ガラスペンと風船

 一人の少女が小さなバスケットを持って僕に背を向けて立っている。立ち尽くして、木の上を見上げている。彼女は泣くこともせずにじっと、木の枝に引っかかった風船バルーンを取るべく思考を巡らしているところらしい。


 ベンチに座っている僕は、あいにく背が高いほうではないし、女の子の知り合いでもないのだから、わざわざこの子に風船バルーンをとってやることはないだろう。

僕は人を助けようなんて崇高な思いは持ってないのだ。


 しかも僕は友達と待ち合わせをしている。今はちょうど集合時間の十分前。僕らの集合のルールの一つ、このベンチに腰掛けて初めて集合は成立となるから、時間に厳しいほうである僕は十分前にここにいないと落ち着かないのだ。


だが、この暖かい気持ちのいい日に僕を呼びつけた張本人の檸檬れもんは時間にルーズでかなり個性的だ。檸檬れもんという名前だって本名というわけじゃあない。

僕らはなぜかハンドルネームでそれぞれを呼び合っているのだ。遊ぶ時はいつもそう。二人の時なら学校でもそうだったりする。


 こんな暖かい気持ちのいい五月は散歩もいいけどふかふかの毛布がしいてある寝台ベッドに飛び込んで寝るのがいいのに、そして僕は今日まさにそれを実行しようと思っていたら携帯電話の通知音がなったのだ。通知音は三回。檸檬、青いベンチとだけ書かれたメールが送られてくるのも、集合の合図。


あぁなんだか眠くなってきた。顔を下に向けて目を閉じる。檸檬れもんが起こしてくれるだろう。すると僕の半ズボンの裾をくいくい引っ張る誰かがいる。顔を上げると目の前には木の上を見上げていた少女。


風にふかれふわりと広がったサクラ色のスカートと真っ黒で綺麗な腰まである長い髪の毛。背は低くて、幼稚園児だと思われる。手にはテディベアを持っていて、スカートのポケットからはレースとSの文字が縫い付けられたハンカチが少しはみ出している。


「こんにちは、どうしたんだい?君」


ベンチに座りながら、眠たそうな態度をとってしまったせいか、少女は不安そうに寄せていた整った眉をまた少し歪めてしまった。目は潤んでいて泣きそうだ。そんなことで泣かないでくれ、と内心思うが口にはしない。

少女は小さい口を開いた。


「私の風船バルーン、とってほしいの。お兄ちゃんならとれると思うの」


「だって僕はあまり背が高くないよ、木の枝からはとれても、それを掴んで君に渡すのは難しい」


「大丈夫、とにかく木の前に来てよ。私が木を縮めるから」


 えっ、と声を出しそうになった。今この子は木を縮めるっていったのか?そんなことができるもんか。

そう思いながらも引っ張られるままに木の前に行くと、少女は急にしゃがみこんだ。すると木がみるみるうちに地面に沈んでいくように確実に縮んでいく。


ジャンプした僕の手が風船バルーン充分届く位置になる頃には、五メートルほどあった木は約三メートルも縮んでいた。


僕は女の子に風船を手渡した。


「君は魔法が使えるのかい?」


「ううん、わたしは木の精だから、木がお家だからね、お家に帰るために風船バルーンが必要なの」


「ねぇお兄ちゃんの目、綺麗ね。翡翠色で硝子みたい」


 僕はこの自慢のお祖父さんから受け継いだ緑の目を褒められて、素直に嬉しかった。


「この緑色は僕のお祖父さんから受け継いだのさ。お祖父さんはどこか遠い、美しい国で生まれたんだ」


楽しいお話と風船バルーンありがとう、お兄ちゃん。夢の邪魔をしてごめんね。良いものあげる。綺麗な、硝子の。

女の子はそこまでいうと僕の目の上に手を伸ばした。僕はゆっくり目を閉じた。



 ゆったりと心地いい気分で目を開けたら、目の前に女の子はいない。どこからが夢でどこからが現実だったのか、ぼんやりとしか考えられない。


時計を見ると、十二時五十五分。たった五分ほど寝ただけなのにあんなに濃い夢を見るとは。

木の精だって言ってたなぁ。まるで桜の花のようだったじゃないか。案外本当なのかもしれない。


 気づくと、右手に綿が敷き詰められた翡翠色のリボンがかかっている水色の箱を握っていた。

これ、硝子ペンだ。日の光が当たってきらきら光るその黄緑色が、反射して柔らかな光を青いベンチに落としていた。


 良いものって、きっとこれだろう。僕は木の幹を、葉っぱを見つめながらありがとうを繰り返した。

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