弟切草(後編)

     3


 朝、目覚めた翔が珍しくベッドの中でぐずぐずとしていた。ざらりと舌に残る不快感と頭の一部が痺れたような頭痛は、昨夜の夢のせいだろう。

 父方の姓は碓井。母方の姓は今井。翔の名前はイマイ・カケル。何故自分の名前はウスイ・カケルではないのかと、以前祖母に尋ねたことがある。

「翔のお母さんは一人娘だったから、うちの苗字とこの家をお前に継いで貰おうと思ってね」と祖母は答えた。その時は納得したが、よくよく考えてみれば何かしっくりとしない。祖母は「お父さんに婿養子になって貰った」とは言わなかった。何故父と自分の苗字が違うのか、市役所で戸籍謄本を見れば簡単にわかる気がした。

 しかし翔は知っている。自分が決してそんな真似をしないことを。澄んだ池の底に沈む泥をわざわざ掻き乱して水を濁すほど、自分は愚かではない。

 ダイニングテーブルに父の姿はなかった。母が翔のために焼く朝食のパンの芳ばしい匂いが、不快な夢に毛羽立った心を静める。

「父さんは?」

「出掛けたわよ。会社の人と約束があるんですって」

 少しほっとした。ただの夢だとわかっていても、父の顔をみたら気不味い思いを顔に出さないでいられる自信がなかったから。


 その夜、翔は遅くまでテレビを観たりネットで遊んだりして時間を潰した。まさかとは思ったが、またあの夢の続きをみそうで、眠るのを厭う気持ちは否めない。二時近くまでぐずぐずと起きていたが、流石に疲れ、これなら夢もみずに眠れるだろうと思いベッドに横になった。



 《 夢 其の参 ~ 煉 》


「またあの女の家に行くのか?」

 京子のマンションへ向かう坂道を登る煉を小柄な狐が見上げた。

「そんなに気になるなら、ぐずぐずせずにさっさとあの女の内に棲む鬼を祓ってやればいいだろう」

「……無理だよ。あのヒトは鬼と深く繋がりすぎてるもの」

「それがどうした?」

「このままの状態で俺があのヒトの鬼を祓えば、鬼だけじゃなく、あのヒトの魂にも傷がつく」

「だが別にあの女が死ぬわけではないだろうが」

「……死ななくても自我が壊れる」

「そんな事までお前が気にかけてやる必要はないだろう」

 無言でマンションのエレベーターのボタンを押す煉に狐が溜息を吐いた。

「あの女が鬼から離れるのを待つのは無駄だと思うがな。見ただろう? あのトンデモナイ数の弟切草。あの女、自分を裏切った誰ぞの血で弟切草の葉を染める気満々だぞ?」

「……でも、鉢に植えられていたのは弟切草だけじゃなかったよ」

 狐の視線から顔を背けるようにして煉が呟いた。

「花は咲いてなかったけど、忘れな草も混じってた」

 ふん、と狐が鼻を鳴らす。「恨みは忘れない、ってことだろう」



 煉がマンションの廊下を歩いていると、京子の家のドアが開き、中年の男が出て来た。廊下で擦れ違った男の暗い顔を煉がちらりと横目で見上げる。ドアベルを鳴らしてしばらく待っていると、疲れた顔の京子がドアを開けた。

「さっき、廊下で京子さんの家から出てきた男の人とすれ違ったよ。ダンナさんかな、休日出勤なんて大変だね」

 煉の言葉に京子が口の端を僅かに歪めるようにして嗤った。

「仕事じゃないわ。どうせ愛人とその子供の家に行ったのよ」

 無言で自分を見つめる少年の澄んだ瞳の中で、無数の弟切草が揺れる。

「私が鬱病で苦しんでいるのに、あの人は私を慰めるどころか外に愛人を作ったあげく、子供が出来たから別れて欲しいって私に土下座までしたわ。酷いでしょう? 私は子供が産めないのに。私を見捨てたあの人も、私から夫を奪った女も、人間として最低よ」

 私は何故こんな話を子供にしているのだろう。全てを見透かしたような少年の眼が妙に大人びているせいだろうか。胸の底に渦巻く暗い感情の奔流に呑まれ、京子が吐き捨てるように言った。

「私はあの人達が憎くて憎くて堪らない」

「そんなに憎らしいならさっさと別れればいいじゃん。離婚しちゃえば二度と顔を見ることもなくって、スッキリするんじゃないの?」

「嫌よ。私達が別れれば、あの女は結婚して、奥さん、って呼ばれる。そんなこと絶対に許さない。あの女は一生愛人で、日陰者で、子供は不義の子、愛人の子って呼ばれればいいわ」

「そんなのタダの名前だよ。いくら京子さんがそう言ったって、本人達が気にしなければなんてことないんじゃないの?」

 諭すような少年の口調に、京子が乾いた嗤い声を上げた。

「あら、名前ってすごく力があるのよ? 考えてご覧なさい。あの男が死んだら、私が葬式の喪主よ。あの女も子供も葬式に顔を出すことすら許されないのよ。あの女は私から夫を盗んだけれど、死ねばあの人は私の元に帰ってくるの。だからね、私は絶対にあの人達より先に死んだりしない。死んだら負けよ」

「……いいんじゃないの。それが京子さんに生きる力を与えてくれるなら。死にたい、って言うよりマシなんじゃない?」

 風に揺れる黄色い花に囲まれ、京子が痛む指先を噛み、許さない、と囁いた。

「……許さない。私を裏切り、私を切り離し、そして私以外の全員が幸せになるなんて、絶対に許さない。絶対に別れてなんかやらない。別れれば、あの人達は皆私の存在など明日には忘れてしまって、たとえ私が死んでここで独り朽ち果てても、気づきもしないだろうから」

「でも、幸せじゃないんでしょ?」

「一緒にいても別れても不幸なら、あの人達も道連れよ。絶対に、あの人達だけ幸せになんてしてやらない。私は存在すら覚束無い自分の未来の幸せよりも、あの人達の不幸を望むわ」

 ゆらゆらと頼りなく揺れる弟切草が風を染める。その鮮やかな色合いは、鮮やか過ぎて、眩しくて、心の奥をざわめかせ、苛立たせる。不意に京子が嗤った。

「私が怖い? 愚かな女だと思う?」

 京子から目を逸らした煉がぽつりと呟いた。

「……ヒトはみんな愚かだよ」


     ❀


 じっとりと全身に嫌な汗をかいて目を覚ました。枕元の時計は明け方の三時を指し、カーテンの隙間から覗く空は墨を流したように暗い。夜明けまでまだ時間はあるが、こんな夢をみるのはもう沢山だった。

 枕の下を手探りしたが、勿忘草はどこにもなかった。汗に濡れたシャツを着替え、なるべく楽しいことを考えようとした。このまま本でも読んで朝まで眠らずに起きていようか。しかし、本を片手に枕に頭をつけた途端、引き摺り込まれるように眠りの淵に落ちた。


     ❀


「今日ね、あいつらに恥をかかしてやったの。会社の同僚や上司の前で土下座させてやったわ。あの女なんか皆に白い眼でみられて、青褪めて震えてた。ざまあなかったわ」

「満足した?」

「最高の気分よ」

 甲高い笑い声をあげる京子を煉が哀しげに見つめた。

「……じゃあ、なんで泣いてるの?」

 空気を震わせる悲鳴のような嗤い声が掠れ、途切れ、やがて低い啜り泣きにかわった。

「……私は独りなの。私のそばには誰もいない」

 痛みに痺れる指先を握り締め、俯いた頬に涙が零れる。この冷たく広い世界で、凍える手を暖めてくれる存在が欲しかった。

「京子さんを独りぼっちにしているのは、京子さん自身だよ」

 そっと肩に置かれた煉の手の熱は、真空の様に虚ろな京子に伝わることはなかった。

「……此の世の全てが憎い。私を見捨てた夫、夫を奪った愛人、何も知らずに生まれてきた愛人の子。けれども私が一番憎いのは、もしかしたら、私自身なのかもしれない……」


 弟切草に染まる風に震える声が、いつまでも耳の奥に残った。



     4


 最悪な気分だ。目が覚めた途端に吐き気がした。身体が怠くて頭痛がしたが、これ以上眠るのだけはごめんだった。眠ればきっと、あの夢の続きを見るだろうから。

 足を引きずるようにしてキッチンへ行くと、ダイニングテーブルで父が新聞を読んでいた。ドアの陰からいつもと変わらぬ様子の父を窺う。母は洗濯物を干しに庭に出ているらしい。開け放たれた窓から、小鳥の囀りが聞こえる。

 新聞からふと顔を上げた父が翔に気付き、僅かに片眉を上げて首を傾げた。

「どうした、翔、そんなところに突っ立って。顔色が少し悪いな。風邪でもひいたか?」

 喉が渇いて舌がひりつく。小鳥達の囀りがやけに煩くて、耳鳴りがする。何でもないと言いかけて、首を横に振った途端に眩暈がして足元がふらついた。

「翔?!」

 慌てて椅子から立ち上がった父から逃れるように、翔が一歩後退った。

「……父さん」

 自分はまだ悪い夢の続きを見ているのかも知れないと思い、けれども同時にこれが現実だと知っている自分がいる。頭の芯が熱に浮かされたようにぼんやりとしているのに、どこか一点が冷え切っていて、何故か不意に嗤いが込み上げてきた。微かな嗤いに歪められた口許から、言うつもりの無い言葉が零れた。

「ねぇ、父さん……京子っていう女の人、知ってる?」

 父の顔色が変わるのを見た瞬間、翔は身を翻し、家を飛び出した。父が自分を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らずに自転車に飛び乗る。震える脚でペダルを踏み込んだ翔の耳許で、ばさり、と風を切る大きな羽音がした。

「煉ッ! いるんだろう?! 隠れてないで出て来いよッ」

 自転車を乗り捨てるようにしてひと気の無い公園に飛び込み、翔が怒鳴った。

「煉ッ!!!」

 しかし幾ら喚いても、喉が嗄れるほど叫んでも、あの少年は姿を現さなかった。大切なものが土足で穢されたような怒りと遣る瀬無さに、血が滲むほど強く握り締めた拳が震える。何かを滅茶苦茶に壊したい衝動に駆られ、花壇を埋め尽くす小さな青い花を毟り取ろうとして伸ばした腕が、不意に何かに掴まれたかのように動かなくなった。

 我を忘れるほど猛り狂う胸の奥に、小さな裂け目があり、そこから何かが染み出ようとしている。それが何よりも恐ろしかった。裂け目がこれ以上広がらないよう、爪を立ててシャツの胸元を強く掴み、嗚咽を堪えるかのように背中を丸めて叫んだ。

「畜生っ、変な夢見せやがって、てめぇ、絶対、絶対許さないからなっ」



 結局あの少年は見つからず、むしゃくしゃした気分のまま夕方まで滅茶苦茶に自転車を走らせた。朝から何も食べていないのに空腹感はなかった。ただ頭の芯が痺れ、酷く耳鳴りがして、何も考えたくなかった。

 夜遅く家に帰り、シャワーも浴びずに二階の自分の部屋に上がると、部屋に鍵をかけてベッドに倒れこんだ。居間の明かりがついていたけれど、今は父の顔も母の顔も見たくはなかった。

 眠るのが怖い。いっそこのまま不眠症になれば良いのに、と真剣に願った。しかし願いも虚しく、枕に頭をつけた途端に気を失うように眠りの淵に落ちた。



 《 最後の夢 ~ 翔 》


 翔は怒っていた。

 怒りに任せて家の庭のフェンスに巻きついて咲いている朝顔をぶちぶちと毟り取り、それでも飽き足らず、地面に落ちた花を踏み潰した。不意に朝顔を踏みにじる足元が翳った。翔が顔を上げると、白い日傘を差した女の人が驚いたように翔と潰れた紫の花を見つめていた。咄嗟に怒られると思い、翔が慌てて俯いた。しばらく黙って翔を見つめていた女の人が、どうしてそんなことをしたの、と小さな声で囁くように尋ねた。

「……だって、お母さんが、ウソついたんだもん。遊園地に連れてってくれるって約束したのに、やっぱりお仕事に行かないとダメだって、つぎの日曜日までガマンしなさいって」

「日曜日なんか、幾つか寝たらあっという間よ?」

 恐る恐る女の人を見上げた翔の鼻が赤くなり、目が潤んだ。

「でも……でも、今日じゃないもん。今日じゃなくっちゃダメなんだもん」

「どうして?」

「だって、今日は僕のお誕生日なんだもん」

 女の人がハッとしたように目を瞠り、まじまじと翔を見つめた。

「……そう、翔君は今日でもう五才になるのね」

「おばさん、どうして僕の名前知ってるの?」

 翔が首を傾げると、女の人がふわりと微笑んだ。レースの日傘から零れた光が長い髪にちらちらとひかって、とても綺麗なヒトだな、と思った。

「だって、おばさんは翔君のお父さんとお母さんのオトモダチですもの。翔君のお母さんがね、翔君ががっかりしていて可哀想だから、お母さんの代わりに遊園地に連れて行ってあげて下さい、っておばさんにお願いしたのよ」

 女の人が仄暗い日傘の影から翔に向かってそっと白い手を差し出した。

「行く? おばさんと遊園地に」

 一瞬、家にいるおばあちゃんに行ってきますって言わなくてもいいのかな、と思ったけれど、でもダメだと思っていた遊園地に行けることが嬉しくて、それに今すぐ手をつながないと女の人が自分を置いてどこかに行ってしまいそうな気がして、翔は差し出された手を急いで握った。ひんやりとしたそのヒトの手はシミひとつ無く、とても綺麗でつるつるしていた。おばあちゃんの事も踏み潰した朝顔の事もすっかり忘れ、翔は喜びのあまり思わずスキップした。

 遊園地は最高に楽しかった。おばさんは、風船でもアイスクリームでも翔の顔より大きなクルクルキャンディーでも、翔が欲しがるものは何でも買ってくれた。翔が同じ乗り物に何度も乗りたがっても、嫌な顔ひとつせず一緒に乗ってくれた。翔が服にジュースをこぼすと、あらあら大変、と言いながら、でもなんだか嬉しそうに白いレースのハンカチで拭いてくれた。

 ホットドッグを食べ、華やかなパレードを見終わる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。一日中興奮してはしゃいでいた翔も流石に疲れ、京子の背中で眠ってしまった。



 風の音にふと目を覚ますと、見慣れない部屋の大きなベッドに寝かされていた。

「お母さん……?」

 なんだか急に心細くなって、小さな声で母を呼びながら部屋を出た。微かに音のする方へ歩いていくと、広い居間のバルコニーのガラス戸が開いていて、夜風がカーテンを揺らしていた。暗い部屋に射し込む月明かりの中、京子が咲き乱れる黄色い花を見つめていた。風がその長い髪を乱す。

「どうしたの?」翔が京子に近付き、顔を覗き込んだ。「どっか痛いの?」

 京子が無言で首を振ると指先を握りしめた。

「……指が痛いの?」

 血が滲む程強く握られた京子の手に、翔の小さな手がそっと触れた。

 翔は知っている。大人でも泣くことがあることを。お母さんは時々夜中にそっと翔のベッドに潜り込んでくる。そして翔の背中に顔を隠して声を立てずに泣いている。背中がしっとりと濡れるから、お母さんが泣いているのは知っているけれど、でも、そんな時、翔はいつも黙って寝たふりをしてあげる。

 淡い月明かりの中、翔が京子を見上げた。

「あのね、すごく痛かったら、すこしだけ泣いてもいいんだよ。僕、誰にもナイショにしておいてあげるから」

 このヒトの指はすごく細くて綺麗だけど、でもとても冷たいから、それで痛いのかもしれない。暖めてあげようと思い、翔が小さな手で京子の指を包み、はぁ、と息を吹きかけた。何度も何度も息を吹きかけた。

 自分の手を懸命に暖めようとする翔をぼんやりと見つめていた京子が、不意に翔の腕を掴み、その手に何かを握らせた。そして翔の頬に冷たく綺麗な指先を添えると、何かを堪えるかのように、そして何かを思い出そうとするかのように、月の薄明かりの中で目を細めた。

「本当は……」

 風がごうっと鳴った。

「……君を殺して私も死のうと思ったけれど」

 無数の黄色い花弁が風に舞う。

「でも君は、君の手はとても温かいから……」

 京子の頬を伝い零れた涙が、翔の頬を濡らした。

「……だから、赦してあげる」

 京子が静かに立ち上がるとバルコニーへ向かった。月明かりの中、バルコニーの細いフェンスの上に立つ京子の長い髪が踊るように風に乱れ、腕に巻きつき、その身体を不安定に揺らめかす。不意に振り返った京子が、鮮やかな笑みを口許に浮かべた。


 ワタシヲ忘レナイデ。


 暗い夜空へ京子が腕を伸ばし、冴え冴えとその身を照らす白く冷たい月の光をすくい取る。その背中に翼が生えた。

「京子さんッ」

 ドアを蹴破り、煉が居間に駆け込んできた。次の瞬間、京子の足がフェンスを蹴り、煉の手が虚しく空を掴んだ。



     5


 涙に濡れた冷たい枕から顔をあげ、翔が窓を開けた。外はまだ暗く、勿忘草の咲く庭だけがぼんやりと淡く闇に浮いている。

 思い出した。

 あの後、大騒ぎになり、大勢の大人が来て翔を見つけ、母が泣き、色々と聞かれ、方々に連れ回された挙句、ようやく家に帰ってきた。その騒ぎの間中、翔はずっとポケットの中の手を握りしめていた。ベッドに寝かされ周りに誰もいなくなってから、翔は握りしめていた手をそっと開いた。京子から託された透明な袋には、数粒の小さな種が入っていた。

 翔は種を庭の隅にこっそりと蒔いた。春が来て、青い花が咲いた。やがて夏になり、黄色い花が咲いた。青い花と黄色い花が咲く度に、翔は種を集め、行く先々に蒔いた。青い花と黄色い花は、明るい陽光の下、翔の小さな世界に広がり、咲き乱れた。

 夜が白々と明ける頃、翔はベッドから起き出すと、そっと家を出て公園に向かった。

 ようやく陽の差し始めた公園のベンチに独りぽつんと座った煉が、足元に咲き零れる勿忘草の花を見つめていた。砂利道を踏む足音に煉が顔を上げた。長い間、無言でお互いを見つめ合った。やがて煉が寂しそうに微笑み、ごめんね、と囁いた。

「ごめんね。こんなのフェアじゃないってわかってる。なのに騙すような真似までして、俺は無理矢理君に過去をみせた。知る必要のない、知らない方が良かったかもしれない過去を」煉が何かに耐えるように唇を噛んだ。「でも、俺だけじゃ無理で、だから、ホントに勝手なんだけど、もしかしたら、君が俺達を助けてくれるかもしれないって思ったんだ」

「……俺達って?」

「弟切草の精……鷹だよ」

 不意に耳元で強い風が吹き、ばさり、と羽音がした。煉が片腕を上げ、翔はそこに眼に見えない何か大きなモノが舞い降りるのを感じた。愛おしげに眼を細めた煉が、その透明なナニカをそっと撫でた。

「弟切草の鷹はいつも君を見ていた。あのヒトが育てた種を大切に咲かせ、花を愛でる君を」

 カーテンに映る大きな翼の影。風を切る羽音。眼に視えずとも自分を見つめるナニカの存在を、翔は幼い頃から感じていた。

「幼かった君は、ショックの余りあの日の記憶を失っていたけれど、でも、もし思い出したら、もしかしたら、もう一度あのヒトに会ってくれるんじゃないかと思って……これは賭だったんだ」

「でも会うって、まさか……」

 勿忘草の見せる夢の中で、京子は確かにマンションの十階から飛び降りたのだ。

「……まさか、生きてるの?」

「弟切草があのヒトの翼になってくれたから、辛うじて命だけは取り留めたんだ」

 両手を広げた京子の背に現れた大きな翼を思い出す。

「だけどヒトの肉体は余りにも重くて、弟切草だけでは支えきれなくて。あのヒトはあの日からずっと眠ったままなんだ」

「眠ったままって、それって、まさか、植物状態ってこと……?」

 無言で透明な鷹を撫でていた煉が、不意に真っ直ぐな眼差しを翔に向けた。

「でもそれも今日でお終いなんだ」

 ばさり、と大きな羽音と共に透明な鷹が早朝の空に舞い上がる。

「今日、あのヒトは目を覚ます」



「……なんで僕をあの人に会わせようと思ったの?」

 郊外の病院へ向かう坂道を登りながら翔が煉に尋ねた。

「そもそも、僕を殺そうとした女なんかに会うのは嫌だって、僕が断るとか思わなかったの? それともまさか、僕に家族代表としてあの人に謝れとか?」

「言ったでしょ、これは賭けだったって。俺達は別に君に謝って欲しいわけでも、あのヒトのやろうとしたことを許して貰いたいわけでもない」

 だけどね、と煉が哀しげに微笑んだ。

「俺の知っているあのヒトは、とても不幸で、哀しげで、背負った闇の重さに細い肩が砕けそうだったけど、でもその指先はとても優しかったから」

 煉が静かな溜息と共に蒼く澄んだ空を見上げた。その横顔を見てふと思う。この少年の眼には何が映っているのだろう。この少年は何を求め、何の為に、人と関わり合うのだろう。

 翔の視線に気付いた煉が眼にかかる髪を掻き上げ、少し疲れたように笑った。

「理解しろとは言わない。だけど、同情でも憐れみでもなく、ただ、あのヒトが此処に在ったことを忘れずにいてくれる誰かがいれば、あのヒトは救われるような気がするんだ。でもそれは俺の役目じゃない。あのヒトにとって、その誰かは君だと思う」

「……どうして?」

 病院の入り口で立ち止まった煉が翔を振り返った。

「君は、闇に喰われかけたあのヒトを一度救っているから」

 意識の無い重病人ばかりが眠る白い病棟は、唯ひたすらに静かだった。煉が、碓井と書かれたプレートの掛けられた病室のドアを開けた。鼻を突く消毒薬の臭いが漂う病室の窓辺には、数輪の青い花が活けられた小さな花瓶が置かれていた。

「君の父さん、毎週欠かさず花を持ってここに来てるんだよ」

 それは憐憫なのか。罪滅ぼしのつもりか。良心の呵責に耐えられないからか。自分の幸せが後ろめたいのか。偽善者、という言葉が胸を過る。

 あのね、と不意に煉が翔を振り返った。

「みんな苦しいんだよ。あの人達を責めるのは簡単だ。でもそれは責めていいって事にはならない」

 浅はかな自分の胸の内を見透かすような煉の言葉に恥ずかしさが込み上げ、思わず俯いた。

 やはりこのまま会わずに帰ろうと思った。しかしその意思に反し、何故か体の向きを変えることが出来なかった。何の迷いもなく真っ直ぐベッドに向かう煉と自分を繋ぐ視えない縄に引きずられるようにして、翔がベッドの脇に立った。そして、長い間迷ってから、恐る恐るそこに眠る人に目をやった。

 ――これは生きていると言えるのだろうか。十年という永い眠りのなか、無数の透明な管に身体を絡めとられ、自由を奪われ、白いシーツに包まれたその人は、唯そこに横たわり、微かに胸を上下させていた。

 煉が突如病室の窓を開け放った。五月の爽やかな風が吹き込み、揺れるカーテンに鷹の影が映る。と、京子の指先がぴくりと動き、やがてその白い瞼がうっすらと開いた。

「――勿忘草」

 焦点の合わない霞んだ瞳を見た瞬間、胸の奥底から激しい何かが込み上げてきて、翔は思わず京子の手を握った。乾いて痩せた手は驚くほど小さく、冷たく、しかしその指は繊細で、在りし日の嫋やかな美しさを失ってはいなかった。

 何かをこの人に伝えたいと思った。僕は、この人に何かを伝えなければならない。

「青い勿忘草、咲いてるよ。家の庭にも、近所の公園にも、学校の花壇にも、沢山、沢山咲いてるよ。だから――」

 白く細い指先を握る手が震える。伝わってくれ。祈るような気持ちでその耳許に口を近づけ、囁いた。

「見に行こう。早く元気になって、僕と一緒に――」

 終わりの無い夢を彷徨うように、ぼんやりと虚空に泳いでいた京子の眼が不意に翔の姿を捉えた。翔を見つめる京子の瞳に柔らかなひかりが瞬き、口許に幽かな微笑みが浮かんだ。

 突如、ばさりと羽音がして、翔は弟切草の精がその翼を広げるのを感じた。開いた窓から吹き込む透明な風に乗り、鷹が遥かな空へ舞い上がる。翼が風を切る鋭い音はどんどん遠く微かになり、やがて消えた。

 窓から差し込む穏やかな陽のひかりに京子の瞼がそっと閉じられ、そして二度と開くことはなかった。



    エピローグ


 夏、父と母が正式に籍を入れた。けれども翔の苗字はイマイのままだ。どうやら父が母の籍に入ったらしい。どちらにしろ、翔にはどうでもいいことだ。いくらウスイという名を置き去りにしても、その名を持ったまま逝ってしまったあの人を忘れ去ることは誰にも出来ない。

 あの人は、愛人の子を誘拐して殺すつもりだったと言ったけれど、でもそれは自分への言い訳で、本当は泣いていた僕を遊園地に連れて行ってくれようとしただけではないかと翔は思う。本妻と愛人の子という関係で、あり得ないと他人は言うかもしれないけれど、でも何度考えても翔の中の答えは同じだ。

 あの日、あの人は、一日だけ自分の子供のつもりで、僕を愛してくれたのだ。

 でもそれは、この風を染める弟切草が守る、僕とあの人だけの秘密――


     ❀


「おい、弟切草の花言葉知ってるか?」

 煉の肩に座った狐が、公園の花壇に咲き乱れる黄色い花に目を細めるようにして嗤った。

「弟切草の花言葉は、恨み、敵意、秘密、そして盲信――」

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