弟切草(前編)

秋の野にまだ枯残る青くすり 飼ふてふ鷹や さし羽なるらむ (藤原定家)



   プロローグ


「……本当は……」

 女の人が僕に何か囁いた。辺りは仄暗い闇に沈み、僕にはその人の顔がよく見えない。

「……でも君は……」

 ここはどこだろう。咽び泣く風の音にかき消され、その人の言葉は切れ切れにしか僕に届かない。

「……だから、赦してあげる」

 風の音が一際強くなり、誰かが何か叫んだ。


 そして、何か大切な事を忘れているという焦燥に駆られ、しかし何も思い出せないまま、僕は目を覚ます。



     1


 皐月晴れの朝。

 ベッドから起き出したカケルが軽く伸びをした。カーテンの隙間から零れる朝日が眩しい。今日からゴールデンウィークだ。特に予定は無いが、しかし今年から中学三年の翔は学校がしばらく休みというだけで何やら心が浮き立つ。高校受験の準備が本格的になる前の一休み、と言ったところか。

 ばさり、という羽音に振り返ると、カーテンに大きな鳥の影が映っている。

 立って窓を開ける。爽やかな五月の風が部屋に吹き込み、雲ひとつなく晴れ上がった青い空の下、雀達が庭で戯れている。その長閑な景色の何処にも大きな鳥の姿などはない。翔が肩を竦めた。気にしない。どうせいつものことだ。

 二階の窓から見下ろした庭は、まるでベイビーブルーの絨毯だ。よし、今年も綺麗に咲いた。眼下に咲き乱れる青い花に翔が満足気に微笑む。そうだ、今日は公園の花の様子を見に行こう。

 いつ頃からか。ある年の春、家の庭の片隅に淡いブルーの小さな花が咲いた。夏になると青い花は消え、代わりに鮮やかな黄色の花が咲いた。秋が過ぎる頃には黄色の花も消えた。

 こぼれた種が広がったのだろうか。翌年には庭のそこかしこで淡いブルーの花が咲き、それが終わる頃に黄色の花が顔を出した。以来、翔の家の庭では青と黄色の花が交互に咲き続けている。

 勿忘草わすれなぐさ弟切草おとぎりそう。春と夏を告げるこの小さな花達を翔は愛した。



 朝食を終えると早速自転車にまたがり、近所の公園へ向かう。

 案の定、公園には淡いブルーの花が花壇から溢れんばかりに咲き乱れていた。通称フラワー公園は、幾つかのベンチと煉瓦造りの花壇に囲まれた小さな公園だ。時折近所の人が暇に任せてチューリップやヒヤシンスの球根を植える程度で、花壇の手入れをする者もいない。だから翔が家の庭で採った勿忘草と弟切草の種を勝手に蒔いても、誰かに文句を言われることはなかった。

 自転車から降りた翔が丁寧に花壇の土を調べる。肥料は間に合っているようだが、土がかなり乾いている。ここ最近、雨が降っていないせいだろう。花に水をやろうと、翔が公園の隅に置いてあるホースを取りに行った。

 ホースを引っ張って戻ってくると、肩に猫ほどの大きさの不思議な動物を乗せた少年が公園のベンチに座り、咲き乱れる勿忘草を独り静かに眺めていた。

 見知らぬ少年の姿に翔が密かに顔をしかめた。別に隠しているわけではないが、しかし出来ることなら男子中学生がいそいそと花の世話をする姿など他人に見られたくはない。しばらく様子を窺ったが、少年は一向に立ち去る気配をみせなかった。仕方無い。諦めた翔が、少年から顔を背けるようにして花に水をやり始めた。

「綺麗だね、忘れな草」と不意に独り言のように少年が呟いた。

 翔が少し驚いて少年を振り返った。男の癖に花の名前を知っているとは……と自分の事は棚に上げ、思わず首を傾げる。

「あぁ、うん……」

 翔が曖昧に頷くと、少年が今度ははっきりと翔を見て微笑んだ。

「知ってる? 忘れな草の花言葉は『私を忘れないで』――ドイツの伝説でね、ドナウ川の畔に咲いていた青い花を恋人のために摘もうとした騎士が、水の深みにはまって溺れちゃったんだって。で、死ぬ前に川岸の恋人に摘んだ花を投げて、『Vergiss-mein-nicht!』僕を忘れないで、って叫んだんだって」

 翔が呆気に取られていると、少年がきゃははは、と笑った。

「恋人の手前カッコつけて騎士の癖に川で溺れて死んじゃうとか、ちょっとあり得ないよね」

 いやいや、小学生男子の癖にそんな話を知っているお前の方がちょっとあり得ないぞ。と、まるで翔の心の中の呟きが聞こえたかのように、少年が口の端を僅かに歪めてにやりと笑った。

「じゃあ、折角だからもうひとつ。こっちは本当の話」

 少年が愛おしげに目を細め、涼しげな空色の花を見つめた。

「忘れな草はその名の通り、花を見たヒトの心を憶え、決して忘れず、その花の内にとどめる」

 柔らかな曲線を描く頬に木洩れ陽がちらちらと踊り、風が艶やかな黒髪を乱す。ルノワールの絵のような柔らかな光と影の中、少年が翔を振り返り、口許にそうと見なければ気付かない程の微かな笑みを浮かべた。

「ここに咲く忘れな草を一輪枕の下に入れて眠ると、この花を見たヒトの遠い記憶が蘇る。そしてその中には、きっと君が忘れてしまったあの日の記憶もあるよ」

「……は?」

「騙されたと思って、一度試してみるといいよ」

 ベンチから立ち上がった少年が花壇から青い花を一輪手折り、翔の顔の前に突き出した。

「みたくない? 君の中で繰り返す、あの夢の続き――」

 それだけ言うと少年は踵を返し、唖然とした翔を後に残してあっという間に駆け去っていった。


    ❀


 夕食後は親子三人でデザートの果物を食べ、のんびりとテレビを観ながら雑談する。ホームドラマにでも出てきそうなありふれた日常のひとコマだ。翔は両親と過ごす、そんな何気無い時間が好きだった。

 翔はひとりっ子のせいか特に反抗期もなく、友達の家と比べても自分達親子は仲の良い方だと思う。翔の住んでいる家は母の実家だ。祖父は翔が生まれる前に亡くなったが、祖母は数年前に病気で亡くなるまで一緒に暮らしていた。翔が生まれてからも母は仕事を続けた為、翔はお祖母ちゃんっ子だった。

 祖母は翔には優しかったが、翔の父とは子供心にも何やら少し緊張感のある関係だったように思う。父は仕事が忙しく留守がちで、特に翔が幼い頃は家に帰って来ない日も珍しくなかった。しかし父は翔と母をとても大事にしてくれている。どんなに忙しい時でも決して翔や母の誕生日を忘れず、幼稚園や小学校の行事にも進んで参加してくれた。

 平凡だが、絵に描いたように小さく温かで幸せな家庭。それが自分達家族の姿であることが翔には嬉しく、誇らしく、しかしその当たり前の光景は何故かいつも不思議なほど翔の胸の内をざわめかせた。

 風呂から上がって自分の部屋に戻ってきた翔の目に、机に置きっ放しにされた一輪の勿忘草が飛び込んできた。可憐な空色の花をまじまじと眺め、昼間に公園で出会った少年の言葉を思い出す。

 確かに翔は昨夜もあの夢をみた。暗い部屋。激しい風の音。切れ切れに聞こえてくる声。以前に一度、この夢を母に話してみたことがある。翔の話を聞いた母は、疲れているのよ、と言って優しく微笑んだ。しかしその直後、翔は病院に連れていかれ、医者だかカウンセラーだかにあれこれと聞かれたあげく抗鬱剤を処方された。

 自分の中で繰り返す不可解な夢が、胸の底に幽かな不安を掻き立てないと言えば噓になるだろう。しかし、たかがそれだけの事で薬なんか飲まされて、全くワケがわからなかった。翔は至って普通の少年だ。イジメにあっているわけでも自殺願望があるわけでもない。勉強も運動も中の上。ただ同じ夢を繰り返しみるだけだ。しかしこの一件以来、翔はこの夢の事は誰にも話していない。

 それなのに何故、見知らぬ少年が夢のことを知っていたのだろうか。

「君の中で繰り返すあの夢……」と囁いた少年の妙に大人びた眼を思い浮かべる。少々気味が悪いが、しかしあの少年ははっきりと夢の内容を言い当てたわけではない。そもそも、繰り返し同じ夢をみることは別に珍しいことではないらしい。だから適当に思わせぶりなことを言っても、当てはまる人は意外に多いに違いない。おかしな少年のタチの悪い冗談だったのだろう。

 机の上の萎れかけた青い花をゴミ箱に捨てようとした時、不意に自分を見つめる少年の黒々と濡れた瞳を思い出した。口許に柔らかな笑みを浮かべた少年の眼は、全く笑っていなかった。まるでこちらの心を見透かすような、それでいて、とても真剣で、何かを訴えたくて、でもそれを必死で堪えているような眼差し――

 ひとつ大きく溜息をつくと勿忘草を枕の下に放り込んだ。ダメで元々。別に少女趣味などではない。


 そしてその夜、翔は見知らぬ女の夢をみた。



 《 夢 其の壱 ~ 京子 》


「――痛くて眠れないんです」

 京子が低い声で訴えた。

「頭痛ですか?」と医者が尋ねる。

「頭痛もですが、それより指先が痛くて……」

 京子が両手の指先を握りしめた。

 子供の頃から何か悲しいことがあると、痛くなるのは胸ではなく、指先だった。幼い頃、事故で両親を失った時、初めての子を流産した時、そしてもう二度と子供を産むことが出来ないと知った時。じっと俯いて泣くのを我慢する度に指先を襲う、鋭く痺れるような痛み。

 医者が白くなるほど握り締められた京子の指をそっとほどいた。

「我慢することはないんですよ。物理的にヒトの涙が涸れることはありませんが、でも、泣き疲れて、泣くのに飽きるまで泣いてもいいんですよ」

 医者の手は暖かく、声は優しく響き、しかし京子のなかに何も残すことはなく、それは廃墟に吹く風のようにただ虚ろに通り抜けてゆく。

「お薬は飲んでいますか?」

「……はい」

「では、緩い誘眠剤を出しておきましょう。美容と健康に良質な睡眠は欠かせませんからね」

 診察室の椅子から立ち上がった京子に医者が穏やかに微笑みかけた。

「ゆっくりでいいんですよ。何事も、焦る必要はありません」



 病院の近くで拾ったタクシーを家から少し離れたところで降りる。鬱病と診断されてから七年。ここ数年間、月にニ~三度病院に行く以外は家から出ることは滅多に無い。たまには外を歩くことも大切だと医者に言われ、病院の行き帰りには少しだけ歩くことにしている。

 初夏の陽射しが眩しい。日傘を差していても目の奥が痛くて眩暈がする。やはり家までタクシーを使えば良かった。余りの眩しさに耐えられず、瞑った瞼を手で覆った途端に何かに躓き、躰がよろめいた。

「あっ」と誰かが小さく叫ぶと倒れかかった京子を支えた。そしてそのまま京子を道に座らせ、背後の壁にもたれさせる。

「大丈夫?」と尋ねる声に京子が目を瞑ったまま頷いた。

「動かないで、ちょっと待っててね」

 ぱたぱたと軽い足音が遠ざかり、数分もしないうちに戻ってきた。ひやりと冷たいものが額と首筋にあてがわれる。動悸が治まるのを待ち、うっすらと目を開けると、道に散乱した京子のハンドバッグの中身を小学生くらいの少年が拾っていた。少年のペットだろうか。ふわふわした尻尾のオレンジ色の小さな犬のようなものが、溝に落ちた財布を見つけて咥え出し、意気揚々とそれを少年に渡す。手早く拾った物をバッグに突っ込んだ少年が京子を振り返り、白い歯をみせて笑った。

 転んだ拍子に軽く足を捻ったらしい。心配した少年が京子をマンションまで送ってくれた。

 京子は広々とした高級マンションの十階に住んでいる。煉という名のその少年は、京子がお礼に出したゼリーをとても美味しそうに食べた。この家で自分以外の人間が何かを口にするのを目にするのは久し振りだった。屈託の無い少年の笑顔にほっこりと胸の内が暖まる。もし自分に子供がいたら、あの子が死なずに生きていれば、こんな感じだったのだろうか。

「あら、煉くん、シャツのボタンがひとつ取れかかっているわ」

 煉がTシャツの上に羽織っていたシャツを京子が指差した。煉がシャツを引っ張ってボタンを見る。

「あぁ、ほんとだ」

「脱ぎなさい、直してあげるから」

 京子が立ってクローゼットを開け、いそいそと裁縫箱を取り出した。自分から誰かの為に何かをしたいと思うなんて、本当に久し振りだ。手に取った少年のシャツは草と陽の匂いがした。思わず笑みが零れた。

「どうしたの?」と煉が首を傾げる。

「ちょっとだけ、もし私に息子がいたらこんな感じかな、と思って……私は子供がいないから」

 シャツを繕う京子を黙って眺めていた煉がふと目を逸らして呟いた。

「……俺は母さんがいないよ」

 開いた窓から眩しそうに空を見上げる少年の艶やかな黒髪が風に靡(なび)く。その寂しくも優しげな風情に、ふと昔読んだ小説を思い出す。

「……母の無い子と子の無い母と、ね」

「弟切草、好きなの?」

 部屋に置かれた無数の鉢に咲き乱れる黄色い花を指差し、不意に煉が尋ねた。

「あら、男の子なのに花の名前なんてよく知っているわね」

「弟切草は別名青クスリ。薬草だからね、切り傷とか止血にいいんだよ」

「まぁ、そうなの? なら弟切草の花言葉は知ってる?」

 煉が無言で京子を見つめた。京子が口許にうっすらと笑みを浮かべ、部屋を埋め尽くす黄色い花を見渡した。

「――弟切草の花言葉は恨みと敵意」

 細く冷たい指先で風に揺れる花を一輪手折り、京子が柔らかな花弁に口を寄せる。

「弟切草の伝説でね、昔、晴頼という鷹匠がいて、どんな鷹の傷でもたちどころに治す薬草を知っていたの。晴頼はそれを秘密にしていたのに、弟が他の鷹匠にばらしてしまったんですって。怒った晴頼は弟を斬り殺し、その血飛沫で弟切草の葉には黒い斑紋が出来たの。弟は晴頼のライバルの鷹匠の娘と恋仲で、その娘のために兄を裏切ったのよ」

 信頼していた者に裏切られた怒りはどれ程のものであったか。恨みは敵意となり、敵意は破壊を招く。裏切った者のみならず、裏切られた者をも巻き込む一切の破滅――

「なら、弟切草の花言葉は哀しみだね」

 煉が弟切草の葉に浮かぶ黒い斑紋をそっと指先でなぞった。

「兄を裏切った弟の哀しみ、一時の激情に駆られて弟を手にかけた兄の哀しみ、恋人を失った娘の哀しみ。弟切草を見る度にその人達の胸に湧き上がったのは、決して恨みでも敵意でもなく、大切なヒトを失った哀しみだったと思うよ」

 俯いた少年の長い睫毛が頬に淡い影を落とす。その整った横顔を見つめていた京子がやがてひっそりと微笑み、「君はとても優しいのね」と呟いた。



 帰り際、少年はあどけない笑顔で京子を見上げ、また遊びに来てもいいかと尋ねた。幼さの残る少年の黒々と濡れた瞳を見つめ、「いつでもいらっしゃい」と答えた。人と会うのは億劫だが、この少年は別だ。この子のそばにいると、なんだか少しだけ身体が軽くなる気がした。

 少年が去った広いリビングルームが深い沈黙に沈む。やがて夕闇が部屋に忍び込み、夜が訪れる。暗いマンションの部屋で独り、京子は身動きひとつせずソファーに座り、咲き乱れる花の仄かなひかりを見つめていた。

 ……あの人は今日も遅い。

 昔からこうだったわけではない。両親を早くに失くした京子は暖かな家庭に憧れていた。君と幸せな家庭を築きたい、と言って京子にプロポーズした夫と、子供は沢山欲しいね、と笑いあった。それは誰にでも与えられるべきつましく穏やかな幸せ、ささやかな夢だった。幸せになりたかった。幸せになれる筈だった。

 それが永遠に叶わないと知った時、京子の中で何かが砕けた。涙は涸れることなく、指先の鋭い痛みが京子をさいなんだ。鬱病と診断され、家事も放棄して、唯ぼんやりと窓から空を眺めるだけの日々が過ぎてゆく。蒼い空は余りに遠く、世界は虚ろで、隣に立ち尽くす夫は京子を慰める言葉を持たなかった。そしてある日唐突に、別れてくれ、と夫は言った。

 宵闇に仄かに浮かぶ花の色に、心がざわめく。そしてふと考える。愛でる人が無くとも花は咲く。いつの日か、あの人が帰ってこなくなって、それでも私が独りでずっと待ち続けて、そしてそのまま死んでしまったら、花は私の骸を苗床として咲き続けるのだろうか。花は私を喰い、やがて私は花とひとつになる――

 しかしそれは今晩ではなさそうだ。

 玄関で鍵を回す音がした。

 ……広いマンションであの人を待つ私は独りぼっちだった。そしてあの人が帰ってくると、私は益々独りぼっちになる。

 何も言わず客用の寝室に入って行く夫の横顔に、京子がちらりと目をやった。



     2


 目が覚めると朝だった。

 やけに生々しい夢をみたせいか、全く休んだ気がしない。溜息と共にベッドから起き出し、冷たい水で顔を洗ってキッチンに行くと、ダイニングテーブルで父が新聞を広げていた。その横顔を見た途端、心臓がとくりと変な打ち方をした。

 ……昨夜、夢にみた京子という人の夫の、玄関の薄暗い明かりに浮かび上がった横顔が脳裏を過る。それは、翔の父のものだった。

 そんな馬鹿な。翔が慌てて頭を振った。あれはただの夢だ。おかしな少年の言葉を真に受けて夢を本気にするなんて、余りにもバカバカしい。

 翔に気付いた父が新聞から顔を上げた。

「おはよう、父さん」

「あぁ、おはよう」

 父の穏やかな微笑みを見つめ、波立つ胸の内を鎮める。

 そう、父さんは口数は少ないけど、いつも穏やかで、柔らかな微笑みを絶やさない。夢で見たような、あんな暗く荒んだ顔は絶対にしない。

 翔がキッチンの窓を開けた。爽やかな風が夢の残り香を一掃する。朝陽に濡れたように輝く水色の花を見渡し、ひとつ大きく深呼吸した。くだらない夢のことなんて忘れて、折角の休日を目一杯楽しもう。


 しかし遊び疲れて眠ったその夜、翔は自分の知らない父の夢をみた。



 《 夢 其の弐 ~ 翔の父 》


 USUIとローマ字で書かれた表札を横目で見ながら玄関の鍵を開ける。明かりひとつ点いていない家の冷たくよそよそしい空気が主人の帰りを出迎えた。赤の他人の家の方がまだマシなのではないかと思う。玄関の明かりを点けると、こちらに背を向け身動きひとつせず、花に囲まれて座る妻の姿が見えた。

 毎晩、どんなに遅くなろうとも妻は暗闇の中で自分の帰りを待つ。

 絶対に離婚も別居も承知しない、と妻は言った。もしあなたが帰ってこなくなったら、どんな手段を使ってでもあの女に報復してやる、と。

 もしいつか、夜遅く眠るためだけに家に帰ってきて玄関の明かりをつけた時、自分の帰りを待つ妻の姿がなかったら自分はどうするのだろう。自殺か失踪か、鬱病に苦しむ妻の最悪の事態を想像して、きっと自分は酷く取り乱すに違いない。そして、誰にも知られることのない心の奥底で、自分を繋ぐくびきの切れたことを密かに喜ぶに違いない。自身の内に潜む想念のおぞましさに、我ながらぞっとした。

 妻が鬱病と診断されてから七年。努力しなかったわけではない。ただ口下手な自分は妻を慰める言葉を持たず、彼女の悲しみの前に余りにも無力だった。彼女を幸せにすることは自分などには到底無理なのだ。破綻した結婚生活から逃げ出したいと思うのは、別に自分が殊更に酷い人間だからではない。人は皆、己を幸せにしてくれる人と、そして己が幸せに出来る人と一緒にいたいと願うものだ。己の無力だけを噛みしめながら生きたくはないと願う事は、人として赦されないことなのだろうか。それを願う自分は、唾棄すべき人間なのだろうか。

 妻を可哀相だと思う。憐れだと思う。そしてそれ以上に疎ましく思う。幾度洗っても消えることなく躰にまとわりつく汚臭のようなこの不幸と怨嗟から自由になりたいと願い、しかしそんな己が何にも増して疎ましかった。

 寝室に入り、財布の中の息子の写真を見つめる。あどけないその微笑みだけが、疲れ果て、硬くなった心を和らげた。


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