幽霊タクシー

景 詠一

幽霊タクシー

 季節は冬を過ぎ、春に包まれているはずの4月。

 仕事が終わったのは夜10時を過ぎており、昼間の暖かさなど忘れたような風が薄い上着を撫でていた。

 春風というのは気が変わりやすい――亡くなった祖母がそんなことを話してくれていただろうか。思い出しながら歩いていると、赤い提灯の照る居酒屋が目に入った。

 この寒気を少しでも和らげられるならば、そしてたまには飲んで帰るのも悪くはない――そう考えた私は、古そうな戸を開けて中へと入った。


「幽霊タクシーって知ってますか?」


 ――それから、それから何十分だっただろうか。

 何杯かの酒は視界と思考を惑わすほどではなかったが、久しぶりだったからかある程度の高揚感を与えていた。

 温かい雰囲気の居酒屋は、入ってきた人間を他人扱いせず、隣席に腰かけていた男とも打ち解けることができたのである。

 そうして――彼は何の気なしに話した。


「ああ、いや。怪談とかではないんです? 信じますか?」


 こんな風に語りかけられて、私は一瞬身構えた。

 幽霊の存在を否定も肯定もしないが突拍子もない話だ。何か、霊感商法でも持ちかけられるのではないかと考えたのである。

 だが、どうにもその考えはすぐに消えた。

 この男は私よりも遥かに飲酒しており、顔も赤々と店先の提灯のようである。このような泥酔寸前の彼を疑うのは滑稽とも思える。

 ならば、と体を向き直らせて『酔っぱらいの妄言』と捉えることにする。酒の肴とは胃に入るものだけではない――耳の中だって少しは膨らませてやりたい。

 彼も警戒されるのは重々承知と言わんばかりにまた酒を煽り、話してくれた。


「幽霊タクシーって何だと思います?」


 さて、それは何と聞かれてもわからない。

 名前だけから判断するのならば、タクシーに幽霊が乗車し消える――その手のものだろうか。

 既に使い古された怪談の一種だ。私も何度か、テレビなどで観たことがある。

 だが男は『怪談ではない』と前置きしていた。ならば、何なのだろう。

 私が全くわからない風にしわを寄せていると、男は語るのが楽しそうに口を開いた。


「幽霊タクシーってね、幽霊のタクシーってことです」


 ――曰く、それはくだんの怪談とは全く別のものだそうだ。

 人間のタクシーに、人間が利用するものに幽霊という異物が入るから怪談になる。

 これが怪談にならない理由とは――つまり、ある意味で正当な理由を持って行われるから。


「往来で立ち小便すればおかしなヤツだと思われるでしょう? でも便所ですればそれはおかしなヤツにはならない。そういうことです」


 酔っぱらいの言葉に何を頷いているのだろう――自分でも不思議と、多少わからないにしても興味を引く内容だった。

 男の言葉は絶対に関わらない世界の未知の理由を示しているようで、不思議だった。


「幽霊は幽霊でね、行きたいところがあるんです。だけど大概がその場にへばりついちゃうから動けない。そんな時は、誰かをタクシーにする。誰かに一瞬憑りついて、行きたいところや近い所に着いたら離れるんです」


 憑りつくというのは物騒な話だが、あまり危険ではないとのことだ。

 そういうことができる幽霊に限って危害を加えないための判断力も持っている。賢いからこそ、憑りつかれたことにすら気が付かない。


「まぁ、稀に離れそこなっちゃう間抜けもいますがね」


 クスクスと笑いながら赤ら顔の男はにやつく。


「とりあえずね、そういう話です。生きてる人間が幽霊のタクシーになっちゃうって話。怪談でもなんでもないでしょう?」


 はぁ、と息を漏らしながら酒を口に含む。

 確かに怪談でも何でもない――これはただの、別世界の話だ。

 霊感とかそういう類のものを持たない自分にとっては、無色透明の絵画でも見るような。その程度の話でしかない。

 ――と、そこでふと考える。

 もしかすると私自身も、知らない内に誰かのタクシーになっているのだろうか。


「なっているんじゃないですかねぇ」


 男は肩と頭を揺らしながら歯を見せる。

 若干意地の悪い、信じるも信じないのも任せると言わんばかりの台詞。話すだけ話して、伝えたい肴だけは伝えたので満足した。そんな表情であった。

 まぁ――かく言う私も同じ気持ちだ。

 この話はただの妄言かもしれない。むしろその割合の方が多いだろう。

 まともに受け止める必要も無い――酒の席とは、酔いの会話とはそのようなものなのだから。


「そうですそうです。楽しければいい――そういうものがここに求めるものですから」




 ◇




「お客さん、閉店です」


 ――あれからどれくらい経過しただろう。私はいつの間にか眠っていたようだ。

 時刻は朝の4時前。私のテーブルには飲み食いをした痕跡が残り、自分でも知らない間に楽しんでいたということがわかる。


「かなり飲んでいましたよ。お疲れだったんですかねぇ?」


 酒のせいで頭が痛い。強く頷くことも返答することもできないが、疲れていたのは否定できないかもしれない。

 今日の仕事はどうだっただろう――少しだけ遅く出勤できる日だった気がする。いやむしろそうであってほしい。今はそんなことを願いながら、私は飲み食いした分を支払って重い足をどうにか動かした。

 そう言えば昨日の男はどうしたのだろうか――見た感じ、かなり来るのに慣れていた常連客のようだった。

 眠る私に構う必要はないのだから、おそらくはどこかで適当に帰ったのだろう。別にそれは薄情でも何でもなく、当然の権利というやつだ。

 太陽はまだ昇りきっておらず、昨日からの寒さがまだあちこちの影に残っている。酒に飲まれて寝た体には若干窮屈な気候だった。

 しかし甘んじて受け止めなければならない。それなりに楽しんだ余韻とは、そんなものにしかならない――。




「――ふぅ、やっと着いた」




 はっとなって振り返る――今自分が歩いた道の、僅か数メートル先を見る。

 そこには男がいた。私が居酒屋で話を聞いた、赤ら顔の男が――。




「あなたが寝ちゃいますからね。でもまぁ、私も昔はよく寝てましたよ。あそこのご店主は寝落ちしてもそのままにしちゃいますから」




 笑う男がそれ以上語るより前に、私は理解した。

 男が目の前にあった家に消えていく光景を根拠にして、「やられた」と呟いた。

 何故あんなにもタクシーのことを知っているのか。それはそうだ、彼も利用者だったからに他ならない――。

 私はまんまと、あの男の幽霊タクシーになったのである。


 ひょっとすると、あれは乗車賃だったのだろうか。

 居酒屋であれだけの肴を与えてくれたこと。あれは、ひょっとすると彼なりの乗車賃だったのかもしれない。無賃で使い続けるのは忍びないから、居酒屋で偶然出会った私に―-。


「……どっちでも構わないか」


 楽しければそれでいい。

 あの男も、私も、そういうものを求めてあそこへ行ったのだから。それ以上の価値や理由は――きっと無粋だ。


「さよなら、それじゃあ私はここで」



 無色透明な、結果だけの余韻を持って、私は早朝の道を帰る。

 春に似合わぬ寒気は薄れ始め、季節相応の日差しが背中を押していた。

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