夜の動物園(後編)

     8


 ……今宵も彼奴が来ているようだ。懲りない奴め。

 懐中電灯で辺りを照らしつつ、加賀見が密かに舌打ちした。加賀見は少年が現れる夜が何と無くわかるようになった。そんな夜は園内の空気が微かにざわめくのだ。別に動物が騒いだりするようなことはないのだが、でも彼等がそわそわと期待を込めて闇を見つめている気配がする。認めたくない。認めたくはないが、しかし少しだけ少年が羨ましかった。

「え~、でも流石にちょっとソレ言いにくいな~」

 バードケージの近くを通りかかると、不意に少年の声がした。こんな夜更けに一体誰と話しているのだろうか。懐中電灯を消した加賀見が足音を忍ばせてそっとバードケージに近付く。鍵の掛かっている筈の巨大なケージの中で、少年が無数の鳥に囲まれて座っていた。少年の頭にも肩にも鳥がとまり、月明かりの中、ピィピィチィチィとまるで少年と会話でもするように囀っている。

「だってさ~、音痴なヒトって自分では自覚症状ないらしいじゃん? 俺の兄者がそうだったからね。それにいくら音痴でも、誰にでも歌う権利はあると思うんだよね」

「誰が音痴なんだ?」

 加賀見が背後から声を掛けた途端に少年が飛び上がった。

「うわっ、やだな、おっちゃん! 立ち聞きなんて悪趣味だよ」

「一体どうやってケージに入ったんだ? 鍵が掛かっていただろう?」

「あ、錠前破りって俺の特技なの。だから俺っていつでもどこでもフリーパスなんだよね」

 茶目っ気たっぷりにくるくると瞳を動かす少年を加賀見がじろりと睨む。

「全く気味の悪い餓鬼だな。夜中に薄暗いケージの中でぶつぶつと独り言なんぞ言いやがって」

 ヒドイな~、と煉が笑う。しかし、「音痴とは一体誰のことだ?」と加賀見が再び尋ねると、何故か言い難そうに口籠り、ちらりと上目遣いで加賀見を見上げた。そのまましばらくもじもじと躊躇っていたが、加賀見に睨まれると観念したようにぼそりと呟いた。

「……加賀見さん」

「……は?」

「だからさ~」と煉が嘆息と共に肩を竦める。

「おっちゃんって、よくバードケージの朝掃除に来るんでしょ? 担当でもないのにさ」

 なんでこいつはそんな事まで知っているのだ。鳥類の担当飼育員から聞いたのだろうか。加賀見は確かに木の生い茂ったこの巨大なバードケージが好きだ。仕事が多かったり、わざわざ家まで帰るのが億劫で園で寝泊まりした翌朝など、目覚ましがてら早朝暗いうちに来て掃除を手伝うことも多い。

「それでさ、朝っぱらからおっちゃんの音痴な鼻歌を聞くとストレス感じちゃって消化に悪いから、出来たらやめて欲しいってコイツ等がさぁ」と煉が鳥達を指差した。

 そんな馬鹿な、と加賀見が言いかけた途端、煉を取り囲んでいた大小様々な鳥が一斉に加賀見を振り返った。自分を見つめる無言の視線に、流石の加賀見も思わずたじろぐ。

 ……鳥にストレスを感じさせるほど俺の歌は不味いのか。自分の事を歌姫などと言うつもりはないが、でもそこそこイケる方だと思っていたのに。数々の忘年会での自分のカラオケ熱唱シーンを思い出し、恥ずかしさのあまり顔がカッと熱くなった。

「あぁ、そうだ、ついでにもうひとつ、あっちのふれあい広場の山羊からもおっちゃんに伝言があったんだ」

「なんだ?! 俺は山羊の前で歌ったことなんてないぞっ」

「いや、そうじゃなくてね」

 煉が可笑しそうにクスクスと笑う。

「『やめろとは言わぬが、酒は程々に』だって」

 ぐぬぬ、と唸りつつ、年老いた哲学者のような山羊の風貌を思い浮かべる。確かに加賀見はかなりの酒好きだ。しかし独りで飲んでも味気ないので、しばしばふれあい広場の動物達相手に夜中に酒盛りすることがある。誰も知らない加賀見だけの秘密だと思っていたのに――



 翌朝、バードケージの朝掃除に現れた加賀見が鳥類担当の飼育員にぼそりと尋ねた。

「おい、俺の歌はそんなに不味いか?」

「は? えっ、あ、あの、すみません、なんのことですか……?」

「……いや、なんでもない。気にするな」

 不意にクワックワッ、ウケケケケ、と頭上から笑い声が降ってきた。むっとして見上げると、枝にとまったワライカワセミと目が合った。再びカワセミがウケケケケ、と肩を震わせて笑った。



     9


「オヤッサン、ちょっとお見せしたいものがあるんですけど」

 アムール虎の飼育員が、バードケージから出て来た加賀見が一人でいるところを見計らったように声をかけてきた。

「オヤッサンにこの前言われてから、琥珀と紅玉の様子を少し気をつけて見ていたんです。そしたら、なんか紅玉が運動場や屋内寝室に何か隠してる風だったんで、掃除ついでに探してみたら、こんなの見つけたんですけど。オヤッサン、心当たりありますか?」

 飼育員が差し出した物を、加賀見がしげしげと眺めた。それは、硬く透明なプラスチックの板に丁寧に挟み込まれた二枚の写真だった。一枚は紅玉と産まれたばかりの仔虎のツーショットで、これは動物園のホームページに載せてあるものをプリントしたらしい。そしてもう一枚は加賀見には見覚えのない、若い虎のものだった。その写真を指差して、飼育員が首を傾げる。

「これって、絶対紅玉の息子ですよね。目元は紅玉、耳の形は琥珀にそっくりですもん。貰われていった動物園で瑪瑙って名前をつけられたんですよ、あいつ」

 懐かしいなぁ、と飼育員が目を細める。

「紅玉のやつ、これを宝物みたいに大切に隠してたんですよ。俺に見つかったら取られちまうと思ったんでしょうね」

 飼育員が軽く咳払いした。

「……で、コレどうすればいいでしょうかね?」

 飼育員に上目遣いで尋ねられ、むう、と加賀見が唸った。動物が間違って飲み込んでしまうような異物は飼育舎内では御法度だ。これを見逃し、もし万が一にでもそんな事が起これば、己の首が飛ぶだけでは済まないだろう。加賀見が溜息を吐いた。

「……どうすればって、仕方あるまい。宝物っていうなら、紅玉に返してやるしかないだろうが」

 加賀見の言葉に、飼育員がホッとしたように肩の力を抜いて笑顔をみせた。

 加賀見と飼育員が連れ立って飼育舎に行くと、二重扉の前で紅玉が落ち着きなく行ったり来たりしていた。飼育員が鉄格子の隙間から写真を差し入れてやると、慌てて飛んできて、いかにも大切そうにそっとそれを咥え、運動場に走り去った。



     10


「……またお前か」

 真夜中、アイスキャンデーを片手に象の飼育舎を囲む柵に腰掛けた煉の姿に、加賀見が苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちした。

「こんな夜更けにそんなもん食いやがって、腹を下すぞ」

「これはね、さっき飼育員のお姉さん達がくれたんだ。『レン君に食べてもらおうと思って買ってきたのよ~』だって。俺って可愛いからさ、よく色々と奢られちゃうんだよね。ほら、ヒトの自然な心理ってやつ?」

 にやにや笑いながらアイスキャンデーを舐める少年の姿に加賀見が顔を顰める。確かに多くのヒトは愛らしい小動物を見ると何故か食べ物をやりたくなる。それゆえ、自然公園や動物園では、『動物に餌をやらないで下さい』などという不粋な看板が不可欠なのだ。つまり、こいつは猿山の子猿と同等ということか。

「なに? ヒトの顔じろじろ見ちゃって、怖いじゃん」

「……お前の顔を見ていたら、マンドリルのことを思い出した」

「マンドリルって、あの派手な顔したヒヒ? えーっと、なんだっけ、確かすごい似合わない名前の――」

「……撫子」

「ああ、そうそう、ナデシコ」

 似合わないよな~、と呆れたように煉が肩を竦めた。

「で、そのナデシコちゃんがどうかしたの?」

「うむ、撫子はヤスの担当なんだが、撫子もそろそろ年頃だから子供を産ませてやりたいとヤスが言い出してな。昨年あたりから良さそうなオスを見繕っては連れてきとるんだが、どうも上手くいかん。撫子のやつ、何が気に喰わんのか、相手のオスを無視するくらいならまだしも、本気で襲いかかったりするから危なくって全く気が気でない」

「それってさ、やっぱ名前が悪いんじゃないの?」

「名前?」

「だって、ナデシコなんてさ~」と言って煉がけらけらと笑う。

「知ってる? 撫子の花言葉って『貞淑』だよ。変にハイレベルな名前付けられちゃって、完璧名前負けしてるんじゃないの? どうせなら傲慢とか高慢ちきとかにしとけば良かったのにさ」

「名付け親はヤスだ。俺は知らん」

「ま、今更そんなこと言っても遅いけどね」

 煉がアイスキャンデーを舐めつつ少し考え込んだ。

「……写真」

「写真?」

「あ、やっぱビデオの方がいいかな。スカイプとかビデオフォンとかなら本当はもっといいんだけど」

「なんの話だ?」

「スカイプって知らない? パソコンや携帯のカメラ使って相手の顔を見ながら話が出来るんだけど」

 加賀見が首を捻った。少年が何を言おうとしているのか、全く話がみえない。

「だからさ~、撫子ちゃんは超気位が高い上にイケメン好きなんだよ。好みのタイプは自分で選びたいんだって。だからさ、候補のオス猿達のビデオを見せたら、その中から自分で気に入ったのを選ぶんじゃない? お見合い写真みたいなもんだよ。そうそう、ちなみにあいつってドSだからさ、探すならちょっとMっ気のあるオスの方がいいと思うよ?」

 お見合い写真か。加賀見が考え込んだ。確かに悪くないアイデアかも知れない。少年がどこまで本気か分からないが、駄目で元々、安田に試すよう言ってみるか。それにしても、と加賀見が安田の人の良さげな笑顔を思い浮かべた。撫子は安田によく懐いている。と言うか、傍から見ると、あれは高飛車な女王様に仕える下僕の図、といった感が無きにしも非ず。つまり安田はMなのか。どうでもいいが、でも機会があったら是非訊いてみたい。

「ねぇ、加賀見さん」

 宿直室に戻ろうと踵を返した加賀見を煉が不意に呼び止めた。

「加賀見さんが本当に聞きたいのは、猿のことなんかじゃないでしょ?」

 思わずぎくりとして足を止め、柵に腰掛けた少年を見上げた。煉が月明かりにぼんやりと浮かぶゾウの飼育舎を振り返った。

「俺さ、昨日、桜子と話をしたんだ」

 煉の哀しげな横顔を見た途端に、心臓が鷲掴みされたようにぎゅっと痛んだ。

「……桜子は、あいつは、どうなんだ?」

 俺は一体素人のガキに何を聞こうとしているのだろうか。頭の隅で自分を嘲笑いつつ、しかし加賀見は息を凝らして少年の口許をみつめた。

「どうって言われても」

 煉が言い辛そうに口籠り、気の毒そうに加賀見を見ると、すっと目を逸らした。少年の沈黙が語るものが怖ろしくて、足が震え、目の前が暗くなる。

「……教えてくれ」

 掠れる声で懇願した。素人だとか、子供だとか、そんな事はどうでもいい。唯、答えが欲しかった。どんなに細くてもいい。この暗闇の中、縋りつくことの出来る蜘蛛の糸が必要だった。

「俺に出来ることなら何でもする。桜子は、あいつは俺の全てなんだ」

「……すべて、か」

 黒々と大きな瞳を僅かに細めるようにして加賀見を見つめていた煉が、やがて静かな声で言った。

「桜子はね、海が見たいって」

「海……?」

 そう、と少年が頷く。

「生まれた地から引き離され、遠い異国の余りに狭く限られた世界に生き、そして死んでゆく運命の、それだけしか与えられなかった彼女の、一生のお願いだって」

 幸い動物園は海を見下ろす丘の上にある。移動用のケージを使い、海の見える所に連れて行くくらいなら出来るかもしれない、と加賀見が言うと、煉は素っ気無く首を横に振った。

「それじゃ駄目なんだよ。桜子は自分の足で砂浜を歩き、足元を濡らす波を自分で感じてみたいんだって」

「そんなこと出来るわけないだろうが。いくら普段大人しくたって、象は猛獣の類なんだぞ。サーカスの象やペットの犬じゃあるまいし、外を自由に歩かせてやる許可なんぞ下りるわけがない」

「許可なんか要らないよ。加賀見さんが黙っていてくれれば良いだけだよ。要は桜子が海にいる間、ヒトが浜辺に近寄らなければ良いんでしょ?それくらい簡単だから、俺に任せといて。俺が一緒なら桜子が暴れることもないしさ」

「任せとけって、そんなこと言われて、はいそうですか、ってわけには……」

 煉が夜空を見上げ、ハァ〜と面倒臭そうに溜息を吐いた。

「あのさ、加賀見さんさ、本当は見ちゃったんでしょ? 琥珀と紅玉だけじゃなくって、俺がワニの池で何をしていたか」

 思わず口籠った加賀見を闇色の瞳がじっと見つめる。

「俺は動物と話が出来る」

「そ、そんなこと……」

「信じないとは言わせないよ」

 煉が勝ち誇ったような色を眼に浮かべ、口の端を僅かに吊り上げた。

「おっちゃんは俺に撫子のことを訊いた。それどころか、俺が桜子の望みを伝えた時、おっちゃんは俺がそれを知っていることに対しては何の疑いも持たなかった。嘘つくな、何でお前にそんな事がわかる、とは言わなかったんだから」

 だから、と煉が続ける。

「俺は桜子を完璧にコントロールすることが出来る。誓ってもいい。桜子を暴走させたりなんかしない」

「し、しかし……」

 ふっと溜息を吐き、煉が艶やかな黒髪を掻き上げた。利かん気そうな眼が加賀見を軽く睨む。

「証明してあげるよ」

 煉が象の運動場を囲む二重柵の上にひらりと飛び乗ると、加賀見が止める間も無く柵の内側に降り立った。

「ば、馬鹿ッ! よさんかっ! 何をしている?! はやく出ろ!」

「桜子」

 慌てふためいて喚く加賀見に構わず、煉が象を呼ぶ。痩せたといえ、今なお巨大な象が木立の陰からのっそりと姿を現し、少年の小さな影に近づいてきた。煉が片手を頭の上にかざすと、象がゆっくりと前足を上げてハイタッチでもするかのようにその手に触れる。象が僅かにバランスを崩せば、少年は一瞬にして跡形も無く踏み潰されるであろう。象の足を頭の上にかざしたまま、煉がくるりと体を回し、加賀見を振り返った。

「桜子は俺を潰したりしない。琥珀が俺を噛み殺すこともないし、イリエワニが俺を引き千切ることも、ニシキヘビが俺を絞め殺すこともない」

 夜風に艶やかな黒髪をなびかせ、少年がその紅い口許ににやりと不敵な笑みを浮かべた。

「……だって俺達、友達だから」

 こいつは猫の皮を被った虎だ、と加賀見は思った。あどけない無邪気さを装ってはいるが、それはこいつの本性ではない。友達などと、それだけの理由であの琥珀がただの餓鬼に一目置くわけがない。何故かは解らないが、琥珀は、いや、ここにいる全ての動物は、この少年が自分達よりも強いと認めている。こいつは一体何者なのだ。それどころかこいつは本当に人間なのか? 不意に安田が誰かに話していた言葉が脳裏を過った。

「座敷童子は口減らしとかで殺されて、密かに床下とかに埋められた子供の霊だって説もあるんですよ」

 ならば、この少年は、もしや動物園で死んだ子供の霊なのでは――

「どう? もっとやる? それとも――」

「わかったッ! わかったからサッサとそこから出ろッ」

 煉の頭の上に足をかざした桜子がふらついたのを見て、我に返った加賀見が喚いた。

「ったく、心臓に悪い餓鬼だ」

 柵の外に出て来た煉の頭を一発殴ると加賀見が忌々しげに舌打ちした。

「お前といるとこっちの寿命が磨り減る」

「あぁ、俺、それよく言われるんだよね~。でもおっちゃんなら心配無用じゃない? 憎まれっ子世にはばかるって言うしさ」

 きゃははは、と笑う煉の頭を加賀見が再び無言で殴った。

「じゃあ、決行は三日後の満月の夜ね。おっちゃんは他の飼育員に気付かれないように浜辺まで桜子を連れていく算段だけしといてね。あとの事は俺に任せといてくれればいいから」

 殴られた頭を撫でつつ、煉が自信たっぷりにウインクしてみせた。



     11


 月明かりに煌々と照らされた海辺を、小さな影を背に乗せた巨大なシルエットがゆっくりと歩く。その足元に波が砕け、星屑のような雫を散らす。夏の名残りの香る月の美しい夜にもかかわらず、辺りには全く人の気配が無かった。今晩ここには誰もこない、と煉が言ったことを思い出す。

「俺の知り合いが協力してくれてるからさ、心配いらないよ。今晩だけは俺達だけの貸切りプライベートビーチだと思っていいから」

 ふん、と鼻を鳴らすと、加賀見は楽しげに笑う少年から目を逸らした。コイツの言う知り合いとはヒトでないモノのような気がしたが、敢えて知りたいとは思わなかった。

 暗い沖合いを見つめて立ち尽くす桜子の背中から滑り降りた煉が、少し離れた浜辺からその姿を見守る加賀見のもとに歩いてきた。

「どうだ、桜子は満足しているか?」

「うん、来れてよかったって。加賀見さんにはすごく感謝してるって言ってたよ」

 感謝なんぞ、と加賀見が桜子の後姿を見つめたまま呟いた。四十年近くを共に過ごし、しかし俺は感謝されるようなことは何もしてやれなかったと、哀しみに似た後悔の念が胸に湧く。

「……桜子は、やはり寂しいのだろうな」

 自分には家族がいる。園から一歩外に出れば、そこには女房や娘や、そしてこれから生まれてくるであろう孫がいる。しかし桜子には誰もいない。

 じっと海に向かい立ち尽くす老いた獣は、繰り返し、繰り返し、足元に寄せる波に何を想うのか。皺に埋れた優しい眼が見つめているのは、あの暗い海のずっと先、遥か彼方に霞む故郷なのだろうか。二度と帰ることのない、遠い大地――

「あのね、桜子はアフリカが故郷だなんて思ってないって言ってたよ」

 加賀見の思考を遮るように、不意に煉が口を開いた。

「桜の花の咲く日本が故郷だと思ってるって。『心在る処こそ我が家』って聞いたことない? 大切なヒトがいるところ、自分が共に在りたいと願う相手がいるところこそが故郷ってことだよね」

 加賀見を見上げて煉がにっこりと笑った。

「桜子は確かに生まれはアフリカだけど、でも物心が付く前に日本に来たんだ。以来三十七年間、雨の日も風の日も、いつも桜子の隣にいたのは加賀見さんだった。だからね、桜子が帰りたいと願う場所は、覚えてもいない遠いアフリカの大地なんかじゃなくて、ここ、加賀見さんがいるところなんだよ」

「……そうか」

 不意に柄にもなく目頭が熱くなり、声が掠れ、震えた。泣くな、と自分に言い聞かせる。泣くな、それは甘えだ。泣くことで、現実から目を逸らしてはならない。自分を、人を、赦してはならない。

「だが、この次に生まれてくる時こそは、どうか自由に――」

「え?」と不思議そうに煉が首を傾げた。

「この次にって、そんな簡単に殺しちゃうってどうなの? おっちゃんも案外薄情なんだなぁ」

「……薄情ってお前、桜子は病気で死にかけてるんじゃないのか?」

「は? 死にかけてるって、それナニ情報?」

「な、ナニ情報って、お前が言ったんだろうが?! 桜子の一生のお願いだって……!」

「あれ? 死にかけてないと一生のお願いってしちゃイケナイの?」

 知らなかったな~、と言って煉がにやにやと笑う。その顔に目眩がした。

「……病気じゃなかったのか?」

「病気ってゆーか。桜子さ、最近ポエム創りにハマっててさ。自分の創ったポエムを月夜に吟じて悦に入ってたんだけど、どっかの海鳥に海の詩を作ってくれって頼またんだって。でも見たことないモノの詩なんか作れないじゃん? 日本に来た時は狭い船倉に押し込められてたらしいし。まぁとにかく、海の詩を作れなかったせいで、己の才能に限界を感じて鬱々としていたらしいよ。ほら、ヒトの芸術家にもよくいるじゃん、自己陶酔型ですぐ鬱病っぽくなっちゃうヒト。まぁある意味一種の病気だよね」

 つまり桜子が夜中にパオーパオーと吠え続けていたのは吟遊詩人のつもりだったのか。てっきり腹痛で呻いているのだと思っていたのに。

「ゾウって、感受性が豊かってゆーか、芸術家肌なやつらが多いんだよね~」

 きゃははは、と笑う煉を加賀見が睨んだ。俺は夜も眠れぬほど心配していたというのに、己の首をかけて此奴等を海に連れてきたのは、ポエム制作の為だったと言うのか。

「あんな、あんな芝居までうって、おまえ等俺を騙したのかッ?!」

 声を荒げて喚く加賀見を、まぁまぁ、と笑いながら煉が宥める。

「騙したなんて人聞きが悪いなぁ。そんなことより、海も見れたことだし、これで桜子も脱鬱病でしょ? めでたしめでたしじゃん。吟詠だってそのうち飽きるって。そうだ、夜鳴きをやめさせたいなら、絵の具と筆でもあげてみれば? どっかで有名になったじゃん、絵を描くゾウ。そっちの方が一般受け良さそうだし、世の中には物好きがいるからね、上手くすれば絵が売れて、あのボロ動物園も改築とかできるんじゃない?」

「ボ、ボロとはなんだっ?! ボロとはッ」

 喚く加賀見から煉が笑いながら逃げ出した。そのまま波打ち際まで走り、仔犬のように桜子の足元にじゃれつく。その姿にふと思う。

 もし桜子がその気になって、絵を描いて、その絵が売れでもしたら、動物園を拡張できるかもしれない。新しい動物が欲しいわけではない。今いる奴等にもっと広いスペースや遊び場、故郷の自然に近い環境を提供してやりたい。のびのびと暮らす動物を観ることは、園の見物客にとっても得るものが多いのではないだろうか。頭の中で次々と様々な構想が膨らむ。なんだ、俺は。加賀見が慌てて頭を振った。いい歳して、夢話どころか、まさに取らぬ狸の皮算用ではないか。

 水際で戯れる桜子が、背中に登った煉に鼻で吸い上げた水を吹きかけ、煉がきゃははは、と甲高い悲鳴のような笑い声を上げる。その姿に、胸の内からクスクスと温かなモノが込み上げてきた。

 不思議だ。あいつらを見ていると、なんだか何でもヤレるような気がしてくる。俺は今まで真面目にやってきたつもりだ。だからこそ、今、夢をみるのも悪くないのかも知れない。

 若者よ、悩め悩め、と笑う宮村老人の温かな声が不意に胸に響き、加賀見がふふん、と鼻を鳴らした。


 若者は悩み、そして夢を追う。




    エピローグ


 海を見下ろす丘にある動物園には、色々と不思議な習慣がある。

「おい、モフ、クロ吉に会いに行くか?」

 飼育員がライオンのケージに声をかけると、夜風に見事なたてがみをそよがせていたライオンが、いそいそと移動用の小さなケージに入った。台車に載せた移動用ケージを数人の若い飼育員達がゴロゴロと引いてゆく。ひと気の無いふれあい広場の近くまで来ると、丁度向こうから、やはり数人の飼育員達に引かれて月の輪グマの入ったケージがやって来た。並べて置かれたケージ越しに、月の輪グマとライオンが、ウォウウォウグルルルル、と何やら真剣に語り合い、お互いを慰めあい、時には無言で肩を並べ月を眺める。

 そんな二頭の友情を肴に、加賀見はふれあい広場の山羊の隣で酒盛りをする。山羊の目が厳しいので、酒は二合、ビールの大瓶なら一本、缶ビールなら三本まで、と決めている。

「オヤッサン、またこんな所で酒盛りですか?」

 呆れたように笑いながら安田が白いビニール袋を手に現れた。かく言う安田も慣れた手付きで缶ビールを開け、袋から取り出したスルメを加賀見に勧めてくる。

「ああ、そうだ、ナデシコのお見合いの話なんですが」

 ナデシコとはイケメン好きのマンドリルだ。

「俺の説明が下手なんでしょうけど、やっぱりスカイプってのは、相手の動物園の理解が得られなくって……」

 そりゃそうだろうな、と酒を飲みつつ加賀見が頷く。

「でも候補の雄のビデオを撮って送ってくれるって言うんで、なるべく色んな角度から撮った高画質のモノを頼んでおきました」

 ご苦労さん、と安田を労い、紙コップに酒をついでやる。

「ナデシコも気に入った相手が見つかるとイイですね~。でも俺も早く誰か見つけないと、呑気に猿の仲人とかしてる場合じゃないっすよ、ホント」

 ビール一杯で顔を真っ赤にした安田が、愚痴を言うわりには楽しげに笑う。ふと以前に煉が言っていたことを思い出す。

「おい、ヤス。お前、Mなのか?」

 安田が飲んでいたビールを盛大に噴いた。

「な、イキナリ何言い出すんですかっ! オヤッサン?!」

「撫子はSらしいからな、お前によく似たオスを探してやれ」

 オヤッサンってホント時々わけわかんないこと言い出しますよね~、などと些か聞き捨てならないことをブツブツと呟きつつ、安田がビールに濡れたシャツと顔を拭う。

「そう言えば、聞きましたか? この前新しく入った荒井って奴、写真が趣味なんですよ。アマチュアの写真展とかで結構入賞とかしてるらしいんですけどね、動物達の家族写真の話をしたら、すごい乗り気になっちゃって。早速明日にでも自慢の一眼レフを持ってくるって言ってました」

 飼育舎の壁に写真を貼る。見物客の為ではなくて、ケージの中の動物達が見ることのできる場所に貼られるであろう数々の写真に想いを巡らせ、加賀見が口許を綻ばせた。

 酒に弱い安田が千鳥足で家に帰ってしばらくすると、煉がひょっこり顔を出した。

「なんだ、遅かったな。ヤスが待っていたのに」

 安田が置いていったビニール袋の中から加賀見がチョコボールの箱を取り出し、煉に投げてやる。

「安田さんならさっき見かけたよ。道端で電柱に話しかけてて、お巡りさんに職務質問されてた。あのヒトもしっかりしてそうで、結構アブナイよね~」

 きゃははは、と笑いながら煉がチョコボールを頬張った。ふれあい広場の小動物達が、我先にと煉の膝や肩によじ登り、シャツの中に潜り込む。くすぐったそうに笑いながら、煉が一匹一匹を愛おしげに撫でてやる。そんな少年を横目で眺めつつ、加賀見は杯を重ねる。

 ウチは今、良い流れに乗りかけている、と心地良く酔いの回った頭で考える。長年培われてきた経験と積み重ねられた努力、若い飼育員達の瑞々しい感性や情熱。そして夢。それら全てを積み込んだ、ウチという小船を、そっとこの流れに向かって押し出してくれたのは――

「おい小僧。動物園に現れる座敷童子とやらの正体はお前か」

「は? 何それ?」

 放り投げたチョコボールを口で巧みにキャッチしながら煉がにやにやと笑う。

「ここに座敷童子が出るような立派な座敷があるなんて初耳だな。てっきり小汚い休憩所とダニと蚤と虱の巣窟みたいな宿直室だけかと思ってた。おっちゃんさ、よくあんな所で寝れるねぇ。動物達の宿舎の掃除もいいけど、たまには自分の布団も干しなよ。ホントそのうち病気になるよ?」

「ふん、余計なお世話だ」

「こいつらの為にもおっちゃんには元気でいてもらわないとね」

 加賀見がふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向くと、素直じゃないな~、と煉が笑った。夜空高くに放った最後の一粒を見事キャッチした煉が、空になった箱をくしゃりと握り潰して立ち上がった。

「じゃ、おっちゃん、元気でね。安田さん達にもよろしく言っといてね」

「……元気でって、なんだ、もう来んのか?」

 少し驚いて尋ねると、煉がアレ? と首を傾げ、にやりと口の端を歪めた。

「もしかして、さびしいの?」

「阿保かっ」と加賀見が顔を赤くして怒鳴った。

「夜中に園内をウロチョロする奴がいなくなって、清々するわっ」

 きゃははは、と笑う煉に向かって舌打ちしつつ、ゴミをまとめて立ち上がる。

「行くならさっさとしろ。途中まで見送ってやる」

 夜風に吹かれ、実に気持ち良さそうに隣を歩く少年の横顔を見ているうちに、ふと一つの疑問が胸に湧いた。

「おい、座敷童子がいなくなった家はどうなるんだ?」

「うーんとね、座敷童子の憑いた家は繁栄するけど、でもそれでヒトが慢心したりすると出て行っちゃうんだ。そうすると家は途端に傾くんだよね」

「……お前が出て行ったらウチはどうなるんだ? まさか飼育員が噛み殺されたり、いやそれならまだしも、動物達の間でおかしな病気が流行ったりするんじゃないだろうな?」

 まさか、と言って煉がケラケラと笑った。

「何度も言ってるでしょ、俺は座敷童子じゃないって。そもそもおっちゃんに慢心なんてありえないでしょ?」

「む、まぁそれはそうだが……」

 なら大丈夫だよ、と言って煉が眼を細める。

「じゃあな、俺はまだ用があるから。ここでお別れだ」

 園の正門が見える所で加賀見が足を止めた。

「うん、ありがとう。じゃ、元気でね。みんなにヨロシク」

 ばいばい、と手を振ると、煉が門に向かって歩き出した。

 何故だろう。あっさりと別れを告げて立ち去る少年を呼び止めたかった。何か他に言うべき事はなかったか、聞き忘れた事はないかと考えたが、咄嗟には何も思いつかない。

「あぁ、最後にもうひとつ、ふれあい広場のヤギから言伝てがあったんだ」

 加賀見が密かに悶々としていると、煉が不意に足を止めて振り返った。

「『本当は孫が出来て嬉しい癖に、子供じゃあるまいし、イイ歳していつまでも拗ねるな。ろくろく洗濯もしていない作業着を着ている奴なんぞ、周りもイイ迷惑だから、サッサと家に帰れ』だって」

 ぐぬぬ、と加賀見が唸った。どうもあの山羊には頭が上がらない。この洞察力、哲学者風のアゴ髭は伊達ではないようだ。

 下の方から少しずつ明るくなり始めた菫色の空に向かって、少年が笑いながら歩いてゆく。その後ろ姿を見て、今、初めて気がついた。絶対的な存在感を誇る恒星のような引力で、およそ此の世の全ての生き物を惹きつける少年。星の消えかけた暁の空の広さに比べ、その背中の、なんと頼りなく小さなことか。

「おい、小僧!」

 小さな背中に向かって、加賀見が不意に怒鳴った。

「また遊びに来い! 俺が来て欲しいわけじゃないぞ、でもお前が来ないと動物達ががっかりするからな!」

 肩越しに一瞬だけ振り向いた少年の横顔は微笑んでいた。しかし少年が立ち止まることはなく、その背中は益々遠く、小さくなる。

「オイッ! 煉!」

 少年が鍵のかかった園の門に手を掛けると、身軽にそれを乗り越え、足音ひとつ立てずに門の向こう側に降り立ち、そして、ひょいっと左に曲がった。

 少年の姿が見えなくなった途端に居ても立っても居られなくなり、加賀見は思わず門に向かって駆け出した。大急ぎで錠前を外し、息を切らせて外に走り出た加賀見の目前には、朝焼けに染まる穏やかな凪の海と、なだらかに海に向かう長い下り坂があり、そしてそこには誰もいなかった。


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