白木蓮(中編)

     3


 翌朝、目覚めれば昨日のことは全て夢で親指姫など消えているのでは……との淡い期待を裏切り、親指姫はバルコニーのチューリップの上で機嫌良さげに日向ぼっこしていた。そのまま大学に行き、上の空で仕事をして、皆に不思議がられつつ珍しく定時にマンションに帰った。

 部屋の電気をつけると、ダイニングテーブルの上に泥にまみれた親指姫が実に不機嫌な顔で座っている。菫のお気に入りのテーブルクロスも泥だらけだ。

「な、ちょっと、どうしたのよ?」

「……どうしたもこうしたも無い。化け猫に襲われた」

「は?」

 親指姫の次は化け猫か、いい加減にしてくれ、と思いつつバルコニーに目をやれば、無惨に散乱したチューリップの鉢の間にお隣の猫が坐ってこちらを覗き込んでいる。テーブルの上に親指姫を見つけた途端、猫が興奮したようにニャーニャーと鳴きながら尻尾の先をぱたぱたと動かした。

「あー、すっかり狩猟本能刺激されてるね。あんたのこと虫かネズミとでも思ったんじゃないの?」

 プライドを傷付けられたのか、親指姫が涙目でぷるぷる震えながら猫を睨む。

「ぶ、無礼な奴め。菫、猫イラズを持ってこい。成敗してくれる!」

 冗談じゃない。お隣の猫を毒殺なんかしようものならここにいられなくなる。それどころか下手すれば警察沙汰ではないか。私を犯罪者にするつもりか。

『マンションで独り暮らしの三十代女性、近所の猫を虐待・毒殺』というニュースの見出しを想像してぞっとする。いや待て、今ならまだギリギリ二十代か。

「も~、やめてよ。お隣に頼んで猫がこっちに来ないようにして貰うからさ。機嫌直してお風呂にでも入りなよ」

 菫の用意してやったスープ皿の風呂にもそもそと浸かっている親指姫だが、何やら元気がない。気のせいか、昨日程香りもしないようだ。

「親指姫、なんか元気ないじゃないの。猫に狩られそうになったのがそんなにショックだったの?」

「……ワラワは花木の神だ。植物が無ければ腹が減る」

 面倒な奴だ。

「仕方無いわね。この時間ならまだ花屋が開いてるはずだから、なんか買ってきてあげる。なんかリクエストあるの?」

「ふむ、樫や杉の大木など、あまり大きなモノは駄目だ。大きいモノは大抵すでに主が付いているからな、縄張り問題に発展するとややこしい」

「心配しなくてもウチにそんなスペース無いから」

「水仙、鈴蘭、イヌゼリ、チョウセンアサガオ、トリカブト──」

 こいつ、まだ毒殺を諦めてないのか。菫が溜息をついた。

「こっちで適当に選んでくるわ」

 湯浴み中の親指姫の不満気なブーイングを後にマンションを出た。


     ❀


 街角の花屋に行くと、件の青年が外に飾ってあった鉢植えを店の中に運び入れていた。

「あのう、すみません、花が欲しいんですけど、もう閉店ですか?」

 顔を上げた青年が、菫を見ると慌ててエプロンで手を拭いた。

「いえいえいえ、まだ全然大丈夫です。何かお探しですか?」

「そうですね……」

 所狭しと草花の鉢が並べられた店内を見渡す。実家の母はよく庭でごそごそと土いじりなどしていたが、菫にそんな暇な趣味はない。花など、チューリップとヒマワリくらいしか思い付かない。しかしヒマワリはマンションのベランダには大きすぎるし、何が出てくるか分からないチューリップなど二度とごめんだ。

「あの……切花と鉢植え、どちらをお求めですか?」

菫が余程困っているように見えたのだろうか。青年が遠慮勝ちにアドバイスしてくれる。

「あぁ、多分鉢植えの方が」

「贈り物ですか? ご自宅用ですか?」

「自宅用です」

 考えてみても仕方が無い。花などこの男に任せるか。そもそも全ての事の発端はコイツにある。

「あの、私、花とかってよくわからないんで、適当に選んで頂けますか? どんな花でもいいんですが、毒の無いのをお願いします」

「……毒、ですか?」

 あ、青年ちょっと引いてるな。菫がにっこりと微笑んだ。

「はい、家に悪食の猫がいるんで」

「あぁ、なるほど」

 納得したように頷いた青年が、育てやすそうな花を幾つか教えてくれた。その中から金魚草とヒヤシンスの苗を選ぶ。ふと思いつき、花屋の隅に置かれていたクロッカスの球根と小さなスコップをひとつ買い求めた。クロッカスの球根はチューリップが入っていた鉢に植えればよい。

「あの、球根とかは秋か、遅くとも冬までに植えないと多分ダメなんじゃないかと……」

 青年が言いにくそうに忠告してくれた。そうなのか。知らなかった。少し考えてからやっぱり買うことにする。なんせ我が家には自称花木の神がいる。教育テレビの早送りビデオ並のスピードでチューリップを育てられるのだから、これくらい大丈夫だろう。

「あぁ、そういえばチューリップは育ってますか?」

 青年に聞かれて思わずギクリとする。しかし嘘をついても仕方無い。

「ごめんなさい。猫が鉢を引っくり返してしまって。このクロッカスはあの鉢に植えるつもりなんです」

「あぁ、そうだったんですか。それは仕方無いですよね。じゃあ、クロッカスはサービスしておきます」

 青年が屈託無い笑顔を見せる。ふむ、中々良い笑顔だ。

「でも少し残念だな。すごく綺麗な花だから、是非見て欲しかったんですけど」

 少し寂しげな青年の笑顔に、何やら柄にもなく慌ててしまった。

「あ、あの、でも花は見ました。白とピンクで凄く可愛かったです」

 可愛くないモノのオマケ付きだったが。

「えっ、花って、もう咲いたんですか?」

「え? あ、ええ、なんかバルコニーの日当たりが良かったみたいで」

 やはり芽が出て二日程で花が咲くというのは、世間一般の常識にもそぐわないらしい。不思議そうに首を傾げた青年を笑って誤魔化し、慌てて花屋を出る。

 マンションへ帰り、買ってきた苗を見せた途端に親指姫は元気になった。現金な奴め。

「トリカブトはどうした?」

 コイツ、まだ言ってる。かなり根に持つ性格らしい。

「そんなもの、花屋には売ってません」

 早速バルコニーに散乱していた土を鉢に戻し、親指姫にクロッカスの球根を見せる。

「ねぇ、これ、今から植えても大丈夫?」

「うむ、問題ない」

 親指姫がさも自信あり気に頷いた。


     ❀


 クロッカスもその他の苗も、数日の内に大きくなり、あっという間に花を咲かせた。試しに素人には難しいかもと言われたミニチュア・ローズや蘭、観葉植物なども買ってみたが、どれもすくすくと育ち見事な花をつける。二週間程前までは花などドライフラワーすらなかった菫のマンションの部屋は、今やどこぞの植物園のような様相を呈している。

 バルコニーから摘んできたカモミールでハーブティーを淹れて優雅にケーキを食べていると、花の世話を終えた親指姫がテーブルにいそいそと這い上がってきた。

「なんだ、良い香りではないか」

「ハーブティー、親指姫も飲んでみる?」

 せっせと草花の世話に勤しむばかりで、親指姫が何かを食べているところなど見たことはないが、試しに小さく切り分けたケーキとお猪口に入れたお茶を与えてみる。

「むむ、中々美味いの」

 ハーブティーを飲んだ親指姫が、今度はケーキのクリームを舐めてみる。

「むむむっ、こ、これは……!」

 目を輝かせた親指姫が、切り分けられたケーキをあっという間に平らげると、菫の皿のケーキにかぶりついた。

「これは何とも目から鱗、ヒトの食い物とは中々イケルではないか」

「ちょっと、そんなに食べてお腹壊さないでよ?」

「案ずるな。これでもワラワは神だからの」

 親指姫が神らしからぬ様相で膨らんだ腹を撫でると、愛らしい姿にそぐわぬ豪快なゲップをした。

「ワラワも生きて永いが、此の世にはまだまだ知らぬこともあるの」

「あれ? 親指姫って、ここに来る前はどこにいたの? てっきりチューリップから生まれてきたのかと思ってた」

 何気ない菫の質問に、突如親指姫の表情が硬くなった。余程聞かれたくないことだったのだろうか。親指姫は無言でテーブルから飛び降りると、観葉植物の陰に隠れてしまった。

 そんな親指姫の姿に菫が首を傾げる。別に問い質すつもりなどないが、しかし虫にも何やらヒトには解らぬ事情があるらしい。



     4


 日曜日のジム帰りにふと花屋を覗いてみた。すっかり顔馴染みになった青年が爽やかな笑顔で頭を下げる。いつ見ても良い笑顔だ。

「それなんですか?」

 青年が手入れしていた少し大きめの鉢植えを菫が指差す。

「これですか? 野苺です」

「イチゴ?!」イチゴって鉢で育つんだ。知らなかった。「食べれるんですか?」

 菫のストレートな質問に青年がおかしそうに笑った。

「はい、市販のものよりいい匂いがするんですよ。苺って言っても野苺の一種だから、実は小さいんですけどね」

「じゃ、それください」

 親指姫が育てれば、さぞかし大きくて甘い苺が出来るだろう。菫の胸がまだ見ぬ苺への期待で膨らむ。

「アレは何ですか?」

 ツヤツヤした葉の樹高一メートルくらいの鉢植えの木を指差す。なにやら丸い実がなっている。

「レモンです。ほら、実がついてるでしょう。レモンは四季咲きだから、春夏秋と実がなるんですよ」

「へぇ~、レモンかぁ」

 そう言えば毎日朝一杯のレモン水を飲むとお肌に良いとかこの前テレビでやってたな。これからの季節、シミ・ソバカスなど三十路に果てしなく近い女には敵が多い。よし、レモンも買うことにする。親指姫よ、虫ケラなどと言って悪かった。お前は並のペットなどより余程役に立つ。と、青年が首を傾げた。

「えっと、お車ですか? レモンは流石に手で持って帰るには重いと思うんですけど」確かにそうだ。「あの、もしなんでしたら、後で市場に行くついでに御自宅までお届けしますが」

 中々気の利く青年だ。ついでに苺も届けて貰うことにして、足取りも軽くマンションに帰る。

 鼻歌交じりにシャワーを浴びていると、親指姫がバスルームに顔を覗かせた。

「なんだ、菫。やけにご機嫌だの。なんぞ良いことでもあったか?」

「さっき苺とレモン買ったから、もうすぐ花屋の人が届けてくれるのよ」

「プチトマトとキュウリの次はレモンと苺か。最近食用のモノが多いの」

「いいじゃない、花も実もある植物。ひと株で二度お得、って感じで。あ、そうだ、花屋の人が来たら、どこかに隠れてね。あんたみたいなの見られて騒ぎになっても面倒臭いから」

「案ずるな。普通のヒトの眼にはワラワは映らん」

 じゃあなんで私にお前が見えるのだ。自慢じゃないが、私は科学の申し子、霊感ゼロだぞ。親指姫に問いただそうとした矢先、ドアのチャイムが鳴った。

 マンションで見ると、レモンの鉢植えは思ったよりもかなり大きかった。青年に頼んでバルコニーまで運んでもらう。リビングに足を踏み入れた青年が目を丸くした。

「うわあ、凄いですね。どれも良く咲いてるなぁ」

 と、青年がふと首を傾げた。一瞬、ヒヤシンスに腰掛けてゆらゆらと花を揺らしている親指姫に気付いたのかと思い、ひやりとしたが、どうもそうではないらしい。バルコニーにレモンを運び入れた青年が、手摺りから身を乗り出すようにして辺りを見回した。

「……あの、どうかしましたか?」

 顔見知りとは言え、一人暮らしの女の家に男を上げるなど、やはりまずかったか。菫の表情を見た青年が慌てて手を振った。

「あ、す、すみません。あの、部屋に入った時にすごく強くマグノリアの匂いがしたんで、この近くに樹があるのかと思って……」

「マグノリア?」

「木蓮です。日当たりのいいところだと二月下旬くらいから三月にかけて咲き始めて、綺麗な上にすごくいい匂いがするんですけど、でもなんか今年は春が遅いらしくって。ウチの近所にも何本かあるんですけど、花の付きがやけに悪いんです。木蓮だけじゃなくて、今年は他の花もあまり咲いてないんですよ。御宅は正に春爛漫ですけどね」

 青年が帰ると、親指姫が彼女の最近のマイブームのプリンを食べつつ菫の顔を眺め、何やらニヤついている。

「……なによ、気持ち悪いわね」

「菫の機嫌が良かったのはあの男が来るからであったか」

「全然違います」

「照れることないぞ。ワラワの見たところ、アレは中々の好青年だ。お前の為にわざわざチューリップの球根を植えておったしな」

「は? 何よ、それ。球根は秋か冬に植えないと駄目なんでしょ。それにね、何を勘違いしているのか知らないけど、私は仕事も忙しいし、別れたばかりでそんな気にもなれないし、第一あの人私よりだいぶ年下だよ」

「年の差なんて、精々二十程しか違わんだろう。たいしたことはない」

「失礼ねっ、精々五~六才よっ!」

「ふん、たいして違いあるまい。騒ぐな、ぷりんが不味くなる」

 親指姫が鼻を鳴らして文句を言いつつ、しかし興味津々といった様子で菫の顔を覗き込んできた。

「して、前の男とは何故別れた?」

 虫のくせに下世話な奴だ。菫が軽く舌打ちする。

「別に。馬鹿だったから、嫌気が差しただけ」

 ついでに言えば馬鹿の癖にプライドだけは高く、やたら対抗心が強く、おまけに嫉妬深かった。一見爽やかな理系スポーツマン風だったのに、見事外見に騙された。奴の嫉妬と僻みにまみれた言葉の数々、思い出しただけで腹が立つ。そして、何よりも嫌なのは、自分がそんな奴を憐れんでいるということ。

「私は馬鹿な人間が嫌いなの」と菫が吐き捨てるように言った。

 人の頭脳と能力には確かに優劣がある。自分より劣っている人間を見た時、菫の心に浮かぶのは決して優越感などではなく、憐れみだ。何故そんな事が解らないのか、何故そんな事も出来ないのか、呆れる前に憐れんでしまう。菫はそんな自分が嫌いだ。他人を自分より劣っているから憐れむなど、実に失礼なことだと思う。だからこそ、自分に憐憫の情を起こさせるような人間のそばにはいたくない。

「そうか」親指姫がぽつりと呟いた。「ワラワもヒトが嫌いだ」

 食べかけのプリンをコトリと置いた親指姫が、ふと寂しそうに窓の外に目をやった。

「……ヒトはすぐに死んでしまうからの」

 少し不思議に思った。花の命は短くて、などと言うが、長い目で見れば植物の命はやはりヒトよりも長いのであろうか。花曇りの空を見つめる親指姫が何を想っているのか、菫には窺い知ることは出来なかった。


     ❀


 親指姫の結末はどんなものだったか。仕事中にふと気になり、菫がネット検索していると、通りかかった村田がモニターを覗き込んできた。

「お、スミレちゃんが仕事に関係ないモノ見てるなんて珍しいねぇ」

 心の中で密かに舌打ちする。村田め、無精髭の生えた汚い顔を近づけるな。

「はぁ、ちょっと親指姫の結末が気になりまして」

「親指姫~?!」

 村田が素っ頓狂な声を上げた。いちいちウルサイ男だ。

「……親戚の子に聞かれたんですけど、チューリップから生まれた後、どうなるのかさっぱり思い出せなくって。やっぱりアレですか? 冬が来て花が枯れたら親指姫も死ぬんでしたっけ?」

「ち、違うよ、スミレちゃん……」

 村田がナニカ怖いモノでも見るような目を菫に向けた。

「親指姫はさ、お母さんに可愛がられて暮らしてたのに、ヒキガエルに誘拐されちゃうんだよ、ヒキガエルの息子のお嫁さんに、ってね。で、池のハスの葉の上で泣いてたら、魚達が可哀想に思って逃がしてくれるんだよ。でもそのうち冬がきて、森で凍えていたら野ねずみのおばあさんが家に招待してくれてさ、冬の間中そこでお世話になるわけ。で、そうこうしているうちに金持ちのモグラに見初められちゃって、無理矢理結婚させられそうになるんだな、これが」

「……はぁ。村田さん、やけに詳しいですね」

 こいつ、自分の実験の為の科学文献よりも童話に詳しいんじゃないか。

「ウチにはちっこい娘が二人いるからね。毎晩かみさんと順番に童話を読んでやってんの」

 村田が自慢気に鼻をひくつかせる。

「でさ、親指姫が泣いていたら、親指姫が助けたツバメがやって来て、南の国に連れて行ってくれるんだよ。で、常夏の花園で羽根の生えた王子様に出会って、親指姫も羽根を貰って、めでたしめでたし、と」

 めでたしめでたし、か。王子様と共に永遠に幸せに──。ありがちなエンディングに何やら違和感を覚え、菫が考え込んだ。

「常夏の花園とか、羽根を貰うとか、それってつまり親指姫は結婚するのが嫌で、死んで天国に行って天使になったという比喩でしょうか」

「も~、コワイよ、スミレちゃん。なに? 親に無理矢理お見合いでもさせられそうなの?」

「違いますよ、冗談じゃない。変な勘繰りはしないで下さい」

 菫がつんと顔を上げると仕事に戻った。

「それにしても……」

 ふと腑に落ちぬ表情で菫が呟いた。

「なんで親指姫はお母さんのところに帰ろうとしなかったんでしょうね? 育ててもらった癖に恩知らずというか、やはり虫程度の記憶力ではそんなものなんでしょうかね」

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