白木蓮(後編)
5
「ただいま~」
今週も一週間、バカ共相手に実によく働いた。疲れきってマンションに帰り、玄関のドアを開けた途端にふわりと甘い花の薫りに包まれる。
「おぉ、やっと帰ってきたか。遅かったではないか」
薄暗い廊下を微かに光りながら、親指姫が嬉しげに両手を広げてぱたぱたと駆け寄って来る。あぁ、今一瞬、一人暮らしのOLが猫や兎などの小汚い動物を飼いたがる気持ちが少しだけ解った。たとえ小さな虫ケラ一匹でも、何かが自分の帰りを待っていてくれるというのは中々心温まるものがある。
親指姫がわくわくした顔で、感慨に耽る菫のバッグを覗き込んだ。
「して今日の土産はなんだ? けーきか? ぷりんか?」
……たとえ餌が目的だったとしても。
自分の身体ほどもあるチョコレートケーキを満足気に頬張る親指姫を眺めつつ、赤ワインのボトルを開ける。菫は酒豪だ。ワインボトルの一本や二本では顔色ひとつ変わらない。忘年会のビール一杯で顔を赤くする女を心の底から馬鹿にしている。それが男なら言語道断、口を利く気にもなれない。
グラスになみなみと注がれたワインの深く鮮やかな色に、親指姫が目を丸くした。
「なんだソレは?! さては若返りの為の乙女の血か?! 菫、気持ちはわからんでもないが、しかし確かヒトの法では同族殺しは犯罪だぞ」
「……ワイン。お酒だよ。親指姫も飲む?」
お猪口に菫が注いでやったワインを恐る恐る口にした親指姫が、次の瞬間、喉を鳴らして一気にお猪口を飲み干した。
「中々美味いではないか。もっとつげ」
犬や猫などには酒類は禁物と聞いた気がするが、コレは大丈夫なのだろうか。しかしやはり酒は一人で飲むより気のおけない誰かと飲んだ方が美味しい。金曜日の夜、自分にとって気のおけない誰か、というのがこの虫の出来損ないというのもナンだが、そこは深く考えない事にする。
あっという間に一人と一匹でボトルを数本空け、流石の菫も顔が火照ってきた。バルコニーのガラス戸を少し開ける。もう四月も後半だ。夜風が火照った頬に気持ち良い。
かたり、とバルコニーで微かな物音がした。はっとしてガラス戸を振り返る。夜風に揺れるカーテンの隙間にちらりと人影が見えた気がして、どきりとした。
……まさか変質者だろうか? けれどもここはマンションの五階だ。バルコニーの外に足掛かりなどない筈だが、しかし油断は禁物。ワイングラスをテーブルにそっと置くと、何か武器になるモノはないかと辺りを見廻し、ソファーの横にあった鉄アレイを持ち上げた。よし、いざとなったらこれでブン殴れば──
「ん? どうした、菫? 今宵は月も美しい。腹の贅肉のことはしばし忘れて酒を愉しむが良いぞ」
虫が何か言っているが聞かなかったことにする。足音を忍ばせてガラス戸に近づいた菫が、一気にカーテンを引き開けた。
暗い夜のバルコニーには、驚いたように目を見張った少年が立っていた。
「あっ!」
菫の背後で突如親指姫が声を上げた。
「ハクッ!」
少年がいきなりガラス戸をこじ開けて部屋に飛び込んできた。
「逃げても無駄だよ、お前の居場所なんて匂いでバレバレなんだから」
クッションの隙間に隠れようとしていた親指姫を少年がつまみ出す。
「ぎゃーっ、痴漢! 人殺し!」
甲高い悲鳴を上げる親指姫に少年があきれた顔で溜息をついた。
「も~、お前こんなとこで何やってるんだよ? お前がいきなりいなくなって、みんな迷惑してんだぞ。お前ってヌシ株の自覚ゼロだろ?」
「えーっと、お取り込みのところ悪いけど、君、誰? 何者? 人間?」
「あぁ、突然お邪魔してごめんなさい。俺は煉って言います。この馬鹿を引き取りにきました」
親指姫を指先につまんだ不法侵入者が軽く頭を下げた。
「レン?」
流石に少し飲み過ぎたか。やや霞のかかった頭で考える。
「レンって、蓮根のレンかしら? 蓮根と言えばハスの花、ハスと言えば池よねぇ。つまり親指姫を攫いにきたヒキガエル?」
艶やかな黒髪と大きな瞳の少年をじろじろと見る。子供の歳などよく分からないが、精々十一~二歳といったところか。利発そうな、中々可愛い顔をしている。
「ヒキガエルって感じじゃないけど、でもモグラの王子様でもなさそうね」
少年が少し困ったような上目遣いでちらりと菫を見た。
「あ、レン君。今、私のことをアブナイヒトを見る目でみたね?」
「そ、そんなことないよ?」
菫の詰問調に少年が慌てて首を振る。
少年に捕まえられ、不貞腐れた顔で二人のやり取りを見ていた親指姫が、突如その指に噛みついた。
「いってぇーッ」
少年が手を振り回した拍子に宙に飛ばされた親指姫を菫が慌ててキャッチする。虫如きの心配をしたわけでは断じてない。ただ折角の金曜日の夜に、壁に激突して潰れた虫の後始末なんてしたくなかっただけだ。
噛まれた指を舐めながら、少年が親指姫に厳しい目を向けた。
「ハク、お前いい加減にしろよ。早く帰ろう。じいさんだって眠れないくらい心配してんだぞ? ただでさえアレなのにさ……」
手の中の親指姫が微かに震えている。菫がそっとその顔を覗き込むと、唇を噛んだ親指姫は、涙を溜めた目を一杯に見開いて少年を睨んでいた。
「えーっと、何かよくわかんないけど、ちょっと二人共落ち着こうよ──」
菫の手からするりと抜け出した親指姫が止める間も無くベッドルームへ逃げ込んだ。そしてそのまま、まだ硬い薔薇の蕾の中に隠れてしまった。
❀
湯気の立つマグカップを渡すと、黒髪の少年はどうも、と言って軽く頭を下げた。
「──つまり親指姫は家出した白木蓮の精で、君は知合いに頼まれて彼女を探していたというわけね」
菫に事情を説明し終えた少年が、少し疲れたような顔で頷いた。
「ハクってこの辺じゃ一番の古株でさ、そういうの、『ヌシ株』っていうんだけど、この辺りの樹が花を咲かせたり新芽を出す日や順番を決めたりする責任があるんだよ。それがさ、なんだかよくわかんないんだけど、花木の精達が今年は何日に花を咲かせるかって相談に行ったら、いきなり『ワラワは花なんぞ咲かせんっ、キィ~』とか叫んで行方不明になっちゃったんだって。それでみんな困っちゃってさ。それぞれ頃合いをみて適当に咲かせてもいいんだけど、なにしろハクってあの性格でしょ? ヌシ株に恨まれたりしても後が煩いと思って、みんな遠慮してるんだよ」
「ふーん」
今年は春が遅いとぼやいていた花屋の青年の言葉を思い出す。まさか我が家に棲みついた虫モドキが元凶だったとは。
「それは人騒がせと言うか、アイツならさもありなんと言うか。まぁ、うちはどうせ一人暮らしだし、親指姫の気が済むまでここに居させても構わないよ? 他の花には適当に咲いてもらってさ。木蓮の花なんか、一回くらい咲かなくても別にいいじゃない」
「残念ながら、アイツは白木蓮だからね。そういうわけにもいかないんだ」
「ん? 白木蓮だと何がダメなの?」
「白木蓮はまず花が咲いて、花が終わってから葉が出るんだ。病気ならまだしも、樹の精がわざと花を咲かせないなら葉は絶対に出ない。葉がなければいかにヌシ株でも夏を無事に越すことは出来ない」
「つまり光合成が出来なくって枯れちゃうってわけか。うーん、なるほどね」
先程の親指姫の顔に現れた口惜しさと苛立ち、何かに対する激しい怒りの表情を思い出す。そしてその中に微かに見え隠れする、遣る瀬無いような哀しみ──。
「……親指姫、なんで花を咲かせるのが嫌になっちゃったのかなぁ」
❀
「ほらっ、そっち行った!」
「えっ、どこ?」
「違う違う、あ、ほら足下!」
翌日の土曜日は朝から一日中、煉と二人で親指姫を捕まえようと家中を追いかけ回した。しかし親指姫はちょこまかとゴキブリの如く鉢植えの間を逃げまわり、花から花へと飛び移り、蕾に隠れ、生け捕りにするのはあまりに難しい。
「そうだ、ゴキブリスプレーでさ、殺さないけど凍らせて動きを止めるってのがあるんだけど、ちょっと試してみない?」
「だ、ダメだよ、そんなの! ハクは花の精なんだよ? 凍らせたりしたら十中八九死んじゃうよ!」
青褪めた煉がスプレーに手を伸ばしかけた菫を慌てて止める。そうか、良いアイデアだと思ったのだが。それにしても疲れた。ベッドルームの花の中に隠れている親指姫はしばらく放って置いて、煉とお茶を飲みつつ休憩がてらの作戦会議とする。
「捕まえても噛みついて逃げ出すし、紐で縛っても抜け出せちゃうし、中々手強いわね」
朝から十回以上親指姫に噛みつかれた煉が疲れた顔で頷くと、ずるずると力無い音を立ててジュースをストローで啜った。
「ねぇ、煉くん。あのね、昨晩から考えてるんだけど、そもそもなんで親指姫が花を咲かせたくないのか、まずそこを理解かつ解決しないと、単にあの子を捕まえても意味ないんじゃないかな?」
「う~ん」
しばらく何事か考えていた煉が、やがて溜息と共に顔を上げた。
「解決につながるかわかんないけど、散歩がてら行ってみる? ハクの樹がある所」
❀
二人で連れ立って、菫のマンションから歩いて三~四十分程の郊外に出た。見知らぬ小綺麗な施設に入っていく煉について歩きながら、菫が物珍しげにキョロキョロと辺りを見廻す。
一体何の施設なのだろう。柔らかな曲線を描く中々モダンで清潔な建物。その周囲の花壇の黒土は丁寧に耕され、広々とした庭を大小様々な樹々が囲み、奥の方はちょっとした野菜畑と雑木林になっているようだ。庭を囲む樹々の中で、一際大きな樹の前に煉が立ち止まった。
「これがハクの憑いている白木蓮」
樹高十五~六メートルはあろうかと思われる見事な枝振りのその樹には、花どころか一枚の葉すら無い。もう四月も終わりに近いというのに寒々しいばかりだ。よくよく見れば、花壇や周りの樹々も、葉こそついているものの、花を咲かせているものは殆ど無い。
「あれま、煉ちゃん、遊びに来たんか? こっち来んさい、お煎餅あるで」
小柄で優しい風情の老女が白木蓮の前に立つ煉を見つけ、嬉しげに声をかけてきた。振り返った煉が人懐っこい笑顔を老女に向ける。
「お清ばあちゃん、元気? 膝の具合どう?」
「お陰さんで、煉ちゃんの持って来てくれた薬がよう効いたで」
「よかった。いつでも言ってよ、また持って来るからさ」
「おや、誰の孫かと思えば煉君か。元気にしてたかい?」
「あれあれ、煉くんじゃあないの。昨日の占いでイイ人に逢えるって吉兆が出たのは、あんたの事だったのね」
次々と老人が顔を覗かせ、嬉しげに少年の周りに集まってくる。煉が朗らかに質問に答え、一人一人の健康を気遣い、何か冗談を言って皆を笑わせる様子を、少し離れたところから菫はやや呆気に取られて眺めた。なんだろう、この少年は何かに似ている。小さな体とよく響く笑い声、そして黒々と濡れた瞳が何故かとても懐かしい──
チリリリリ、と突如高く澄んだ鳥の声が晴れた空に響いた。
「
「え? なあに?」
不思議そうに振り返った少年に構わず、菫が辺りを見廻す。
あの雑木林の近くにいるのだろうか。昔、アメリカに住んでいた時によく裏庭に遊びに来た小鳥。小さく愛らしい姿に似合わぬ、大きくハリのある歌声をもった懐かしいあの鳥。あの鳥は日本ではなんて呼ばれていたんだっけ……?
「おう、なんだ、じじばば共が騒がしいと思ったら、煉坊か」
がっしりした体格の江戸前風の老人がのしのしと歩いてくると、菫に目を遣り、ほほう、と感心したような声を上げた。
「なんだ煉坊、珍しいじゃあねえか。そんな別嬪さん連れて、お前さんも中々隅に置けねぇな」
柄にもなくちょっと頬を赤らめ、慌ててお辞儀する菫を老人がしみじみと眺める。
「う~む、掃き溜めに鶴とはよく言ったもんだ。煉坊のお袋さんかい?」
「ち、違いますっ!」
お姉さんならまだしも、お袋さんとは無礼千万。喜んで損した。
菫の荒い鼻息に、煉が慌ててとりなす。
「も~、こんな若い母親なんているわけないでしょ。松田のおっちゃんは相変わらずだな~。ほんと、おっちゃんの口は災いの元だよ」
「そうかい、おかしいな。目元が煉坊に似てると思ったんだがな」
おのれ、まだ言うか。
「おっちゃんは眼が二つあれば何でも似てると思うんじゃないの? そんなことよりさ、山瀬のじいさんの具合どう?」
「山瀬のじいさんか」松田老人が俄かに表情を曇らせた。「いいとは言えんな。まぁ、じいさんもあの性格だから、弱音ひとつ吐かずに相変わらず
「うん、そのつもり」と煉が柔らかに微笑みながら頷いた。
バリアフリーの造り。老人の間に時々見かける若い職員風の人達。少数だが白衣を着た人も見かける。そして誰しもが煉と満面の笑みで挨拶を交わす。清潔で落ち着いた色調の建物の中を少年について歩きながら、菫が色々と憶測していると、煉が振り返って笑った。
「びっくりした? ここって、老人ホーム兼ホスピスみたいな所でさ、時々遊びに来るんだ」
なるほど。しかし今時の子供の癖に老人ホームが遊び場とは、煉くん、キミやっぱりちょっと変わってるね。
煉が山瀬と書かれたプレートの掛かった部屋の前で足を止めた。半開きのドアを軽くノックすると、返事を待たずに広々とした個室に入っていく。ベッドに起き上がり、開け放たれた窓から庭を見ていた老人が振り返った。暖かそうな室内着に包まれた老人の胸は驚く程薄く、傍目にもその顔色が冴えないのが一目でわかった。
「おや、煉くんか。どうした、こんな時間に珍しいじゃないか」
「じいさんの日課の庭検診、今日は俺がお供させて頂こうと思ってさ」
煉の言葉に嬉しげに頷いた老人が、「で、そちらの方はどなたかな?」と菫に穏やかな目を向けた。見知らぬ人の部屋に勝手に入るのも躊躇われ、ドアの外に立ち止まっていた菫が老人に会釈する。
「菫さん。俺の友達がちょっと色々とお世話になっててさ。樹に興味があるって言うから、散歩がてら付き合って貰ったの」
「菫さんか。可憐な、実に良い名前ですな」と言って、老人が微笑んだ。なんて暖かく、優しく笑う人なのだろうと思った。
「山瀬のじいさんは、樹のお医者なんだよ」
麗らかな春の陽射しの中、煉の押す車椅子に乗った老人が、時々咳き込みつつも、庭の樹を一本一本丁寧に診てまわる。老人が咳き込む度に煉は車椅子を停め、その背中を優しくさすってやる。煉が最後に白木蓮の前で車椅子を停めると、老人は長い間無言で高い樹の梢を見つめ、やがてぽつりと呟いた。
「……おらぬな」
「え?」
「樹の命の中心に在るべきモノ。目に見えずとも確かに存在する、樹の魂とでも言うか、何かそういうモノが、この樹にはおらんのです。それも最近まで在ったモノがある日突然消えてしまった。この樹は病気でもなく、生きてはいますが、まるで魂の抜け殻のようでしてな。花が咲かぬのも恐らくそのせいでしょう」
感心のあまり、思わずうーんと唸ってしまう。流石、樹のお医者様というだけのことはある。家出娘の事は全てお見通しという訳か。
「ではあの、その樹の精というか魂みたいなモノが、なんでいなくなってしまったのかはご存知ですか?」
「さぁ……何処かへ遊びにいってしまったのか、何処ぞで迷子になっているのか」
老人が樹を見上げて穏やかに微笑んだ。
「でも私は、この樹の魂が、いつか必ず此処を想い出し、花を咲かせに戻ってきてくれると信じていますよ」
……だと良いんだけど。自宅のマンションの草花の隙間に隠れて出てこようとしない親指姫の、何やら怒りに燃えた眼を思い出し、菫が再びうーんと唸った。
「白木蓮が咲いた時には、また是非お越し下さい」
煉の助けを借りてベッドに戻った老人が菫に微笑みかけた。
「ありがとうございます。またお話を聞かせて下さい」
この人にまた会いたい。この温かな微笑みを見たい。不意に強く願うような気持ちが込み上げ、菫が深々と頭を下げた。
「──惜しと思ふ 心は糸によられなむ 散る花ごとにぬきてとどめむ」
「は?」
首を傾げた菫を老人が目を細めるようにして見つめた。目尻に刻まれた皺が柔らかな曲線を描く。
「散ってゆく花を詠んだ歌ですよ。散る花を惜しむ心で糸をつくり、それで花を繋ぎとめることができたら良いのに、ってね。昔の人は風流ですな。まぁ私は、花は咲いても散っても良いものだと思うのですが。花も人も、自然のままに在るからこそ美しい」
老人がその優しい眼差しを窓から見える白木蓮の樹に向けた。
「私はもう十数年来あの樹の花を見ています。もし貴女がいつの日かあの樹に咲く白い花を見ることがあれば、それは私が見てきた景色と同じで、だから私達は、時を超えて繋がっているのだと思いませんか」
いやあ、サスガ山瀬のじいさん、良いこと言うねぇ、などと松田老人に冷やかされつつ握った老人の大きな掌は、節くれ立ち、多くの皺を刻み、まるで風雪に耐えた古木の幹のように、ごつごつと温かだった。
❀
「──ハクは、ハクのようなモノ達は、長い刻の中で、数多くのヒトの生死を目にし、しかしそれに心を動かされることはない」
マンションへ帰る道すがら、小石を蹴りながら歩いていた煉がぽつりと呟いた。
「ずっと前に俺にこう言った奴がいた。『ヒトは我等を視ず、我等の存在を感じようともせず、此の世の全てはヒトの為だけに在ると思うておる。何故我等がそのようなモノ達の生死に心を煩わせねばならぬのか』」
菫がちらりと煉の横顔に目をやった。葛藤、苛立ち、諦め、哀しみ、そして不思議なほど深い慈しみを湛えた眼で煉が微笑んだ。
「本当、俺もそう思うよ」
この子は一体何歳なのだろう。まだほんの幼い子供にも、光の加減では百歳を超えた老人にも見える。
「近所の樹の精達が言ってたんだけど、ハクは毎年最初に花を咲かせて、他の木蓮が散ってしまっても、いつも一番最後まで頑張ってたんだって。そんな長い間花を咲かせるのって、すごく樹に負担がかかるのにね」
「山瀬さんは親指姫のことが見えていたのかしら?」
「俺も本当のところはわかんないけど、多分視えてなかったんじゃないかな。でもね、たとえ目に映らなくても、ナニカの存在を感じたり、それを大切に思ったりすることは出来るんだよ」
白木蓮の精と老人は、姿が見えずとも心を通わせていたのだろうか。少し羨ましいと思う。自分は隣に立つ者とまともに話すことでさえ難しいのに、目に視えぬモノの存在など考えてみたこともなかった。身寄りの無い老人よりも、私のほうが余程独りぼっちみたいな気がする。
「親指姫が花を咲かせたくないことと、山瀬さんは関係していると思う?」
「多分ね。まぁ、ハクを連れ戻せばハッキリするんじゃないかな」
「そのためには、まずアイツをどうやって捕まえるか、それが問題ね」
家に帰った途端にまたあの鬼ごっこが始まるかと思うと流石にげんなりする。
「うーん、仕方ないなぁ。本当はアレ、やりたくなかったんだけど。面倒な奴だなぁ」
煉が肩を揉みつつ溜息をついた。
「菫さん、マンションに着いたら、白い紙とペン貸してくれる?」
親指姫がベッドルームに隠れていることを確かめると、渡されたメモ帳に煉がさらさらと不思議な模様のようなものを描いた。そして似たようなものを五枚作ると、ダイニングテーブルの四隅に一枚ずつその紙を置き、紙を隠すようにその上に鉢植えを載せていく。最後の一枚をテーブルの中心に置いた煉が菫に訊ねた。
「なんか、花でも食べ物でもいいんだけど、ハクの好物知ってる?」
「そうねぇ、親指姫の最近のマイブームはコンビニのプリンなんだけど、ワインも気に入ってたみたいよ。アイツ、可愛い顔して結構イケるクチよ」
「……物の怪や精霊って呑んべえが多いんだよね。俺のまわり、そんなヤツラばっかだよ」
煉に頼まれて赤ワインのボトルを開け、スープ皿に注ぐとテーブルの紙の上に置いた。
「じゃあ、俺はちょっとソファーでのんびりしてるんで、菫さんも何か好きな事しててよ。ハクが出て来ても無視して気付かないフリしてね」
よく解らないが、あの紙に何か仕掛けがあるのだろう。残りのワインを飲みつつ、キッチンの掃除でもしながらテーブルを見張ることにする。
ワインの匂いに惹かれたのか。半時間もしないうちに、ベッドルームから親指姫が抜き足差し足、足音を殺すようにして現れた。ソファーに寝そべる煉をちらりと見る。本当に寝てしまったのか、寝たふりか。煉は目を瞑ったままぴくりとも動かない。菫が戸棚の陰に隠れて見ていると、親指姫はするするとダイニングテーブルの足を登り、ワインの入ったスープ皿に用心深く近付いた。そしてもう一度煉をじっと見つめ、煉が動かぬことを確かめると、そっとスープ皿の端に口を付けた。その途端。
バチバチと激しい音と共に青白い火花が散り、何かが親指姫を捕えた。逃げる間も無く静電気で出来た檻のようなものに閉じ込められ、親指姫が憤怒の表情でキリキリと歯軋りしながら煉を振り返った。
「おぉ、大成功」
にやりと笑いながらソファーから起き上がった煉に向かって、怒りで顔を真っ赤にした親指姫が罵声を浴びせる。
「くそっ! 卑怯者めっ、図ったなっ」
「ハクが悪いんだよ。ちょろちょろ逃げまわるからさ。俺だって出来ればこんな事したくなかったのに」
「凄ーい、なにこれ?!」
菫が猛る親指姫を捕えた檻を興味津々に覗き込む。
「陰陽術の一種。俺、こーゆーの苦手でさ、失敗する事の方が多くて危ないから、なるだけ使いたくなかったんだけどね。俺の兄貴はコレ系が得意だったんだけど」
「ふーん、失敗するとどうなるの?」
「燃えちゃうの」
「……紙が?」
「いや、術が失敗すると、俺の場合、捕まえようとしたモノがケシズミになっちゃうんだよね」
「…………」
煉くん、ソレってゴキブリ凍結スプレーより余程殺傷力が高いのでは?
檻の中で怒り狂う親指姫を満足気に眺めていた煉が、不意に真顔になるとバルコニーを振り返った。バルコニーの手摺に数羽の雀がとまり囀っている。雀たちは煉がガラス戸を開けても逃げず、まるで煉に何か報告でもする様にひとしきり囀り、やがて飛び去っていった。
暗い顔で足早に戻ってきた煉が親指姫の入った静電気の檻を掴んだ。
「ごめん、菫さん、俺、これからもう一度ホームに行かなくちゃ」
「え? 今から? もう夕方だよ?」
「うん、だけど……」
「……もしかして、山瀬さん?」
菫から目を逸らせ、無言で玄関に向かった煉の肩を咄嗟に掴んだ。
「待って、私も行かせて! 自転車で行こう。二人乗りで行けばすぐだから!」
「え、う、でも今日だって一日中付き合わせちゃったのに、これ以上煩わせたら悪いし……」
「煉くん、キミ今、こんなオバサンの漕ぐ自転車より俺の方が速い、とか思ったでしょ」
煉がぎくりと肩を竦ませた。
「え、そ、そんなことナイヨ……」
「煉くん、目が泳いでるよ。でもだーいじょうぶ、任せなさい。自慢じゃないけど私のバイクはイタリア製ロードバイクよ。間違ってもママチャリなんかじゃないんだから!」
6
「放せっ、放さんかっ! 馬鹿共め、放さんと七代祟るぞコンチクショーッ」
夕暮れの街を疾走するロードバイクのスピードに怯えたのか、しばらくは煉のポケットの中で大人しくしていた親指姫だが、老人ホームに到着した途端に再び煉と菫を大声で罵り始めた。しかし煉は猛り狂う親指姫に構わず、真っ直ぐに白木蓮の樹に向かい、その下に立つと正面に見える窓を指差した。
「ハク。山瀬のじいさんは、もうすぐ逝ってしまう。おそらく陽が沈む頃には」
親指姫がぴたりと口を噤み、ぎらぎらと燃えるような激しい眼付きで煉を睨みつけた。
「親指姫……山瀬さん、待ってるよ」
菫が親指姫の目の高さに腰を屈めると、煉の手から親指姫を受け取った。
「親指姫が帰ってきて花を咲かせてくれるの、ずっと待ってるんだよ。親指姫さ、山瀬さんのことが好きなんでしょう? 何があったのか知らないけど、でもこれが最期なのに、今、花を見せてあげないと、絶対、絶対後悔するよ──」
「うるさいッ」
親指姫が甲高い悲鳴のような叫び声をあげた。
「お前に何がわかる?! ヒトに何がわかると言うのだ?! 誰が花なんぞ咲かせるものかッ」
クスクスクス。不意に風の中に微かな嗤い声が響いた。
……ハクモクレンハ聞イチャッタンダヨ……
菫が辺りを見回した。忍び寄る淡い宵闇の中、幽かに空気がざわめき、何処からともなく無数の声が響いてくる。
ハクモクレンハ花ヲ咲カセ、アノヒトハ花ヲミル。
花ハ咲キ、花ハ散ル。
繰返シ、繰返シ、花ハ咲キ、花ハ散ル。
アノヒトハ咳ヲスル。
何度モ何度モ咳ヲスル。
何度モ何度モ咳ヲシテ、アル日、アノヒトノ咳ハ、散ッタ花ヲ紅ク染メタヨ──
「ウルサイッ! 黙れっ」
顔を怒りで真っ赤にして喚く親指姫を嘲笑うかのように、クスクスと、諦めと哀しみの混ざった嗤い声が夕暮れの冷たい風に満ちる。
夏ガ来テ、秋ガ更ケ、冬ガ通リ過ギテイッタヨ。
アノヒトハ、花ヲ待ッテイタヨ。
デモネ、ハクモクレンハ聞イチャッタンダヨ。
白イ服ノヒトハ言ッタヨ。
カワイソウニ、アノヒトハ、キット今年ノ花ガ散ル頃ニ──
悲鳴に似た激しい風が木蓮の枝を打ち鳴らし、囁き声を掻き消した。
「……ワラワはヒトなど嫌いだ」
夕闇に霞む藍色の空を睨み、親指姫が震える声で呟いた。
「大嫌いだから、花なんか咲かせてやらぬ。ヒトなんぞ、苦しみ、苦しんで、ずっとずっと生きればいい」
花は咲かなければ散ることもない。
散らなければ、私ガ散リサエシナケレバ、キット、アノヒトハ永遠ニ生キル──
──あぁ、そうか。
込み上げる切なさに胸が締め付けられ、菫は思わず目を閉じた。
なんて愚かなのだろう。ヒトでないモノの願いは。愚かで、浅はかで、そしてなんて愛おしい──
「ハクモクレン」
煉がそっと樹の精の名を呼んだ。深く、優しい瞳が菫の手の中で震える小さな精を見つめる。
「大丈夫だよ、ハク。命は廻り、巡って、いつか君はまた逢える。新しい命を持った懐かしいヒトに」
嘘をつけ、と呟いた小さな花の精が、その大きな瞳に溜まった涙が零れないように精一杯目を見開き、きりきりと奥歯を噛み締め煉を睨みつけた。
「ヒトは前世のことなど憶えてはおられぬ。ヒトも獣も皆、命の廻りのうちに全てを忘れてしまう。それが生きて死ぬということだ」
「忘れたりなんかしない。どんなに遠く離れていても、君の大切なヒトはいつか必ず君を想い出してくれるから、だから、あのヒトが君を見つけられるように、そして君があのヒトを見つけるための印となるように、君の大切なヒトの魂にたっぷりと君の薫りをつけておくといい」
遥かな刻を超えて、いつか必ずくる、また逢う日のために。そう言って微笑む少年の横顔に、菫が物問いたげな視線を投げかけた。
──本当にそうだろうか。本当にそんな日は来るのだろうか。今を誠実に生きることさえ難しい私達に、未来の約束はあまりに遠い。
あぁ、でも、叶うものなら信じたい。小さな花の精のために。優しい老人のために。此の世に生きる全てのモノのために。そして私自身のために。
私達は、いつか、また逢う。
私は、遠い未来で、懐かしいヒトを待つ。
だから、どうか──
長い間無言で老人の眠る窓を見つめていた親指姫が不意に天を仰ぎ、高い樹の梢に向かって両手を伸ばした。
ダカラ、ドウカ、私ヲ、忘レナイデ。
親指姫は最後に一度だけ菫を振り返った。黒々と濡れた瞳は菫を通り抜け、遥かな刻を見つめ、やがてすっと閉じられた。
と、みるみるうちに木蓮の枝先が伸び、ふくらみ、天に向けて輝くばかりに白い花が咲き誇った。馥郁とした薫りに満ちた夕暮れの淡い光の中、白木蓮に続くようにして辺りの草木が一斉に花を咲かせた。
親指姫の涙が菫の手に零れ落ち、その姿が霞のように夕闇に溶け、消えた。
エピローグ
あの日、霞のように親指姫が消えて以来、菫は幾度も白木蓮の樹を訪れた。しかしどんなに目を凝らしても、菫には二度と親指姫を視ることは出来なかった。
「アイツ……」
白木蓮の樹を見上げ、菫が鋭く舌打ちする。
我儘かつ高飛車な花の精は、最初から最後まで童話の親指姫そのものだった。なぜ童話では親指姫のお母さんのその後の話がないのか、納得ゆかぬ。おまけにお前のために買い置きしてあったプリンやらケーキやらのせいで、夏へのダイエットが台無しだ。そもそも三十路に果てしなく近い女が夜中に独りで甘いモノを食べる姿など、余りにも寒々しく虚しいではないか。
「あ、木蓮、咲いたんですね!」
嬉しそうな声に振り返ると、花屋の青年が満開の木蓮を見上げていた。菫と目が合うと青年が恥ずかしそうに微笑んで肩を竦めた。
「ここ、うちのお得意さんなんですよ。時々余った球根や苗なんかを植えさせてもらってるんです」
青年が再び樹を見上げる。
「この木蓮、毎年すごく綺麗に咲くんでいつも楽しみにしてるんですよ。今年はやけに遅かったけど、でもその分余計に見事ですね。待ってた甲斐があったなぁ」
優しげな青年の横顔を眺めているうちに、なんだかほっこりと胸が温かくなり、自然と口許に笑みが零れた。待たせてごめんね、と心の内に囁く。この樹の精は、ずっとウチに隠れてたのよ。
「そう言えば、野苺とレモンは元気にやってますか?」
ヒトの安否を気遣うような青年の口調に思わず笑ってしまう。はい、元気です。親指姫に育てられた苺はとても大きくて良い香りの実をたっぷりとつけてくれました。
あぁ、でもこれからはそう上手くは行かないのだ。ジャングル状態の我が家を思い出し、やや気分が薄暗くなる。親指姫がいなくなってはや十日が経つ。今のところは彼女の残り香のせいか皆元気そうだが、この先あの植物達は一体どうなってしまうのだろう……。
「あの、どうかしましたか?」
マンションに溢れる植物達の腐乱死体を想像し、暗い顔で物思いに耽る菫を青年が気遣わしげに見遣った。我に返って隣に立つ青年の顔を見上げた途端、菫の中で何かがカチリと音を立てて繋がった。
「……苺、すごくいい香りの実が一杯出来ましたよ」
「え? もう実がなってるんですか? 凄いなぁ」
「もうホント、すごく一杯なってて、一人じゃ食べ切れないくらいで、でもあんなに新鮮で美味しいものをジャムとかにするのもなんだか勿体無くって……それでですね」
菫がコホコホと二度ばかり咳をした。特に意味は無い。ただ少し口の中が乾いているだけだ。
「だから、もしよろしかったら、苺、食べにいらっしゃいませんか?」
楽しげに白い花を見上げていた青年が驚いたように菫を振り返り、目を瞠った。
「え、食べにって……え? あ、あの、いいんですか……?」
「はい。それでもし御迷惑でなければ、植物の育て方とか色々と教えて頂きたいんですけど」
家に世話に来てくれればもっといい。できれば毎日。これからずっと。
木蓮に薫る風の中に、親指姫の笑い声を聞いたような気がした。
満開の白い花のあいだを吹いて、春の風が透きとおる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます