夜の動物園(中編)

     4


「ほら、オヤッサン、もう遅いし、あとは俺達がやっておきますから。」

 夕方、安田率いる若手達に無理矢理押し出されるようにして加賀見が園を出た。家に帰るのは実に二週間振り、娘の妊娠及び婚約のニュースを伝えてきた女房と大喧嘩して以来だ。気分はドナドナ、売られてゆく仔牛よりも足取りが重いのは肩に背負った汚れ物の山の所為だけではない。

 鬱屈した気分で家の玄関を開けた途端、たたきの隅にきちんと揃えられた男物の革靴が目に飛び込んできた。慌てて目を逸らし、背中の荷物をどさりと下ろす。磨かれた革靴からなるべく離れた所でコソコソと泥で汚れた長靴を脱ぎ掛け、いやいやここは俺の家だ、何を遠慮する事があろうと思い直し、鼻息荒く三和土の真ん中で靴を脱ぎ散らす。

 と、居間のドアが開き、娘の奈津美が顔を覗かせた。

「あぁ、お父さん、帰ってきたんだ? お疲れ〜」

 微塵の屈託さも感じさせない娘の声に思わずむっとする。何か言いかけ、しかし娘に続いて玄関に出て来た女房の姿に慌てて口を閉じる。

「遅かったわね。もう御飯の支度が出来ていますけど、先にお風呂にしますか?」

 テキパキと慣れた手付きで汗臭い洗濯物の山を選り分けながら女房が訊ねる。

「……フロ」

 ぼそりと低い声で呟くと、娘の背後に立つ影から目を逸らし、逃げるようにして洗面所に向かった。

 結論から言えば、娘の婚約者は穏やかで優しそうな好青年だった。しかしやはり気に喰わぬ。食事の間中、眉間に皺を寄せてむっつりと不機嫌に押し黙ったままの加賀見に青年が気を遣っている様子が手に取るようにわかったが、口を利いてやる気にはなれなかった。

 娘が自分で選び、イイと言っているのだからまぁ良い男なのだろうし、加賀見が今更口を出すことでもなかろう。全く実感が湧かないが、しかし孫の顔を見るのが楽しみではないと言えば嘘になる。しかしやはり気分は複雑で、何と無く釈然としない。注がれたビールに決して口を付けようとはせず、時々チラリと加賀見の様子を窺う男の姿に、その遠慮がちな咀嚼音に、どうしてもムッとしてしまう。けれども斜め前に座って娘と談笑する女房の視線が恐いから、加賀見はただ黙って酒を呑み、出された料理を摂取することだけに集中した。

 早々に食事を終え、洗面所へ行く振りをしてそっと家を出る。しかし家を出たとて行く当ても無く、近所のコンビニで煙草を買って公園のベンチに座った。餌が来た、やれ嬉しと襲い掛かってくる藪蚊に辟易としつつ煙草に火を点ける。

 若い頃の加賀見はかなりのヘビースモーカーだった。身体に染み付いた煙の臭いを動物が嫌がると知りつつも中々喫煙に踏み切れなかったのだが、娘が産まれたのを機にきっぱりと煙草を断った。しかし娘が家を出れば、もう誰にも遠慮することは無い。好きな時に好きなだけ吸えば良い。

 数十年振りの煙は舌に苦く、目に沁みる。思わず瞑った瞼の裏に、暗い夜空を見上げて独り佇む象のシルエットが過った。



     5


 加賀見がその少年に気付いたのはワニ騒動から一週間程したある日のことだった。平日の午前中、人通りも疎らな猿山の前で、その少年はやけに熱心に日本猿の群れを眺めていた。鮮やかな赤色の野球帽に隠れて顔はよく見えないが、しかしどう見ても小学生くらいのようだ。こんな時間に学校はどうしたと、声をかけようと思い加賀見が近付くと、少年が不意に振り返った。

「ねぇ、あのボス猿なんだけど」

 少年が日向ぼっこする一匹の大きな猿を指差す。

「あいつ、腰が悪いんじゃないかな」

「……なんでそう思うんだ?」

「だって動きがなんだか緩慢だし、時々だけど右足を引きずってるもん。腰の神経が圧迫されてて、足が痺れてるんじゃないかな」

 ほほう、と加賀見が片眉を吊り上げた。こいつ、ガキの癖に良い眼を持ってやがる。

「……まぁ、あいつも、もうかなりの歳だからな」

 穏やかで賢いボス猿は、群れの統率力も抜群で実に良いリーダーだったが、流石に寄る年波には勝てないのだろう。残念ながら世代交代の日も近いかもしれない。

「そうだね。でも世代交代はもう少し待ったほうがイイかもね」

 まるで加賀見の心を見透かしたように少年が呟いた。

「もう少し、あのナンバー2が精神的に成長して、仁徳ってヤツが備わるまで」

 少年が、ふてぶてしい顔つきで辺りを睥睨している若く毛艶の良い猿を指差す。

「それでさ、ちょっと考えてみたんだけどね。あのボス猿に温泉療法とか試したらどうかと思って」

 オンセン~?! と加賀見が驚いた声を上げると少年が慌てて手を振った。

「温泉って言っても、別に何処か名所に湯治に連れて行けってわけじゃなくってさ、ほら、よくあるじゃん? 家のお風呂に混ぜる温泉の素みたいなヤツ。あーゆーの使って腰を温めてやるだけでもダイブ違うと思うんだよね。そんなたいした手間がかかるわけじゃないしさ、キミョウマルにもっと貫禄ができるまで、ヒデヨシにはもうちょっと頑張ってもらった方がみんなの為になると思わない? 群れの平和コレすなわち飼育員の平和でしょ?」

 考えてみてね、と早口に言うと、呆気に取られている加賀見を後に少年が駆け出し、あっという間に見えなくなった。

「……温泉か」

 確かに悪くないアイデアだ。一考の価値はある。

 歩き出した加賀見が不意に立ち止まり、少年の走り去った方を振り返った。

 ――奇妙丸に秀吉。何故あの少年は猿達の名前を知っていたのか。



     6


 宮村老人から聞いた話を安田が広めたのだろうか。ここのところ、『動物園の座敷童子』の噂をよく耳にする。担当飼育員がお手上げだった問題が何故か最近次々と解決していくせいであろうか。あっちのカバの腹痛が治った、こっちのシマウマの喧嘩が収まった、という話を聞く度に、誰彼ともなく言い出す。座敷童子かもね、と。しかしその度に、加賀見は不機嫌に眉根を顰めて飼育員達を叱りつける。

「馬鹿もん共が、困った時の神頼みじゃあるまいし、なんでもかんでも座敷童子のせいにするな! 問題の原因とそれが何故解決したのかを調べて、次に活かすことを考えろ!」

 しかし加賀見が幾ら怒鳴ったところで座敷童子の噂話は消えない。苛々と園内を歩きつつ、ふと思う。仕事で、私生活で、テレビのニュースで、次から次へと湧き出てくる大小様々な問題。それが人生というモノだが、しかし幾ら問題を解いても解いても終わりの見えない生活に、人々は疲れているのかもしれない。だから、ヒトは救いを求める。それは酒や宗教、神、あるいは物の怪なのかも知れない……などと考えてみたところで加賀見が納得するわけがない。

 己の手の内より知り尽くしているはずの動物園が、自身を取り巻く空気そのものが、何やら少しづつずれていくような奇妙な違和感に、加賀見の機嫌は日増しに悪くなっていく。


     ♢


「紅玉」

 月の無い真夜中。名を呼ばれた雌のアムール虎が顔を上げた。墨を流したような漆黒の闇に金色の瞳が瞬く。

「……煉?」

「うん、頼まれてたモノ持って来たからさ、今からそっち行くね」

「手伝うか?」

 紅玉の隣で横になっていた雄の琥珀がのそりと起き上がり、遠くに動く小さな影に声をかける。

「ううん、大丈夫」

 アムール虎の飼育舎の屋外運動場は、夏でも涼しいように多くの樹が植えられている。周囲は安全策として幅数メートルの水堀と高いコンクリートの壁で囲われていて、見物客は上から虎を見下ろす形になっている。その高い壁の上に立った小さな影が恐れげもなく遥か下の樹に飛び移り、しなった枝の反動を利用して、ふわりと二匹の虎の前に降り立った。

「上手いもんだな。まるきり猿だ」

 琥珀が感心したように唸る。エヘヘ、と照れ笑いしながら、煉がポケットから取り出した物を紅玉の前に置いた。

「ハイ、これ。こんなのでイイかな?」

 渡された物をじっと見つめていた紅玉が、やがて大切そうにそれを咥えると岩の割れ目に隠し、グルグルと喉を鳴らして煉に大きな頭を擦り付けた。

「ありがとう、煉」

「アイツは元気にやっているか?」

「うん、あそこはアムール虎はいないけど、世話好きのベンガル虎がいて色々と教えてくれるからね。最初はびくびくしてたみたいだけど、すぐに慣れて、飼育員のヒト達にも可愛がられてるよ。琥珀と紅玉に因んで、瑪瑙メノウって名前を貰ってさ、今じゃ園一番の人気者だって」

 煉が自分の頬を舐める紅玉の首を笑いながら抱き寄せる。

「それにしても、君達はいつ会ってもふかふかモフモフだねぇ」

「俺達は極寒地の虎だからな。日本の夏は長い上に暑くてたまらん。アセモでもできそうだ」

「そこの水堀で水浴びでもすれば?」

「ふざけるな。あんな汚い水、毛が臭くなる」

「じゃあさ、今度、北極熊が貰うみたいな氷の塊をここにも持ってくるように飼育員さん達に言っとくよ」

「煉、今晩は泊まっていったら? 布団がわりになってあげるわよ」

「虎皮の布団か~。贅沢だけど、でも俺って暑がりなんだよね」

 ひんやりとした地面に寝転がった煉が、紅玉の前足の裏と自分の掌を合わせる。足の裏を触られてくすぐったかったのか、紅玉が太い尻尾の先をパタパタと揺らした。

「最近忙しくって、公園のノラ猫達と遊ぶ暇もなくってさ、俺ちょっと今、猫のもふもふ感に飢えてるんだよね」

「体重比で計算すれば、私達一匹でノラ猫百匹分くらいのご利益があるわよ」

「う~ん、でもまだやらなくちゃイケナイこともあるし、どうしよっかな~」

 仔猫ネコの子デカイ猫~、などと可笑しな即興の歌を口ずさみつつ、煉が紅玉の柔らかな腹に顔を埋めた。

 突如飼育舎の明かりが点いた。一人と二頭が振り返ると、鉄格子と強化ガラスで出来た二重扉の向こう側に、驚愕に目を見開いた加賀見が立っていた。

「うわっ、ヤバッ!」

 煉が慌てて飛び起き、逃げ出そうとした。カチャリと自動ロックが外れる音に振り返ると、加賀見が必死の面持ちで煉に向かって手を振り回している。その顔色は蒼ざめたかと思うと赤黒くなり、かと思えば血の気を失って真っ白になり、実にカメレオンのように忙しい。声を出さないのは、虎を刺激しないよう気を付けているつもりだろうか。

「どうする?」

 のんびりした声音で、しかし加賀見の姿に舌舐めずりしながら琥珀がのそりと身体を起こした。

「コレは事件だな。しかし幸い目撃者は一人だけだ。ここはひとつ俺が証拠隠滅してやろうか?」

「ダ、ダメだよっ、そんなの!」

「しかしあのオヤジは色々とウルサイからな。一旦目を付けられたら最後、俺達の安穏とした生活もお終いだ」

 ロック解除されたドアに近付こうとした琥珀と紅玉を煉が慌てて押し留める。

「もう、俺が謝ってなんとか誤魔化してくるからさ、君達は大人しくしててよ」

 虎達が舌打ちすると、渋々と横になった。



 加賀見に向かって低い唸り声を上げていた二頭の巨大なアムール虎が、何故か大人しく体を横たえた。少年が軽く虎の背中をひと撫ですると、落ち着いた足取りでこちらに歩いてくる。ロックの外された鉄製の引き戸を開け、慣れた動作でそれを閉めてから加賀見の待つもうひとつのドアを開けた。

 外に出て来た少年の肩を掴んで自分の方へ引き寄せるなり、加賀見が無言で力一杯少年の頬を殴った。小柄な少年の身体が吹っ飛んで飼育舎の壁にぶつかり、派手な音を立てる。途端に二頭の虎が飛び起き、凄まじい唸り声を上げて飼育舎の鉄のドアに体当たりした。

「……大丈夫だよ」

 立ち上がった少年が壁越しに囁く。グルルル、と不満気に唸る虎達に向かって少年が無言で寝藁を指差すと、二頭は如何にも不承不承といった様子で再び横になり、底光りする金色の眼で加賀見をじっと睨んだ。しかし虎達よりも更に激しい目付きで加賀見は自分の前に立つ少年を睨みつけた。

 手加減はしなかった。しかし大の男に殴られたにもかかわらず、少年には全く怯えた様子が無い。少年が落ち着いた仕草で切れた唇の端を軽く拭くと、指先についた血にちらりと目をやった。

「……小僧、貴様、なぜ殴られたのか、分かっているのか」

 肩で荒い息を吐きながら、加賀見が低い声で言った。と、少年は僅かに俯き、黒く濡れた大きな瞳で上目遣いに加賀見を見つめた。やがて少年は消えいるような声で、ゴメンナサイと呟き、視線を足元に落とした。月明かりの中、夜風に微かに震える長い睫毛が俯いた少年の頬に濃い影を落とす。

「……貴様」

 加賀見が茫然として呟いた。

「……針の先程も悪いと思っていないな」

 途端に少年の肩がふるふると震え出した。そして数秒後、遂に堪えきれなくなった少年が、ぷっと噴き出した。

 逆上した加賀見が振り上げた拳を素早く後ろに跳んで逃れた少年は、加賀見に向かって狂ったように吼える虎を後ろ手に制しつつ、声を上げて笑い転げた。

「ごめんごめん、分かったから、ちょっとそんなに興奮しないでよ。ほら、おっちゃんが騒ぐと、琥珀と紅玉が暴れて怪我するからさ、ね?」

 少年の指摘に加賀見が僅かに理性を取り戻した。と言っても、虎の前で少年を殴り殺すのをようやく堪えることが出来るほどの、針の先より僅かな理性であったが。


     ♢


「いや~、もう参っちゃうなぁ」

 虎の飼育舎から離れたベンチに腰掛け、少年がぼやく。

「俺って滅多にこんな失敗しないんだけど、おっちゃんって何て言うか、ケモノっぽいんだよ。体臭とか気配とかが動物達に混じりすぎちゃっててさ、近付かれても分かりにくいんだよね」

 人を平然と獣呼ばわりする少年を加賀見が憤怒の表情で睨みつける。このクソ餓鬼、何か見覚えがあると思ったら、数日前に猿山の前にいた少年ではなかろうか。

「……お前、まさかとは思うが、こんな事をいつもやっているのか?」

「まさか、違うよ。俺だってそんなに暇じゃないからね。いつもってわけじゃない」

 つまり今回が初犯ではないということか。とんでもない餓鬼だ。親は一体何をしているのだ。不法侵入で警察に突き出さなければ。いや、コレはそんなレベルの話ではない。そもそも、こいつはどうやってあそこに入り込み、そして何故虎の餌にならずに生きているのか。

 アムール虎はネコ科の亜種としては最大で、雄の大きな個体は体重三百キロにも達する。しかもウチの琥珀は酷く気性が荒い。あいつがヒトに懐くなど有り得ない。ならば俺の見たモノは一体何だったのか。分からないことが多過ぎて、一体何から訊けばよいのかすら分からない。加賀見が頭を抱えた。

 ふと足元を見ると、少年の履いている靴が目に入った。それに見覚えがあるような気がして、背筋に寒気が走った。

 ……まさか。如何に何でも、それだけは有り得ん。加賀見の隣に腰掛け、所在無さげに足をぶらぶらさせる少年にチラリと眼をやる。加賀見の怒りなどどこ吹く風といった風情で口笛を吹く少年が、不意に酷く不気味なモノに思えた。生き物は往々にして、得体の知れないモノは見なかったことにする。目に映らなければ、気が付かなければ、それは存在しないも同然だからだ。加賀見がそっと少年の靴から目を逸らした。

 そんな加賀見を気の毒そうに眺めていた少年が、ポケットからごそごそとガムを取り出し、加賀見の前に突き出した。

「たべる?」

「いるかっ、そんなモン!」

 加賀見に怒鳴られると少年は軽く肩を竦め、ガムを自分の口に放り込んだ。少年の隣で加賀見は苦虫を噛み潰したように口を歪め、そのまま長い間黙り込んでいた。月が西の空に傾きかけた頃、ようやく加賀見が口を開いた。

「……知っているか? 戦中に動物園の動物達がどうなったのか」

 クチャクチャとガムを噛みつつ、少年がちらりと横目で加賀見を見遣る。

「空襲で動物が逃げ出した場合に備えて動物は危険度によってレベル分けされた。そして最も危険度が高いとみなされた猛獣の多くは殺処分されたんだ。薬殺や銃殺ならまだ良かった。餓死という方法で、死ぬまで一ヶ月も苦しんだ動物もいた」

「……そしてそれをみて苦しむヒト達がいた」と少年が呟いた。

「ヒトの苦しみなんて、動物達の味わった苦しみに比べれば無に等しい。いくら嘆き悲しんだって、何もしないならそれは存在しないのと同じだ」

「何もしなかったわけじゃない、出来なかったんだよ。あのヒト達だって一匹でも多くの動物を救おうと必死だった。でもあの時代の流れは余りにも激しかったんだよ」

 少年の暗い瞳が夜空を見上げた。

 命あるもの全てを巻き込む時代の流れに懸命に抗おうとしたヒト達。抗えきれず濁流に呑まれていったヒトの無力感に苛まれた暗い心を、あの哀しみを、俺は知っている――

 加賀見が少年を横目で睨み、ふんと鼻を鳴らした。

「おかしな餓鬼だな。まるでその眼に見てきたかのように昔を語る」

 少年が無言でガムを風船のように膨らませる。大きく膨らんだガムが弾け、パチンと小気味良い音を立てた。

「日本だけじゃない。似たような事は他の国でもあった。結局何処に行ってもヒトなど似たようなもので、やることは同じなのさ」

 加賀見が口の端を歪めるようにして嗤った。

「だから俺達は決して忘れてはいけない。故郷から遠く離れた檻の中に生き物を閉じ込めておくということが、如何に傲慢であるか。世話をしてやっているなどと思ってはいけない。たとえ猛獣の檻に落ちて喰われる様なことがあっても、ヒトに文句を言う権利など無い。もし何か不都合が起きた時、一番に割りを喰うのは、いつだってこいつらなんだからな」

 少年は、ただ無言でガムを噛みつつ、まるで何処かへ置き忘れた大事な何かを探すように、星の無い夜空を見つめていた。

「……お前が何者かは知らん」

 加賀見がじろりと少年を睨み、怒りを押し殺したような低い声で続けた。

「たとえお前が馬鹿な真似をして死んでも、俺は一向に構わん。だがな、お前がうろちょろして万が一の事があれば、迷惑を被るのは動物なんだ。分かったら、二度とこんな夜中に勝手に入ってくるな。次に見つけたら、ただじゃおかんぞ」

 何を考えているのか、加賀見の脅しなど耳にも入らないかのようにぼんやりと夜空を見上げていた少年が、不意にベンチから立ち上がると包み紙にガムを吐き出した。そしてそれを近くのゴミ箱に投げ入れ、そのまま加賀見のことをなど忘れてしまったかのように、それどころか加賀見など初めから存在していないかのような無関心さで園の出口に向かって歩き出した。その姿があまりに自然で、加賀見は一瞬自分が見たモノも、話したコトも、少年を殴った時に感じた手の痛みや、果ては自分自身の存在ですら夢だったのではないかと思った。

「ああ、そうだ。言い忘れてたんだけど」

 少年が不意に振り返り、その目に映る加賀見の存在を確かなモノとして現実に引き戻した。

「あの新しく来たオスのアジアゾウね、バナナ食べさせない方がいいよ」

「……なんだと?」

「あいつってバナナアレルギーだから」

 少年の言葉に思わず考え込んだ加賀見を、大きな黒い瞳がじっと見つめる。

「おっちゃんの言いたいことはわかった。だけど、このゾウの情報と交換ってことで、琥珀と紅玉の件は不問にしてくれると助かるんだけどな」

 自身の存在への憎らしいほどの自信に満ち溢れた少年が不敵な顔でにやりと笑い、音もなく闇に消えた。



     7


 夢か現か、昨夜自分が見たモノは、一体何だったのか。しかし夢というなら、あの少年の存在は加賀見にとっては悪夢以外の何物でもない。

 象の飼育舎の見廻りを終えた加賀見がアムール虎の飼育舎に立ち寄り、ガラス越しに二頭の虎をじっと見つめる。運動場の掃除中らしく、巨大な虎達は掃除用の隔離スペースに入れられていた。ふと顔をあげた琥珀が加賀見に気づき、途端に僅かに頭を低くして顎を突き出し、肩を怒らせた。金色の眼がじっと加賀見を睨み、牙を見せつけるように上唇が片方だけ捲れ上がる。どうやら昨夜のことを根に持ち、加賀見を敵認識したらしい。しかしここで此方が引けば琥珀のことだ、加賀見を馬鹿にして嵩に懸かってくるに違いない。それでは後々やり辛くなる。

 加賀見がぐっと腹に力を込めると琥珀を睨み返した。お互い引くに引けず、そのまま数分睨み合う。と、うたた寝から目覚めた紅玉が事態に気づき、うるさそうに顔を顰めて琥珀の顔をぱしりと尻尾で打った。尻尾が目に入ったらしい。琥珀がぎゃおんと悲鳴を上げると懸命に顔を前足で擦った。敵方戦意喪失により軍配は我が方に挙がれり、などと加賀見が悦に入っていると、掃除を終えた飼育員が運動場から出て来た。

「あれ? オヤッサン、どうかしましたか?」

「いや、別にどうもしないが……琥珀と紅玉に何か変わったことはないか?」

「いえ、特にありませんが、まぁ強いて言えば、今日は紅玉の機嫌が良いみたいですね。ほら、あいつ、仔虎がいなくなってから元気なかったでしょ? なんかずっと不機嫌で、よく琥珀に八つ当たりとかしてましたし」

「……そうか。なら別にいいが、だがもし何か気付いた事があったら真っ先に俺に報告してくれ」

 不思議そうに首を傾げる飼育員を後に、加賀見が休憩所に戻った。

 休憩所に近付くと、中から数人の話し声と若い飼育員達のやけに楽しげな笑い声がする。こんな所でいつまでも駄弁っている暇があるならさっさと仕事に行けと怒鳴ってやろうと思い、加賀見が大きく息を吸うと荒々しく休憩所の戸を開けた。慌てて振り返った若手の飼育員達の輪の中に、なんと昨夜の少年が座ってのんびりと菓子を食っている。驚きの余り、思わずグエッと喉が鳴った。

 加賀見と目が合うと少年は悪びれもせずニヤリと笑い、「よ、おっちゃん」などと言いながら片手を上げた。その余りに屈託の無い笑顔に、怒鳴ってやろうと吸い込んだ息が行き場を失くした。仕方無く、ふんと鼻を鳴らして、「ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」と低い声でぼそりと吐き捨て、少年に背を向ける。

 加賀見が部屋の隅の棚から湯呑を取り出すと、若い飼育員が慌てて駆け寄り急須に新しいお茶を淹れて加賀見の湯呑についだ。ぶすっとしつつも何も言わない加賀見を尻目に、少年がにやにやしながら立ち上がった。

「じゃ、加賀見のおっちゃんも来たことだし、俺はこの辺で退散するね。お菓子どうもありがとう」

「こっちこそ色々教えてくれてありがとう」

「すごく参考になったよ」

「また遊びにおいで」

 口々に礼を言う飼育員達に愛想良く手を振りつつ少年が休憩所を出て行った途端、加賀見がじろりと飼育員達を睨み回した。

「……参考になったって、お前ら、一体素人のガキに何を教えて貰ったんだ?」

 ずずず、と音を立ててお茶を飲む加賀見の低く不機嫌な声に、飼育員達が困ったように顔を見合わせる。やがて一人が咳払いと共に躊躇いがちに口を開いた。

「いえね、さっきの男の子、煉君っていうんですけど、なんかすごく詳しいんですよ。動物の生態から一匹一匹の餌の好みから今日の機嫌まで、まるで動物と話が出来るんじゃないかってくらい。それでまぁちょっと参考までに話を聞いていたんですけど……」

 加賀見が鋭く舌打ちした。ちょっと参考まで、というにはやけに熱心にノートまで取りやがって。気に入らん。気に入らんが、一笑に付すには引っ掛かるモノがある。

 昨夜の少年の言葉が妙に気に掛かり、加賀見は一晩かけて日誌を読み返した。確かにアジア象のおやつにバナナと書かれている日と象の体調がイマイチの日は一致した。偶然ということもあるが、しかし象にはしばらくバナナはやらないでおこうと思っている。

「……で、お前は具体的に何を教えて貰ったんだ?」

「え、はい、あの、ちょっとクロ吉とモフのことを少し」

 クロ吉は雄のツキノワグマ、モフとは雄ライオンのアダ名だ。

「先月新しいケージにツキノワグマ達を移動してから、クロの奴、どうも落ち着かないみたいで。最初はケージに慣れてないだけかと思ったんですけど、ここ数日はペーシングも酷いし」

 ペーシングとは動物が同じところを行ったり来たり休むことなくグルグルと歩き続けることだ。欲求不満や、苛々して落ち着かない動物によく見られる。

「そしたらですね、あの子が言うには、ライオンとツキノワグマのケージが離れたのが原因だって」

「は? そりゃ一体どういう意味だ?」

「いや、俺もどうかと思ったんですけどね、でも彼がクロ吉とモフは同志なんだって言うんですよ」

「同志?」

「……気の強いワイフに遠慮してケージの隅で小さく生きる亭主友の会」

 思わずお茶を噴いた。

「なんだそりゃ?!」

「いや、煉君が言うには、あの二頭はこっそりお互いの妻の悪口を言い合って憂さを晴らしていたんだって。でもケージが離れたもんで愚痴を言う相手がいなくなっちまって、腐ってるんだって」

「……お前、まさかと思うがそんなもん信じてないだろうな」

「いや、ですがね、オヤッサン、確かにモフも最近食欲が落ちてて毛艶も悪いし、ただの夏バテかと思ったんですけど、なんか先週辺りから身噛み始めちゃって。だからもしかして、本当に煉君の言う通り、種族を超えて芽生えた友情をケージ移動によって裂かれたせいなんじゃないかと――」

「阿呆かッ」

 加賀見が手にした湯呑みを机に叩きつけた。湯呑みが割れる音に飼育員達が息を呑む。

「お前等それでもプロの飼育員か?! 馬鹿も休み休み言えッ」

 加賀見の剣幕に、運悪くその場にいた全員が一斉に首を縮めた。その時、不意に何処からともなく、きゃはははは、と甲高い笑い声が響いてきた。思わず驚いて辺りを見回す。

 あの少年は一体何者なのか。何が何だかサッパリ分からない。しかし一つだけ確かなことは、幾ら加賀見が怒鳴ろうが喚こうが、加賀見の脅しなどあの少年にとっては痛くも痒くもないということ。それだけは何と無く分かった。

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