人魚(前編)

 僕のアパートのバスタブには人魚がいる。


      ✿


 大学の講義室で席についた途端、先に座っていた数人の女子が立って席を移動した。

「やだ~」

「キモい~」

 クスクスと悪意のある笑い声が漏れ聞こえるが、そんなものを今更気にしても仕方無い。どうせいつものことだ。

「よう、久しぶりじゃん」

 背後から妙に親しげに肩を叩かれた。講義で時々見かける茶髪の男が身を乗り出してきた。

「あのさ~、俺、先週の講義、バイトで休んじゃってさ、悪いんだけどノート貸してくんない?」

 たいして悪いとも思っていない様子でへらへらと笑う男に、無言で鞄から取り出したノートを渡す。

「……コピーを取って午後までに返してくれ」

「お、サンキュ」

 男がノートを受け取ると、不意に顔を顰め、鼻をひくつかせた。

「なんか臭わねぇ?」

「……別に」最後に銭湯に行ったのは三日前だったか。

「ふ~ん、そう……」

 ノートを借りた手前、それ以上の詮索は控えることにしたのだろうか。茶髪の男は妙な顔をすると前に乗り出していた身体を後ろに引いた。

 たいして汗をかいたつもりはないが、やはり夏場は二日が限界か。しかし銭湯に行く金はない。バイトをせず親の仕送りのみで暮らしている自分には、ユニットバス付きのマンションの家賃を払うのが精一杯だ。安いコインシャワーにでも行くしかあるまい。


      ✿


 夕方、西日に茹だるようなアパートの玄関を開けた途端、キンキンに冷えた空気が身体を包み込んだ。一日中つけっ放しだったらしいエアコンに思わず溜息をつく。今月の光熱費も凄いことになりそうだ。仕方が無い。人魚はひどく暑がりなのだ。

「ただいま」と声をかけてバスルームを覗いたが、人魚はバスタブに頭を凭れかけたまま返事をしない。今朝、家を出る前にエアコンの事で少し注意したのを根に持っているらしい。

 溜息と共に冷凍庫から取り出した氷をバスタブの水に浮かべてやった。柔らかなウェーブのかかった美しい髪が水にゆらゆらと揺れる。ワタルがそっとその長い髪を掻き分け、白く薄い貝のような耳朶に囁く。

「髪を洗ってあげようか?」

 人魚は返事をしなかったが、でも冷たい氷のお陰か、少しだけ機嫌が治ったようだった。盥に冷たい水を汲み、壊れやすい硝子細工を扱うように慎重に人魚の髪を洗ってやる。ワタルは人魚の髪を洗うのが好きだった。人魚は何も言わないが、やはりワタルに髪を洗われるのを好んでいるのだろう。うっとりと目を瞑る人魚の横顔は、ワタルに何にも勝る至福をもたらせた。

 ワタルは知っている。

 この美しいイキモノのためなら、このイキモノを自分の手の中にとどめておくためなら、自分は何でもするだろう。


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 いつものことながら、人魚の髪を洗ってやると手が酷く生臭くなる。やはり半身は魚だからだろうか。人魚はヒトよりも魚に近いのか、魚よりもヒトに近いのか。人魚は口許に幽かな笑みを浮かべるだけで、ワタルの問いに答えようとはしない。

 台所の流しで幾ら洗っても落ちない匂いは、まるで人魚とヒトの違いを自分に知らしめようとしているようで、胸の奥が苛立ちにざわめく。水が欲しい。全てを呑み込み、洗い流す深く冷たい水を求め、身体が震えた。

「銭湯に行ってくるよ」

 細く開けたバスルームのドアから声をかけると、人魚が微かに頷いた。 


 銭湯からの帰り道、冷凍庫に作り置きしておいた氷を先程使い切ってしまった事ををふと思い出し、コンビニに寄った。塩と、それから人魚の餌もそろそろ残り少なかったはずだ。

 会計を済ませてコンビニを出ようとした時、丁度入って来た女連れの男と目が合った。おぉ、とやけに親しげに男が手を挙げる。

「誰?」と派手な化粧の女が男に訊ねた。誰? とワタルも首を傾げる。

「大学の同じ学部の奴。ノート借りたりしてさ、世話になってんの」

 あぁ、そうか。後ろの席に座っていた茶髪の男か。

「なに? もしかして銭湯帰り? お前ってこの近くに住んでんの?」

 ワタルの濡れた髪や着替えを入れた袋を見比べ、男が訊ねる。ワタルが曖昧に頷くと、男が途端に目を輝かせた。

「マジ? どこのアパート? 俺の今住んでるとこすっげー不便でさ、この辺に引っ越そうかと思ってんだよ。でもこの辺って結構家賃高いだろ? お前のとこってどれくらいすんの?」

 ワタルがぼそぼそと答えると、男が驚いたように目を剝いた。

「げ、なんだそりゃ、たっけーな。お前、そんなスゲーとこに一人で住んでるかよ?」

「……そんなところって言われても、小さいキッチンが付いただけのワンベッドルームだよ」

「ねぇ、それってもしかして向こうの角のマンション? ちょっと洒落たレンガ造りみたいな感じの」

 黙って二人の話を聞いていた女が不意に横から口を挟んだ。ワタルが無言で頷くと、女が、え〜、イイな〜と羨ましげな声を上げた。

「まぁあそこならソレくらいするよね。あそこって新しいし、ワンルームでも結構広いし、おまけにバス付きじゃん」

「なんで知ってんの?」

「友達があそこ住んでるもん。結構良いユニットバスが付いててさ、OLとかに人気らしいよ」

「へぇ、じゃあなんでお前銭湯なんか行ってんの? 高い家賃払ってんのに勿体ねーじゃん。風呂壊れてんの?」

「……別に」

「あっ、もしかしてアレ? 風呂壊れてるのに大家に言うのがメンドクサイとか?」

 男が馴れ馴れしく肩に腕をまわしてきた。

「お前ってコミュ障っぽいもんな、連絡したくても他人と話すのが嫌なんだろ? しょーがねぇな、ここは俺が一肌脱いで大家に連絡してやるからさ、その代わりに期末のレポート見せてくんない──」

 思わずかっとして男の腕を振り払った。

「……風呂は壊れてなんかいない。余計な真似はするな」

「な、なんだよ、そんなマジになんなよ……」

 何か言いかけた男を無視して店を出ようするワタルを見て、男が不意にムッとした顔で声を荒げた。

「なんだか知らねぇけど、お前さぁ、臭いんだよ。みんな言ってるぜ? 風呂があるなら入れよ、まじメーワクだからさ。そんなんじゃ女も寄ってこないぜ?」

「……風呂は使えないんだ。女も要らない」

 肩越しに振り返ったワタルが、僅かに口の端を歪めて嗤った。

「……バスタブで人魚を飼ってるから」

 呆気に取られた男を後に店を出る。と、若者達の背後で漫画雑誌を読んでいた少年が雑誌を棚に置き、ワタルを追うようにコンビニを出た。


      ✿


 馴れ馴れしく不作法な男のせいで、気持ちが酷く苛ついた。波立つ心を静めようと、ワタルが深呼吸する。都会の夏の夜の空気はねっとりと重く、微かに甘い腐臭を帯びて、それはどこか人魚の匂いに似ていた。


 ワタルが初めて人魚に出会ったのは、ひと気の無い公園の花壇だった。降り頻る銀色の糸のような梅雨の雨に長い髪をしっとりと濡らし、人魚は倦んだ眼差しで青い紫陽花を見つめていた。


 どうしたの、とワタルが尋ねると、人魚は小さな声で、「雨だから」と呟いた。

雨だから、世界がとても濡れていたから、だから海から出ておかに上がってみたのだろうか。人魚はとても無口で、いつも一言二言しか話さなかった。

「家に来る?」とワタルが尋ねると、人魚は少し首を傾げてワタルを見つめ、やがて小さく頷いた。


      ✿


 不意にヒトの気配を感じて振り返ると、背後の暗闇に小さな影が立っていた。野球帽を目深にかぶった少年が、街路灯の光の輪の中に足を踏み入れる。

「あのさ、さっき聞いちゃったんだけど」

 少年が僅かに首を傾げるとやけに人懐っこい声で話しかけてきた。しかし帽子のつばの影に隠れ、少年の顔は見えない。

「人魚飼ってるって、ホント?」

「……本当さ」

「イイナ~、俺、人魚って大好きなんだよね。ちょっとだけ見せてもらえないかな?」

「……駄目だよ」

「え~、誰にも絶対言わないから、ほんのちょっと、一目でイイからさ。お願い」

 愛らしく小首を傾げた少年に向かって素っ気無く首を振り、ワタルが少年に背を向けた。

「悪いけど、人魚は人見知りなんだ。見世物じゃないしね」

 残念そうな少年の溜息を無視して、マンションのエレベーターホールへ入る。自分を見つめる少年の視線を背中に感じて、胸の内が微かな苛立ちにざわめいた。


 ワタルの姿が見えなくなった途端、煉が鋭く舌打ちした。マンションを囲む塀の上に姿を現した小さな狐が、ひょいと煉の肩に飛び乗る。

「俺がひとっ走り行って見てきてやろうか?」

「ううん、ほむらは近付かないほうがいいよ」

 首を横に振ると、マンションの暗い窓を見上げて煉が低い声で呟いた。

「……人魚だかナンだか知らないけど、あまり良いモノじゃないことだけは確かだからね」

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