そら

 春の雨上がりの風が強い放課後に、私は部活に勤しむべく美術室に向かっていた。部員は少なく、六人だけ。しかもそのうちの三人が幽霊部員になってしまったから困ることもたくさんある。


部員構成は、男子四人に私を合わせて女子二人。三年生の部長も男子で背が高くて爽やかだから人気がある。


それでも美術部の人数が少ないのは部長が本当に怒ったことがあるから。


 つい最近、先輩の噂をきいて是非お近づきになりたいと部活見学におしかけてきた一年生の女の子たちに、壁に立てかけていたキャンバスを倒された先輩が怒ってしまったのだ。

君たちが真面目に美術を楽しむような人には見えない、そんな人はこの美術部にはこないでほしい、と。


先輩が本気で怒ったのを見たのはあれが最初で最期になりそうだ。だって先輩は、今年で卒業なんだから、だって、五月にある体育祭の応援幕を描いたあと、六月には引退なんだから。


寂しいと思うと同時に、今日はもう一人の女の子が休むということを思い出した。だから先輩と二人きり、未だに緊張して仕方がない。


 部室へ続く階段を上がる。踊り場には大きな窓が付いていて、桜の木と青い青い空が広がっている。もう桜は散り始めて、風にのってひらひらと舞い降りてなんとも幻想的だ。

階段を上がりきって部室にはいる、こんにちはなんて挨拶が出てこないほどに綺麗な光景が広がっていて、私はその一瞬にどうしようもなく見惚れてしまっていた。


 それは、先輩がこちらに背を向けて開け放った窓の桟に手をかけながら外を覗き込んでいる光景。

春の強い風に煽られたカーテンがぶわっと広がって先輩の周りを楽しく飛び交うようにして揺れる。その後ろには青い空とそこに浮かぶ真っ白な雲。そして淡いピンクの桜。


 私に気づいた先輩は、やっほ、と優しく微笑んで声をかけてくれた。そのおかげで私はつまっていた息を吐き出せた。息がつまるほど美しいと感じたのは、先輩に対してなんらかの美意識を見出しているからなのだろうか、それともまた、こんな歳になるまで縁のなかった恋心というものなのか。

果たしてそれは定かではないけれど、私は先輩にもう一人女の子が休みだということを伝えて愛用のクロッキー帳と筆箱とを学生カバンから取り出した。


 その瞬間に強い風。

私の前髪を跳ね上げ、斜めから上に、ぐちゃぐちゃにする。桜が入ってきて、机の上に花びらが何枚か散った。


「風、強いですね。空はとっても綺麗ですけ

ど」


私がそういうと、先輩は


「僕、強い風も好きだよ。強くて、気ままに、どこまでもいけちゃうでしょ」


 先輩は、どこかに行きたいのだろうか。それが、絵の技術の高みであったとしても、地理的にとても遠いところだったとしても、もう少しだけこの部室にいてほしいと思う。

だって、先輩と話せる機会なんて美術室でしかないんだし。


唐突に先輩が話しかけてきた。


「そら、きれいだよね。好き?」


「はい、空、好きですよ」


変な声、出していなかっただろうか。

本当に今日はなんでか緊張する。理由を探れば探るほど一つの思いが浮かび上がる。


先輩、いかないで。好きなんです。


さっきの風に吹かれて上がってきた強い気持ち。

 今やっと気持ちに気づけたのに行ってしまうなんて。空じゃなくて、私を見て欲しいのに、先輩の目は窓の外の青い空に向けられている。


「違うよ。君が思っている空を僕は好きって言っているんじゃない」


君の名前、思い出せないの?


疑問の声をあげる暇もなく、先輩が紡いだ言葉。


 それは、私の名前を言わなくてもわかるだろう。

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