人魚(後編)

 初めて家に来た頃、人魚はよく窓から外を眺めていた。そして時々窓を開け、梅雨の濡れた空気の匂いを嗅ぐ。鈍色の空の下、無数の水滴の浮く世界が人魚の髪をしっとりと濡らし、そしてワタルは不意に不安に駆られる。人魚が雨だれに濡れた風を泳いで、海へ帰ってしまうのではないかと。

 しかし梅雨が明けた頃から人魚はバスルームにこもるようになり、窓から濡れた空を見上げることもなくなった。

 ねぇ、とバスタブの冷たい水の中で寛ぐ人魚の濡れた髪をそっと撫でる。

「ヒトは人魚になれるのかな?」

 ワタルの腕に頭を凭れかけるようにして、人魚が僅かに首を傾げた。

「僕の母さんは僕が幼い頃、海で行方がわからなくなったんだ。愛人と心中したとか、姑の嫁いびりのせいで鬱になって自殺したとか、心無い憶測と噂話が小さな町を飛び交った。ヒトがみんな僕の背後で母の噂をし、そして僕を指差し嗤っているようで、僕は外に出るのが怖かった」

 人魚は少し首を傾げたまま何も言わず、ただじっとワタルの言葉に聴き入る。

「でもね、僕の姉が教えてくれたんだ。母さんは死んでなんかいない、海で人魚になったんだって」

 だからね、と言ってワタルが微笑み、そっと人魚の指先に触れた。

「君に初めて出会った時、とても懐かしいと思った。だって君は海から来たから。母さんの棲む、静かに深い海の匂いがしたから」


 物言わぬ人魚の細い指先は、ひんやりと冷たい。


      ✿


 梅雨もとうに明けて、夏の白い陽射しの中を延々と大学とアパートを行き来するだけの日々が続いた。時折遠くから物言いたげに自分を見つめる茶髪の男の視線を感じたが、ワタルが黙殺しているうちに諦めたのか、話しかけてくるような事はなかった。

 暑がりの人魚のためのエアコンの電気代が馬鹿にならず、何かアルバイトでも始めようかと思いもしたが、しかし毎日狭いバスタブで独り自分の帰りを待つ人魚のことを思うと、これ以上家を留守にするのも憚られた。

 そんなある日のこと、氷と人魚の餌を買いにコンビニに行った帰り道、背後からぱたぱたと軽い足音が追いかけてきたかと思うと、一人の少年が目の前でクルリと方向転換してワタルの顔を見上げた。

「コンニチハ」

 見知らぬ少年の人懐っこい笑顔にワタルが首を傾げると、「人魚のお兄さんだよね?」と少年が言った。

 ──あぁ、あの少年か。茶髪の男とコンビニで軽く言い争いになった夜、わざわざ自分を追いかけて来て人魚を見たいと言った少年を思い出し、ワタルは少し嫌な気分になった。人前で人魚の事など軽々しく口にするべきではなかった。子供はしつこい。後々まで付きまとわられても迷惑だと思い、露骨に眉根をひそめてみせた。しかしワタルの困惑を知ってか知らずか、少年はニコニコと屈託無い。

「人魚は元気?」

「え? あぁ、うん……」

「そう、良かった。こう暑くっちゃ人魚も大変だよね。人魚は深くて冷たい海が好きだから」

 初夏の風が少年の目にかかる艶やかな黒髪を乱す。無邪気な笑みを口許に浮かべ、少年がワタルを見上げる。けれどもその眼は全く笑ってなどいなかった。

「じゃあ、またね。人魚によろしく」

 軽く手を振って走り去る少年の肩に座った小さな獣が、金色の瞳を細めるようにしてじっと自分を見つめていた。



「……酷い臭いだな」

 角を曲がり、ワタルの姿が見えなくなった途端に焰が鼻にシワを寄せてひとつクシャミした。

「半径百メートル以内に近付いただけで鼻がどうにかなりそうだ。常々思っているんだが、イキモノとしてのヒトの精神的しぶとさと図々しさは、五感の鈍さ故だろうな」


      ✿


 週末、仕事で近くに来た姉が昼食でもどうかと誘いの電話を寄越した。何でも好きなものを奢るわよ、と楽しげに笑う姉の言葉に甘えて、見晴らしの良い高台にあるレストランのランチをねだった。人混みを嫌う自分にしては我ながら珍しいと思ったが、延々と続く白い陽射しに疲れていて、何か違う景色を欲していたのかも知れない。

「ワタル、なんだか少し痩せたわね。顔色も悪いし、大丈夫? ちゃんと食べてるの?」

「大丈夫だよ。ちょっと夏バテ気味で疲れているだけさ」

「夏バテって、まだ七月に入ったばかりじゃないの」

「うん、そうだけど、最近、夏が暑いと思わない? 熱中症とかさ、僕たちが子供の頃はあんまり聞いた事なかったよね」

「そうねぇ。でもここは都会だし、土や樹もあまりないし、やっぱりアスファルトのせいかしら?」

「うん、海も遠いしね」

 ワタルの言葉に姉がふと沈黙した。

「……コンクリートに固められた岸壁と汚水の流れ込む濁った水、お世辞にも爽やかとは言い難い潮の臭い、こんなものは海とは言えない。姉さんだってそう思うだろう?」

 窓の外の景色を眺め、ワタルが微かに嗤った。

 空調の効いたレストランから出ると、むっとする熱気と容赦ない照り返しに目の奥が痛んだ。夏休みは帰ってくるの? と姉に聞かれ、分からない、と答える。

「……そう。でもお盆くらいはちゃんと帰ってきなさいよ? 長男がいないとやっぱり、ね?」

 姉が少し悲しげな、なんだか困ったような顔で微笑むと、白い日傘を広げた。

「姉さん」

 自分に背を向けて歩き出した姉をワタルが不意に呼び止めた。

「……母さんは、人魚になったんだよね」

 振り返った姉が僅かに息を呑んだ。

「ワタル……」

「姉さん、言ったよね。母さんは死んだわけじゃないって。海で、人魚になったんだって」

 じりじりと焼けつくアスファルトの照り返しの中、日傘の下の姉の白い顔をじっと見つめる。

「でもね、最近考えたんだけど、母さんはヒトから人魚になったわけじゃなくて、本当はヒトのふりをしておかに上がった人魚だったんじゃないかな。だけどやっぱり海が恋しくて、深くて冷たい水の静けさが諦められなくて、海に帰ってしまったんだよ」

 日傘の白さがあまりに目に眩しくて、姉の表情はよくみえなかった。姉に背を向けて歩き出した時、こちらに向かって歩いてくる少年と目が合った。

「カエリタイって言ってるよ」

 擦れ違いざまに少年が囁いた。

「あんたのバスタブの人魚、カエリタイって言ってる」


 ……そんなはずはない。

 僕が人魚を必要とするのと同じくらい、人魚は僕を必要としている。なぜなら僕たちは、共に生き、共に在るべきなのだから。人魚は母とは違う。僕を置いていってしまった母とは──


 そう言おうと思い振り返ったが、少年の姿はすでに人混みに消えていた。



「おい、もうあの男にまとわりつくのはやめにしないか? 俺の繊細な精神はそろそろ限界だ。お前、よく平気でアイツと口なんぞ利けるな」

「別に平気ってわけじゃないけど……」

「ならもういいだろうが。ヒトなんぞ放っておけ」

「でも気付いちゃった限り、そういうワケにはいかないよ」

「お前はつくづくヒトが好い」

 焰が辟易とした顔で舌打ちした。

「知っているか? ヒトが好いってのは褒め言葉じゃないんだぞ? 馬鹿の代名詞だ」


      ✿


 大学からの帰り道、突然夕立ちに降られた。当たれば肌が痛いような大粒の雨に、急いで近くのコンビニに飛び込む。と、入口近くに立っていた小さな人影にぶつかり、相手がよろめいて転んだ。慌てて謝りながら手を差し伸べると、艶やかな黒髪からぽたぽたと透明な雫を垂らした少年が、ワタルを見上げて微笑んだ。思わず引っ込めそうになった手を少年が素早く掴んで立ち上がる。

「すごい雨だね。ゲリラ豪雨ってやつ?」

 少年が雨に煙る景色に目を細めた。

「霞んじゃって、なんにも見えないや」

 ワタルが曖昧に頷くと、少年がしっとりと濡れた髪を手で掻き上げた。長い睫毛に縁取られた大きな瞳がじっとワタルを見つめる。

「世界はよく霞む」と不意に少年が呟いた。

「雨に霞み、霧に霞み、闇に霞み、夏の白い陽射しの陽炎にすら霞む。霞んだ世界では、目の前に在るモノですら、その本当の姿を見るのは難しい」

 ねぇ、と少年が耳許で囁く。

「あんたはあんたの人魚をちゃんと見たことある?」

「……なにが言いたいんだ?」

 僅かに首を傾げて目を細めた少年が、不意に口の端を歪めるようにして嗤った。

「俺が知りたいのはね、人魚の鱗は何色かってコト」


 細く柔らかな銀糸のような雨の中で出会った人魚は、唯ひたすらに綺麗だった。雨に濡れた長い睫毛も、生まれてから一度も日に当たったことのないような白い肌も、青い紫陽花にそっと触れる細い指先も、とても此の世のモノとは思えず、いくら見ても見飽きることは無かった。

 なのに何故か、人魚の鱗は何色だったか、どうしても思い出せない。無理に思い出そうとすると耳鳴りがして、酷く目の奥が痛んだ。



「おい、ミント買ってくれ」

 雨の中、ワタルが駆け去るのを見計らったように煉のシャツの中から顔を出し、狐が催促した。

「いいけど、焰ってミントなんか好きだったっけ?」

「口の中がおかしな具合にスースーするから好きじゃないが、前にテレビで見たんだ。地味なスーツを着た女と男が、鼻の下にミントを塗っていた。臭いが分からなくなるんだと」

 煉が無言で棚からミントを掴むと、ポケットの小銭と共にレジに置いた。


      ✿


 大学で、街で、行く先々で、黒髪の少年の姿を目にした。少年はある時は物言いたげにワタルを見つめ、またある時はワタルになど気付きもしないかのように知らんぷりして目の前を通り過ぎてゆく。

 見られている、と思った。何故かは分からないが、あの少年は、まるでそうすることが彼の義務であるかのように、片時も僕から離れず、ずっと僕を見つめている。

 物言わぬ少年の静かな眼差しに苛立ちを覚え、けれどもそれから逃れる術も持たぬままに、幾日も過ぎていった。


      ✿


 その日はやけに朝早く目が覚めた。バスルームを覗くと、人魚は僅かに俯いて壁に凭れ掛かり眠っているようだった。その眠りを妨げぬよう、そっと足音を忍ばせ家を出る。小鳥の囀りに誘われるようにひと気のない公園に行くと、木陰のベンチにあの少年が座っていた。

「……なんとなく君に会うような気がしたよ」

 少年の隣に腰掛けてワタルが呟くと、そう、と言って少年が微笑んだ。

「ねぇ、そのポケットの中のモノ、なあに?」と少年がワタルのシャツを指差した。

「……君は何でもお見通しなんだね。不思議だけど、でもなんだかもう驚かないよ」

 胸ポケットから取り出した物を少年に渡す。朝陽に透かすようにしてそれを眺めていた少年は、やがて溜息と共にそっとそれをワタルの手に返した。

 ねぇ、教えてよ、と囁き、少年が目を細める。

「あんたのバスタブには、ナニがいるの?」

「……人魚だよ。何度も言っただろう?」

 うっすらと口許に笑みを浮かべて、少年がワタルを見つめる。少年の瞳は大きく、黒々と濡れ、深かった。しかしそれは生命溢れる蒼い海の深さではなく、もっと何か、暗くて得体の知れない山奥の淵のような深さを彷彿とさせた。その暗い淵の底から少年が囁く。

「あんたのバスタブにいるモノの真実ほんとうの姿を、あんたは見なくちゃいけない」


      ✿


 真実ほんとうの姿とは一体何なのだろう。眼に見えるモノが必ずしもホンモノとは限らない事くらい、大人なら誰だって知っている。でもあの少年が言わんとすることは、何か、もっと違うことのような気がした。


 そこだけ冬のように冷え切ったマンションのバスルームの氷の中で、人魚は柔らかな髪をゆらゆらと揺らしてワタルの帰りを待っていた。

 ねぇ、と人魚の耳許に囁く。

「……君は、海に帰りたいの?」

 人魚は長い髪に隠れるように俯いたまま、答えようとはしなかった。伏せた目の長い睫毛が、蒼褪めた頬に暗い影を落とす。

 ねぇ、とワタルが再び囁いた。

「……寂しいの?」

 不意に涙が零れそうになった。

 君がいなくなったら、君まで僕をおいていってしまったら、僕はきっと生きてはいけない。ヒトは誰も、独りで生きてはいけない。

 手の中の指輪を見つめる。アクアマリン、と店員は言った。アクアマリン、海の水。その淡い水色の雫のような石は、人魚の涙のように澄み、指先に冷たかった。

「もし誰か家族と話したければ、これを使うといいよ」

 携帯電話をそっとバスタブの横の床に置く。海に棲むモノ達の間で本当にこんなものが使われるのか分からなかったが、しかし人魚は以前に一度携帯電話を使おうとしている。あの時は、僕を置き去りにするつもりなのかと、僕を捨てて海へ帰った母のようにお前も僕を捨ててゆくのかと、ついカッとして口論になってしまった。思えばあの日から人魚は急に無口になった。もしかしたら人魚は、自分の寂しさを知ろうとしない僕のことを、ずっと怒っていたのかもしれない。

 ごめんね、とワタルが呟いた。

 僕は君のことが好きだった。とてもとても好きで、ずっと一緒にいたかった。でも君は人魚で、僕はヒトで、違う世界のモノと共に生きてゆくのはあまりにも難しい。君や僕の母がヒトになれないように、僕は永遠に人魚にはなれない。だから、とバスタブの人魚に耳許に囁く。


 だから、君はもう僕を待たなくてもいいよ。


 携帯の上にそっと指輪を置いて、バスルームを出た。


      ✿


 人魚が家を出て行くのを見たくなくて、あてもなく街を彷徨った。朝から何も口にしていなかったが、空腹は感じない。ただ酷く喉が渇いた。水から上がった人魚のように、いくら水を飲んでも渇きが癒されることは無かった。

 夜更け、疲れて切ってマンションに帰った。

 玄関を開けると、むっと息が詰まるような熱気が部屋から溢れ出た。人魚は律儀にも家を出る前にエアコンを消していったらしい。もう夜だというのに、エアコンもないまま一日中閉め切ってあった部屋はまるでサウナのようで、息をするのですら苦しかった。

 空調を設定しようと伸ばした手が止まる。エアコンが壊れている。そうと気付いた瞬間、心臓がトクリとおかしな打ち方をした。慌てて振り返ったバスルームのドアは細く開いていて、その隙間から明かりが漏れていた。

 台所に駆け込み、氷の入った袋を掴んでバスルームに飛び込む。

 人魚はぐったりと壁に頭を凭せかけ、ぬるくなったバスタブの水の中で自分の帰りを待っていた。


 ごめんね、ごめんね、と泣きながら、ありったけの氷と塩と人魚の餌をバスタブにぶち込んだ。必死で赦しを乞うワタルの涙に霞んだ眼に、人魚の口許に浮かぶ幽かな微笑みが映った。


 アンタノバスタブニイルモノノ真実ノ姿ヲアンタハ見ナクチャイケナイ。


 ねっとりと纏わりつく濃く甘い匂い。

 僕は君のモノで、君は僕のモノだから、もう何があっても離しはしない。

 涙を拭い、柔らかなウェーブのかかった髪をそっと撫でる。濡れた長い髪が指に絡みつき、ほどこうとした拍子にずるりと束になって抜け落ちた。人魚の躰がぐらりと揺れ、氷と塩と防腐剤に浸かった人魚の脚の爪先が不意に眼に映った。


 人魚ノ鱗ハ何色カ、と誰かが耳の奥で囁く。


 腐り、白濁した水の中で、肉が溶けて骨の見え始めた爪先に塗られたペディキュアだけが、本当に、唯ひたすらに、真っ赤だった。


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