夜の動物園(前編)

臥しわびぬ 我がふるさとをおもひ草 をばながもとの夢もつたへよ(下冷泉政為)


    プロローグ


「――ゆめ」

 薄紅色の翼を広げ、フラミンゴが囁く。

「ゆめをみるよ」

 白い月明かりに透明な雫が散り、優雅に細い脚が水鏡に揺れる。

「あおい、あおいそら。どこまでもつづくエメラルドグリーンの草原が、透きとおった水のなかで揺れていたよ。ぼくたちの羽はとても紅くて、ぼくたちの影が水にうつって、ぼくたちはどこまでも飛んでゆけたよ」


 紅い紅い翼。

 蒼い蒼い空。

 夢に吹く風が君に伝えるのは、きっとなにものにも捉われることのない、自由。


「ねぇ、おしえて」

 疑うことを知らない澄んだ瞳が俺を見つめる。

「ぼくたちはどうしてここにいるの? いつまでここにいればいいの? ぼくたちは、いつになったらあの空へ還ることができるの?」

 冴え冴えと冷たい月明かりの中、若いフラミンゴの眼に映る暗い夜空を俺は見つめた。そしてその瞳のもっと奥、遥か遠い血の記憶に蘇る、格子の無い澄んだ空を――



     1


「う~ん、もうちょっと口開けてみて。そうそう」

 月の無い真夜中。暗い水際で、小さな懐中電灯を片手に、煉がワニの口に頭を突っ込む。

「で、どの辺?」

 ハガハガと大口を開けたワニが何か言おうとした。

「確か左の奥の方が痛むと申しておりました」

 周りで興味津々といった風情で見守っていたワニのうちの一匹が助言する。

「オッケー、左の奥ね。え~っと」

 ほぼ全身をワニの口の中に入れて喉の奥を調べていた煉がやがて嬉しげな声を上げた。

「あぁ、あったあった!」

 おぉっ、とワニ達がどよめく。

「じゃあ抜くよ〜。ちょっと痛いかもしれないけど、びっくりして俺のこと飲み込んだりしないでね~」

 ハガハガ、と大口を開けたワニが答える。数分後、大きな釣り針を手に煉がワニの口から這い出てきた。余程痛かったのであろうか、涙目で幾度も唾を飲み込むワニに煉が釣り針をみせる。

「あとは薬を塗ったらお終いだよ。それにしてもさ、なんでこんなモンが喉に刺さったの? まさか誰かのイタズラ?」

「ソレはデザートとして捕食したカモメについておりました」

「デザートって、君達、綺麗に切りわけたイイ肉の塊を貰ってるんじゃないの? わざわざカモメなんか襲わなくたってさぁ」

「赤身の肉だの魚だのばかりでは我等とて飽きるのです。たまにはぴちぴちとイキの良いのを食べてみたい。丸ごと喰えるモノは栄養バランスも良いですしな。しかしあのカモメは失敗だった。まさか脚に釣り針つきの糸が絡まっていようとは、道理で動きが鈍くて捕まえやすかったわけですな。次からは気をつけねば」

「次からは、ってまたヤル気なの? まぁ気持ちは分からないでもないけど、それにしても君も懲りないね」

 煉が呆れたように肩を竦める。

「ほら、薬塗ってあげるから、もう一度口開けて」

「いやはや、煉殿にはお手数をおかけしますなぁ」

「そう思うなら無闇矢鱈とその辺のモノ丸呑みにするのやめなよ」

 ぱかりと開けられたワニの喉の奥に、煉が再び潜り込んだ。


     ♢


 ふと顔をあげて壁に掛かった時計を見ると、すでに零時に近かった。慌てて飼育日誌を閉じた加賀見が鍵の束と大きな懐中電灯を掴んで立ち上がる。イカンイカン、早く夜の見廻りに行き、その後少しでも仮眠を取らねば明日に響く。体力には自信のある加賀見だが、流石に六十近くにもなると睡眠不足は身体に堪える。

 ここは地方の動物園。規模としては中の中と言ったところか。ジャイアントパンダや類人猿はいないが、アフリカゾウや新しく入ったアジアゾウに加え、ライオンなどの大型猫科はいるし、鳥類が豊富だ。最近は稀少な猿などの交配にも力をいれている。施設はかなり古びてきているし、色々と問題もあるが、しかしベテラン飼育員の加賀見は常々、ウチは動物のケアにおいては日本有数の動物園と比べても遜色ないと、密かに自負している。

 園内の夜の見廻りは基本二人ペアで行うが、今日は加賀見一人でこなさなければならない。そもそも本来なら今晩は加賀見の宿直日ではなかったのだ。しかし飼育員の間でタチの悪い夏風邪が大流行したために圧倒的に人手が足りず、愚痴を言っている暇もない。

 一歩外に出ると多種多様な動物の匂いを含んだ生温かい夜風が体を包んだ。季節は九月に入り、夜は大分過ごしやすくなってきた。しかしヒトと同じで季節の変わり目には体調を崩す動物が多い。加賀見が動物達のケージをひとつひとつ、丁寧に視てまわる。夕飯は残さず食べたか、喧嘩をしているヤツはいないか、腹痛をおこしているヤツはいないか。

 不意に何処からか子供の声が聞こえたような気がして、加賀見が足を止めた。辺りを見回し、いや、まさか、と首を振る。もう真夜中を過ぎている。他の飼育員が何かの用で園に残っていることはあっても、子供などいるはずがない。

 歩きかけた加賀見の耳が再び微かな笑い声を捉えた。声のした方を振り返ると、月の無い暗闇の中、ワニの池に小さな光がちらついている。

「オイッ、そこに誰かいるのか?!」

 不審に思い、手にした懐中電灯で闇を照らした。ワニ達が一斉に振り返り、懐中電灯の光に目を細める。暗闇に浮かび上がる無数の金色の眼の、その輪の中心にあるモノを懐中電灯の光が捉えた時、加賀見は一瞬思考が停止した。心臓も一瞬停止した気がする。

 気性の荒さでしばしば人喰いワニとも呼ばれるイリエワニ……その中でも一際大きな個体がぱかりと大口を開けていた。その口の中に見え隠れするのは、アレは人間の足――

 呆然と立ち竦む加賀見と目が合った瞬間、イリエワニがばくりと口を閉じ水の中に飛び込んだ。それと同時に加賀見がワニの飼育舎の入口に向かって走り出した。


     ♢


「いやはや、今宵の見廻りは新米のはずだったのに、まさかオヤッサンが現れるとは」

 口の中から煉を吐き出しつつイリエワニが己の不運を嘆く。

「ささっ、煉殿、早くお逃げ下さい」

「ちょっと顔くらい洗わせてよ」

 ワニの涎でべとべとの情けない顔で煉が訴えた。

「パンツの中までどろどろなんだけど」

「そんな暇はありません。オヤッサンは熱心なベテランですが、その分色々とウルサイ上に頑固で融通がきかない。捕まるとややこしい」

 イリエワニの言葉に周囲のワニ達が頷く。

「そうそう、おまけにこう言ってはナンですが、イリエ殿はトラブルメーカーで、オヤッサンには特に目を付けられておりますからな。今度という今度はワニ皮のハンドバッグにされてしまうやも知れませんな」

 きゃははは、と笑う煉をイリエワニが睨んだ。

「煉殿! ここはそんな暢気に笑うところではありませんぞ。オヤッサンにかかっては、煉殿だって干し首にでもされかねません。向こうで仲間がオヤッサンを足止めしているうちに、ささっ、ハヤクハヤク……!」

 浮き橋のように水の上に並んだワニ達の背中を駆け渡った煉が、高さ数メートルのフェンスの遥か上をふわりと跳び越える。

「じゃ、近いうちにもう一度様子を見にくるから」

 フェンス越しにイリエワニに囁くと、煉の小さな影があっという間に夜の闇に消えた。



     2


 昨夜は結局一睡も出来なかった。

 疲れきった顔色の加賀見が給湯室でコーヒーを淹れつつ、眉間に深い皺を寄せる。

 昨夜のことだ。池の入り口に駆けつけた加賀見は、何やら加賀見の邪魔をするかの如くわらわらと集まってきたワニを蹴散らし、園内に残っていた全ての飼育員達を呼び出し、池の掃除時に使う隔離スペースに言うことを聞かぬワニ共を押し込め、やっとのことでイリエワニが大口を開けていた池に辿り着いた。もたもたとして役に立たぬ若手に怒鳴り散らしつつ、災害時にしか使わないような大型のライトを持ち出して池の隅から隅まで舐めるように調べたが、血痕どころか糸屑ひとつ見つからなかった。

「あのう、オヤッサン……」

 数時間の探索の末、若手の中では中堅の飼育員の安田が、ずぶ濡れで泥の中を這いまわる加賀見におずおずと声をかけた。

「これだけ探して何もないんですから、もしかして見間違えってことは……」

「そんなワケあるかっ」

 顔を真っ赤にして加賀見が喚いた。

「俺はこの目ではっきりと見たんだ! 子供のスニーカーを履いた足が、あのイリエワニの口からはみ出しているのをな!」

 檻に捕えられた巨大なワニが、加賀見に指差された途端に眼をしょぼしょぼさせてあらぬ方を見る。

「それともなんだ?! お前等、俺が歳で呆けてきたとでも言うのかッ」

「ま、まさか、違いますよ……」

 安田が慌てて手を振った。

「ただですね、よっぽど小さな子供か赤ん坊でもない限り、流石のイリエワニだって丸呑みってわけにはいかないだろうし……」

 それはそうなのだ。ワニの歯は引き千切ったり噛み砕いたりするのには向いていない。大きな獲物の場合、ワニはまず獲物を水に引き摺り込んで窒息死させる。その後、強力な尾と首の筋力で獲物を激しく振り回し地面に叩きつけ、その体をバラバラにしてから食べるのだ。

「だ、だからこうして証拠を捜しているんだろうがッ」と加賀見が喚くと、再び安田が首を傾げた。

「でも、千切れた肉の切れ端どころか血の一滴も見つかりませんし、それに、そもそも他のワニ達が大人しくイリエワニを眺めていたってところが解せないんですよ。普通なら如何にイリエワニ相手でも、獲物を奪い合って大騒ぎになってるとこじゃないですか? 第一、そんなデカイものを食べたようには見えないんですよね。アイツの腹、全然膨らんでないですもん」

 返す言葉に詰まり、加賀見がぐぬぬ、と唸る。

「し、しかし……」

「オヤッサン、俺達はみんな、オヤッサンの言うことには全幅の信頼を寄せてます」

 安田が少し疲れた顔で微笑んだ。

「でも人手不足のせいでオヤッサンも最近全然休んでないし、やっぱり少し疲れてるんですよ。今夜はここまでにしておいて、明日の朝もう一度調べてみましょうよ。心配なら獣医に言って、X線でアイツの腹の中を調べて貰ってもいいですし」

 流石の加賀見もそこまで言われては探索を続けるわけにもいかず、渋々と池を出た。



 自分で淹れた不味いコーヒーを顔を顰めつつガブ飲みしていると、朝の仕事を終えた安田が給湯室に入ってきた。

「あ、オヤッサン、今、獣医の丸山先生にイリエワニを診て貰ったんですけど、やっぱり腹の中はからっぽだって言ってました」

 加賀見が無言でついでやったコーヒーを飲みつつ、安田がホッとした笑顔をみせる。

「俺、昨日はオヤッサンにあんなこと言っちゃったけど、でも本当はすっげー怖くって。もし本当にウチのワニがヒトを喰っちゃったりしてたら、もうどうしようかと思って、全然寝れなくって。でも本当に何もなくて良かったです」

 にこにこと屈託ない笑みを浮かべる安田を眺めつつ、加賀見がずずず、とコーヒーを啜る。

 そろそろ潮時かもしれんな、と頭の隅で考える。安田は若いわりに気が利くし、仕事も早い。そして何よりも動物に好かれる。もっと経験を積めば、いずれウチを担う良い飼育員になるだろう。飼育員の仕事はキツい。何も俺が老いぼれてまで、いつまでもしがみついている必要もないだろう。

 おはようございまーす、おはようっス、と挨拶しながら、朝の掃除や餌やりを終えた飼育員達が次々と部屋に入ってきた。各自担当している動物達の健康状態等について報告し、必要とあれば対応策を話し合い、注意事項を確認し、今日明日の予定をホワイトボードに書き込んでいく。

「オヤッサン、桜子の具合はどうですか?」

 飼育員に訊かれ、加賀見が眉根を曇らせた。

「うむ、悪くなっているわけではないが、良くもないな。ここ数日は夜鳴きすることはないが、ただ食欲が殆どない。今朝もリンゴと干草を少し食っただけだ」

「丸山先生はどこと言って特に悪いところはみつからないって言ってますけどねぇ」

 飼育員一同が暗い顔で溜息をついた。

 園一番の人気者、アフリカゾウの桜子はタンザニアで生まれ、三歳の時にこの動物園にやって来た。その当時、まだ駆け出しの飼育員だった加賀見はベテラン飼育員と共に桜子の担当となり、以来三十七年間を桜子と共に過ごしてきた。

 アフリカゾウはアジアゾウに比べて気性が荒いことで知られているが、幼いうちに母親から離されたせいか、桜子は大人しく、少しばかり臆病で、そして加賀見によく懐いていた。昔は桜子が病気をする度に、または台風や雷を怖がる桜子を落ち着かせるために、加賀見は週の半分以上を象の飼育舎で寝起きしていた。加賀見にとって桜子は友であり、伴侶であり、我が子であり、そして自身の人生の象徴であった。

 その桜子の具合が近頃思わしくない。

「桜子も四十近いんでしたっけ? やっぱり、もう結構歳だからなぁ」と溜息をついた飼育員を加賀見がジロリと睨む。

「野生のアフリカゾウは七十、八十まで生きるんだ、桜子はまだまだ若い」

「そりゃそうですが、でも……」

 何か言いかけた若手を古株の飼育員がそっと目で制した。

 ミーティング後、ホワイトボードの宿直当番の欄に加賀見が自分の名前を書いていると、安田が少し慌てて駆け寄ってきた。

「オヤッサン、今晩は俺が泊まりますんで、オヤッサンは家に帰って一晩くらいゆっくり休んで下さいよ。桜子も今のところは落ち着いてるみたいだし、もう二週間くらい帰ってないんでしょ?」

「余計な心配するな。家に帰っとらんのはお前だって同じだろうが。急に年寄り扱いするな」

「いえ、あの、オヤッサンがどうこうって訳じゃなくってですね……」

 安田が僅かに口籠ると、落ち着かない様子で咳払いした。

「なんだ、言いたい事があるならサッサと言え」

「……あのですね、実は、オヤッサンの奥さんからさっき電話があって、今晩は絶対に帰らせろって……」

「なんだ、あいつ、わざわざお前のところにまで電話なんぞかけて来やがったのか。ウルサイ奴だ。次かかってきたら、無視して出るな」

「いや、オヤッサン、なんでもお嬢さんが婚約者と家に食事に来るらしいじゃないですか。だから今晩だけはどうしてもって……」

「えっ?! お嬢さんご結婚なさるんですか?! そりゃあ、おめでとうございます」

 イイナ~、と周りで聞いていた若い飼育員達が羨望の溜息をついた。

「オヤッサンのお嬢さんは奥さんに似て美人だから、きっとウエディングドレスがよく似合うでしょうねぇ」

「うるさいッ」と加賀見が突如怒鳴った。「そんなもん、全然めでたくなんかないっ」

 その場にいた全員が呆気に取られて加賀見を見た。

「ど、どうしちゃったんですか、オヤッサン?」

「どうしたもこうしたも、ハラボテにドレスなんぞ似合うわけないだろうがっ」

「えっと、ハラボテって、つまりデキチャッタ結婚ですか?」

「なにがデキチャッタだ?! ニキビやオデキじゃあるまいし、俺はそういう軽々しいのは好かんッ」

「まぁいいじゃないですか、今時そんな珍しい事でもないし、二重におめでたい話ですよ。ほら、最近はできちゃった婚じゃなくて、授かり婚って言うじゃないですか」

 安田が慌ててとりなす。

「とにかくですね、今晩は絶対に帰って来いって奥さんからの伝言です。万が一にでも帰って来なかったら、オヤッサン秘蔵の桜子のビデオや写真を全て燃やすって言ってましたよ」

 ぐぬぬ、と加賀見が唸った。

 家には帰りたくない。帰りたくないが、女房はヤルと言ったら本気でヤル女だ。特にあいつは桜子には色々と恨みがあるから、きっと嬉々として加賀見の大切な思い出の品々に火をつけるに違いない。

「……見廻りに行ってくる」

 ぶすっと不機嫌なしかめ面で加賀見が立ち上がった。



     3


 くさくさした気分のままワニの池に足を運び、水際で朝陽に体を暖めているワニ達をじっくりと観察する。獣医のお墨付きを貰ったからと言って加賀見が納得したわけではない。俺はまだ呆けちゃあいない、と加賀見が口の端をへの字に曲げる。多少疲れが溜まっていたとしても、懐中電灯の光に幻覚を見るほどではない。しかしワニの腹は空だった。ならば、俺が昨夜見たアレは、一体何だったのだろう。

 檻から出されてのんびりと日向ぼっこしているイリエワニをじっと見つめる。奴はここ最近何やら妙に荒れていたが、今日はやけに機嫌が良いようだ。自分を見つめる加賀見と目が合った途端、巨大なワニがソソクサと水の中に隠れた。

 ……ふむ、特に心配することはないようだな。早朝の空気を胸一杯に深呼吸する。何故だろう。気のせいか、知り尽くしているはずの様々な動物の匂いの中に、何か知らないモノの気配が微かに混ざっているような気がした。

 ワニの池を離れて象の飼育舎へ向かう。

 かれこれ三ヶ月程前になるだろうか。桜子が夜中に吼えるようになった。加賀見が側について宥めれば一時は治まる。しかし目を離すと直ぐにまたパオーパオーとやり始め、酷い時は明け方まで鳴き続ける。わけが分からないまま二ヶ月程続いた夜鳴きは、ある日を境にぴたりと止んだ。しかしそれと同時に桜子は食欲不振になり、元気もなくなった。原因は全く不明だ。

 桜子は今年で四十歳になる。これは動物園のアフリカゾウとしてはかなり高齢の部類に入る。そう、動物園の象としては。野生のアフリカゾウは七十歳を超えて生きるものも珍しくないと聞くが、動物園の象達の多くはおよそその半分しか生きられない。理由としては、栄養の偏りや運動不足による肥満などが挙げられている。それはそうだろう。水と餌を求め、時として数百キロを旅するこの陸上最大の哺乳類を、狭く限られたスペースで飼育することに無理がないわけがない。

 しかし、と加賀見は心の中で密かに思う。運動不足は勿論あるだろうが、それだけが象の寿命の短さの原因ではないのではないか。通常、象は母系中心の大家族を構成し、群れと共に生きる。だから本当は、この巨大な生き物は、群れから離され、動物園で独りぼっちで生きることが寂しくて、哀しくて、仲間に会いたくて、早く生まれ変わって故郷に帰りたくて、それで死んでしまうのではないだろうか――

「桜子」と加賀見が声を掛けると、屋内飼育舎の隅で壁にもたれるように立っていたアフリカゾウが億劫そうにゆっくりと振り向いた。

「ほら、今日もいい天気だ。風もあって気持ちいいから、ちょっと外に出てみろ」

 桜子が嫌だとでも言うように数度頭を振ると加賀見から顔を背ける。

「仕方ねえなぁ、お前、そんな風通しの悪い所に突っ立ってたら黴が生えるぞ」

 せめて体のブラッシングでもしてやろうと思い、「おい、そっちが終わったら桜子のブラッシングを手伝ってくれ」と隣の飼育舎でアジアゾウの世話をしていた二人の飼育員に声を掛ける。と、飼育員達が困ったように顔を見合わせた。

「すみません、実は俺たちもさっきブラッシングしてやろうと思ったんですけど、桜子のやつ、俺たちが近寄るとすげぇ怒るんですよ。だから、今桜子に近づけるのは、桜子が一番懐いてるオヤッサンだけなんです」

「桜子が怒っただと?」

「ええ、桜子は普段すごく大人しいから俺達もびっくりしたんですけど、一歩間違えたら踏み潰されるところでしたよ」

 飼育員達の言葉に思わず絶句した。象はその巨体に似合わず臆病で神経質な一面があり、知らない人間が不用意に近づくのを嫌う。しかしこの二人の飼育員はゾウの担当となってから四〜五年になり、加賀見ほどではないにしても桜子の信頼は厚かったはずだ。

「……桜子」

 自分に背を向けて立つ象の姿に加賀見が重い溜息をついた。

「お前、本当にどうしちまったんだよ」

 宥めても賺しても外に出ようとしない桜子の背中を加賀見がデッキブラシで擦ってやっていると、飼育舎のドアが開き、安田が顔を覗かせた。

「オヤッサン、お客さんですよ」

 今忙しいから後にしろと言おうとして振り返った加賀見が、安田に案内されて入って来た老人を見て目を見張った。

「宮さん!」

「おう、加賀見、久し振りだな」

 老いてなお矍鑠とした足取りで飼育舎に足を踏み入れた小柄な老人が、懐かしげに目を細めて辺りを見廻し、深々と深呼吸した。

「宮村さんは昔ウチの飼育員だったんだ。超ベテランでさ、俺も駆け出しの頃にはよく怒鳴られたものさ。桜子が初めてウチに来た時に最初に桜子に付いたのも宮さんだったんだ」

 安田や隣から顔を出した若手飼育員達に加賀見が老人を紹介する。ニコニコといかにも好々爺風の宮村老人が、ふと飼育舎の隅に片付けられていた糞に目を留めると、急に真剣な顔になって糞の山に近付いた。

「ふむ、下痢や軟便ってわけじゃなさそうだが、昨夜の分はこれで全部か?」

 杖の先で糞をほぐしながら宮村老人が加賀見に訊ねる。

「ええ、少ないでしょ? 一応必要最低限のモノは食べるんですけどね。でも桜子の様子がおかしくなってもう三ヶ月ですからね、かなり痩せちまって。宮さん、なんかアドバイスがあったら、なんでもいいんで教えて下さい」

 必死の表情で頭を下げる加賀見の姿に宮村老人が穏やかな笑みを浮かべた。

「お前さんだってこの三ヶ月、ただ指を咥えていたわけじゃあるまい。退役して二十年近くなる老いぼれが思いつきそうな事など、お前がとっくに試してみているだろうさ。それにな、加賀見」

 ふと肩の力を抜いた老人が、加賀見の背中を軽く叩いた。

「桜子と最も長い時間を過ごしてきたのは誰でもない、お前だ。桜子のことはお前が一番よく分かっているんだ。だからな、お前さんは自分を信じて、桜子にとって一番良いと思うことをしてやればいいんだ」

 宮村老人は何か良いアイデアや忠告があってわざわざここに来たわけではないらしい。きっと宮村老人も桜子の調子が悪いと聞いて、居ても立っても居られなくなったのだろう。加賀見が溜息をついて壁に凭れて動かないゾウの後姿をみつめた。桜子よ、わかるか? 皆お前のことを心配しているんだぞ。

 暗い顔で溜息をつく加賀見の背中を老人の大きな手がバシバシと叩く。

「なんだ、そんなに露骨にショボくれるな。まぁ気持ちはわからんでもないがな。だが奈津実ちゃんの彼氏の前では間違ってもそんな顔するなよ」

「ハ、ハアッ?!」

 突如出てきた娘の名前に加賀見が目を白黒させる。

「儂が今日ここに来たのは他でもない、お前さんのカミさんから直々に電話があって……」

 なんたることだ。女房の奴、安田だけでは物足らず、事もあろうか俺の尊敬する大先輩まで巻き込むとは……。恥ずかしさと申し訳なさで身の縮む思いをしている加賀見の顔を老人が笑いながら覗き込む。

「いやなに、儂もお前のカミさんには色々と頭が上がらないからな。仕事が忙しいからって新婚旅行もなし、家に帰らないなんぞザラで、奈津実ちゃんが産まれた時も桜子がひどい腹痛を起こしたからってお前さんと三日三晩寝ずに看病してて、気が付いたら赤ん坊はとっくに産まれてカミさんも退院してました、ってのは恨まれたなぁ」

 だからな、と宮村老人が皺だらけの片目をショボショボと瞬かせる。その不気味な動き、まさかと思うがウィンクのつもりだろうか。

「加賀見、今晩は何がなんでも家に帰れ。儂もこれ以上恨まれては後生に悪い」

 不貞腐れて口を尖らせている加賀見の姿にニヤニヤと笑っていた老人が、「ところで加賀見、お前さん、座敷童子を見たことはあるか?」と不意に尋ねた。

「は? いきなり何のことです?」

「座敷童子って、物の怪ですよね? 商家とかに憑いて商いを繁盛させるんでしたっけ」と隣から安田が妙に嬉しげに口を挟む。

「なんだ、ヤス、お前なんでそんな妙なこと知ってるんだ?」

「やだなぁ、オヤッサン、座敷童子って日本の妖怪では五本指に入るくらい有名じゃないですか。知らないんですか? 最近流行ってるんですよ、物の怪とか妖とか」

 そうそう、と宮村老人が頷く。

「だがな、座敷童子と言っても商家に憑くんではなくてな、日本中の動物園にごくごく稀に現れる変り種がおってな。で、そやつが現れると、動物の怪我や病気が治ったり、争いが減ったり、機嫌が良くなったりするのさ」

 返答に困り、加賀見が口の端をへの字に曲げた。宮さんも九十近いからな、流石に少し呆けてきたか。と、まるで加賀見の胸の内を見透かしたかのように宮村老人がにやりと頬を歪めた。

「なんだ、その面は? つまりまだ見たことがないんだな。動物園の座敷童子を見るまでは、まだまだ飼育員として一丁前とは言えんな。聞いたところによるとお前さん、上にも下にもエラく厳しいらしいじゃないか。少々人徳が足りんのじゃないのか?」

 余計なお世話だこのヤロウ……などとまさか口にする訳にもいかず、ぐぬぬ、と加賀見が唸る。そんな加賀見を尻目に、安田が妙にキラキラした眼で老人を見つめている。

「宮村さんはもしかして座敷童子を見たことがあるんですか?!」

 安田の問いに、うむ、と老人が重々しく頷いた。

「あれは儂が四十になるかならないか、丁度飼育員として脂が乗り始めた頃、まだ桜子がウチに来るより大分前のことだ。わしは当時ライオンの担当だったんだが、ある日雄ライオンがどうしたことか高い樹に登ってな、枝が折れて酷く腰を打った上に後脚に怪我をした。しかし手当てしてやろうにも、そいつはヒト嫌いで酷く気の荒い奴でな。最初の数日は餌に薬を混ぜて眠らせていたんだが、そのうちに奴も知恵がついてきて薬入りの餌には見向きもしなくなった。麻酔銃を使おうとすると雌の群れの中に逃げ込んだ上に痛んだ脚で走り回るわ、怪我が治るまで狭いところに閉じ込めておこうとすれば大暴れするわ、その騒ぎのストレスで雌ライオンが流産しそうになるわ、飼育員一同お手上げだったのさ。そうこうするうちに怪我が悪化してきて、膿んだ傷のせいで熱が出てきたのか餌も全く食べなくなってな、アイツはもう駄目かもしれんと皆が思い始めた」

 遠い日の記憶を探るように、老人の皺に埋もれた眼が優しく細まる。

「そんなある晩、家に帰ってからも何故か雄ライオンのことが妙に気にかかって眠れず、儂はひとり自転車を漕いで夜中に飼育舎に戻って来た。そこで儂は見たのさ。真夜中の動物園で、ライオンの怪我の手当てをしている子供をな」


     ♢


 淡い月明かりを頼りに、黒髪の少年が巨大な獣の後脚を洗う。薬湯が沁みるのだろうか。ライオンが低く唸り、しかし少年に宥められると諦めたように眼を瞑った。

「君さ、なんであんな細くて高い樹に登ってみたの?」

 傷を縫い終えた少年がふと尋ねた。ライオンが何やら少年に答えるかのように唸ると、少年は少し困ったように首を傾げた。

「う〜ん、月に行ってみたかったって、まぁ気持ちはわからないでもないけど」

 ライオンが再び何事か唸り、少年がはっとした表情でライオンを見つめた。無言で手当てを終えた少年が、そっとライオンの額に自分の額を合わせ、ごめんね、と呟いた。


 俺は君の問に対する答えを持たない。

 俺にはどうすることも出来ない。

 ごめんね――


 大きな舌が柔らかに少年の頬を舐めた。


     ♢


「……宮さん、こんなこと言っちゃナンですが、連日ライオンと格闘してて疲れてたんじゃないですか?」

「かもしれんな」と言うと、老人がにやりと笑った。

「兎にも角にもライオンの怪我は数日程ですっかり良くなって、皆不思議がりながらもホッとしたもんさ。野生の血は凄いなんぞと言ってな。だが儂は今でも思っている。アレは動物園の座敷童子だったとな。儂だけじゃあない。滅多にないが、しかしよく似た話を他でも聞いたことがある」

 う〜むと唸りながら加賀見がボリボリと無精ひげの生えかけた顎を搔く。宮さんの験担ぎは飼育員の間では以前から有名だったが、まさか妖怪変化なんぞ信仰しているとは思わなかった。ふと隣を見ると、安田がうっとりとした顔でイイナ~、などと呟いている。加賀見にじろりと睨まれ、安田が慌てて首を縮めた。

「あの、いや、でも、夢があるというか、その、ついつい、座敷童子が本当に来て、桜子を助けてくれたら、とか思っちゃいますよねぇ」

 宮村老人が安田の言葉に微笑んだ。

「座敷童子は神様ではないんだよ。消えてゆく運命にある命を救うことはアレには出来ん。アレは……」

 老人の優しい眼差しがふと何処か遠くを見つめる。

「アレは、唯、消えてゆく命を愛しみ、慈しみ、此処に確かにその命が在ったということを憶えておいてくれるのではないかと、儂は思っとるんだがな……時に加賀見、お前さん、あの答えは出たのか?」

 不意に宮村老人に尋ねられ、加賀見はどきりとした。あの時の答えとは、矢張りアレの事だろうか。自分をじっと見つめる老人の視線から逃れるように、咳払いと共に手にした箒で意味も無く足元を掃く。

 動物園とは単なる娯楽の場ではなく、そこには様々な存在意義がある。現在、世界各地で無数の生き物の絶滅の危機が叫ばれている。しかし幾らそれを人伝てに聞き、新聞などの活字で読んでも、多くの人にとってそれらは余りに遠く、自分達とは無関係な出来事に過ぎない。見も知らぬモノの危機など実感しにくく、従って彼等の悲劇に共感を呼び起こされることもない。それは決して人間が冷たいということでは無くて、唯、人とはそんなものなのだ。他者に対する無関心や冷酷さとは、想像力の有無にも関係しているのかも知れない。

 けれどもこれが、知っている生き物の危機ならばどうだろう。週末に遊びに来た動物園で実際に珍しく可愛らしい動物達の姿を間近に目にすることによって、遠い存在であった彼等の問題は急に生々しく身近なものとなり、そしてそれに対して何か自分に出来ることはないかと考え始めるのではないだろうか。まぁそんな人間は全体の数パーセントで、大部分は「可愛い~、写メ撮ろ~」でお終いなのだが。しかし数パーセントでも無いよりはマシだろう。

 更に言えば、これは一般にはあまり知られていないようだが、動物園とは各種の生物学者と飼育員達による学究の場なのだ。怪我をした野生動物の保護は勿論の事、絶滅の危機に瀕した動物の生態を知り、人工飼育下での繁殖を成功させることは動物園の大切な役割だ。

 しかし、と加賀見は考える。飼育員達が日々心を込めて世話をする動物園の動物達。ヒトを無知と無関心から救い、種の保存の為に生きる彼等の、狭く閉ざされた檻で一生を終える一匹一匹の、個の幸せとは何処にあるのだろうか。

 檻の中で生きるなんてカワイソウだから、全部放してしまえ、動物園なんてザンコクだから、全部無くしてしまえ、などという短絡的思考は加賀見には無い。そんなものは無知と愚かさの極致だ。しかしそれでもわからない。

「わからないんですよ」

 加賀見は若い頃、酔っ払って宮村に絡んだことがある。

「俺はこいつ等が大事で可愛くて仕方がない。でも、こいつ等のシアワセって何ですか? 俺は、いつもこいつ等のシアワセを願っているけれど、でも一体、何をどう願ったらいいんですか?」

 宮村の懐の深さに甘えていたのかもしれない。我ながら青臭く、くだらない事を言っていると思いつつ、加賀見は吐き捨てるように続けた。

「種を未来に繋げる為に、一分一秒でも長く、ヨボヨボになるまで檻の中で生きていけますように、って願えばいいんですか? それとも、さっさとこんな狭くてつまらん所から出れるように、早く楽にコロっと逝けますように、って願えばいいんですか? もしこいつ等に、自分達は一体いつまで『世界の未来の為に』『より多くのモノの幸せの為に』『人を無知から救う為に』我慢すればいいのかって聞かれたら、俺は一体、何て言ってやればいいんですか?」

 青臭い議論を吹きかけられても動じることなく、ゆったりと酒を呑みつつ、「お前さん、若いな。羨ましいこった」と呟き、宮村はにやりと笑った。

「良くも悪くも、悩むということは大切だ。人間、悩むのをやめたらそれ以上成長することはできんからな」

 若者よ、悩め悩め、と言って宮村は笑った。

 以来三十年以上経ち、加賀見はいまだに悩んでいる。そして最近時々思う。これはもう、若いとか青いとか、そういう問題ではなくて、俺はただ単に馬鹿なんじゃないかと。

 無言で目を逸らした加賀見を見て、「お前さん、相変わらず若いじゃないか」と宮村老人が愉快そうに肩を揺らした。

「だがいいか、ひとつだけ憶えておけ。もしも己の問いに答えが出たと思ったら、その時はお前さんがリタイヤする潮時だ」

 若者よ、悩め悩め、だが今晩家に帰るのだけは忘れるな、と言ってカラカラと笑う老人の声が晴れた空に響いた。


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