には無意味」

そう吐き捨てた影はキッと宇雅を睨みつけた。





「主、これはまた相当な手練れが現れましたね」

側に控えていた白狐の長、ボンが鋭い眼で影を見据えた。


「力はお前と大差ないだろう、ボン」



この状況下でも、宇雅はいつものゆったりとした空気を纏っていた。まるで、知り合いが訪れてきたとでもいうようなその様子に、ボンはひとまず胸を撫で下ろした。力が互角だとわかった手前、気を抜くことは許されないだろうと半ば緊張していたのだ。


「さて、私に何か用かな?」

そうにこやかに訊ねる宇雅に、影はユラリと揺れながら答えた。



「お前の神の座を、頂戴しに参った」


影は突如、突風を起こすと丸い空間を作り出し、そこへ宇雅を取り込み、さらに他の者たちが入れないよう結界を張った。


「主様!」

急いで駆け寄る白狐たちであったが、その空間に辿り着く前に体は弾じき飛ばされた。先ほどの白狐のように、その体は黒い穢れに浸蝕されていった。

その様を見た影は、愉快そうに笑う。



「無駄よ! お前たちにこの私の結界は破れまい!」


じわじわと黒い穢れが辺りを覆っていく。主の元へ行くことはおろか、穢れのせいで、その空間へ近づくことすら出来ない白狐たちであったが、ただ一人、ボンだけは違っていた。その身が穢れで黒く染まろうと、身動きひとつせず、自分たちの主の姿をただじっと見つめていた。まるで何かを待っているかのように……。




「お前たちはそこで見ているといい。自分たちの主が、この私に喰われる様をな!」



影はそう言うと、今までのものとは比べものにならない程の霊圧で宇雅に襲い掛かった。辺りの木々は一瞬にして枯れ果て、川の水が黒く濁るほどの穢れを持ったその力は、神をも黒く染めてしまうのではないか、と誰もが思った。



「宇雅神よ! お前が消えれば、私はこの社の神になれる! 人々に乞い敬われ、永遠に存在し続けるのだ!」


影はそこまで言い終わると、先ほどまで感じていた宇雅の気配がふと消えていることに気付いた。


――仕留めたか。

影はふと力を弱める。


と、その隙を待っていたかのように、ボンが動いた。

眩い光が辺りを照らしたかと思うと、それまで覆っていた黒い穢れが一瞬にして消えてなくなり、木々や川の水は、生気を取り戻した。


「なんだ、と……!」

何が起こったのかすぐには理解できずにいた影だったが、ふと足元を見下ろすと、自分が白い結界に閉じ込められていることに気が付いた。


影が力を緩めたあの一瞬に、宇雅はそれまで待っていたボンに合図を出し、結界を張らせたのだった。


「これで神を仕留められるとでも思ったのか、妖。いや、……邪神、とでも言うべきか」



そう言って姿を現した白狐の長、ボン。黒く染まっていたはずの体は元の美しい白のそれに戻っていた。


「……! 貴様、成敗してくれる!」

結界を破ろうと霊圧をかける影であったが、その力はもはや残ってはいなかった。



「なるほど、先程のあれで力を使い果たしたか」

消えたかと思われたその宇雅の姿を目にした時、影は諦めにも似た言葉を発した。




「……やはり、本物の神には敵うわけがなかったか」




先程の勢いはどこへやら、すっかりおとなしくなった影であったが、その体が少しずつ薄れていっていることに白狐たちは気づいた。








「祓え、清めたまえ。この悪神を」

「清め、導きたまえ。この魂を」


彼らが清めの言葉を口々に唱えると、影は本来あるべき元の姿に戻る。

それは美しく気高い、白狐たちのそれと同じ姿であった。


「お前も、もとはどこかで仕えていたんだろうね。どこで違えてしまったのだ?」

静かにそう訊ねる宇雅に、その白狐はポツリ呟くように答えた。


「私も、元は眷属。ある社に仕えておりました。そこには神がおられなかったので、私はただ、社で神の帰りを待ちながら、日々訪れる人間たちの願いを叶えておりました。……ですがいつからか、私は気づかぬうちに、自分が神そのものであると思うようになっていました。人から乞われ、敬われるということが心地よく、しばらくはそうして神の真似事をしていたのです」


「眷属は神にはなれない。なれたとしても、それは我々が付き従う‟神”とはまた違うものだ。それすらも気づかなかったのか、お前は」

未だ厳しい口調でボンはそう問うた。


「ずっと一人、神の帰りを待ち続けた。戻ってくるはずのない、神を。それでも人は神に願う。己の幸せを、人の不幸を、尽きることのない、その欲を」



ポツリポツリと話しだしたその白狐からは、もはや敵意も何も感じられなかった。だがそれと同時に、生力さえもが、その体から消えていくのを宇雅は感じとっていた。


「そしていつしか人は訪れなくなり、社はだんだんと荒れ果てていきました。あれだけ願いを叶えてきたのに、あれだけ社の為に力を使ってきたのに……」

「そうしてお前は邪神になったのか」

納得するようにボンは言った。


「……ここへ来れば、人が尽きることはない。永遠に必要とされ、永遠に存在し続けられる。そう思い、あなたの元へ来たのです」


静かに話す白狐の姿を、それまで黙って見ていた宇雅だったが、突然下を向いたかと思うと、その肩を小刻みに震わせ始めた。怒っているのだろうと誰もが思っていたが、顔を上げた宇雅は、その目を涙で溢れさせ、終いには白狐に抱き付く始末だった。




「おお~なんと健気な! 帰らぬ神を待ち続け、人々に寄り添いながらっ……! 報われぬとわかっていながら、それでもなおっ……!」


抱き付かれた白狐はというと、何が起こっているのかわからず、しばらく呆然としていたが、この神が自分を憂いてくれているのだとわかると、その目に透明な雫を浮かべた。



「私は許されないことをした。神を殺めようなどと、愚かなことを……。だが、本当は、本当は……」








――必要と、されたかった――


それが神に対してなのか、人に対してなのか。

静かに涙する白狐には、もうそのどちらでもよかった。こうして神に抱かれ、自分を憂いてくれるその存在に出会えた。ただそれだけで、自分が今まで存在し続けてきた意味はあったのだと。


ひとしきり泣いた宇雅は、その顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながらこう言った。


「っよし、今日から僕が君の主人だ。名前は……そうだな。清い心と書いてセイシン! でも長いからセイにしよう!」


はい決めた!と今度は笑顔で白狐に抱き付く宇雅に、目をまん丸にした他の神使たちと、その陰で、一人静かに溜息をつくボンであった。



 セイと名づけられたその白狐は、一瞬魂が抜けたかのように固まったかと思うと、せき切ったように大声でわんわんと泣いた。


まるで子が親に縋り付くように。








































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