白木蓮(前編)

 春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く

 夜来風雨の声 花落つること知る多少ぞ   (孟浩然『春暁』より)


     1


 春眠暁を覚えず、とは誰の詩であったか。春の夜は余りに気持ち良いのでついつい寝過ごしてしまう、といった意味だと習った記憶がある。しかしすみれの場合、気持ち良いから寝過ごしたわけではない。連日のオーバーワークによる疲労と寝不足のせいだ。

 今日は昼から会議があるから、早朝に実験の予定を入れていたのに……。苛々と腕時計を睨みながら長い脚で小走りに駅に向かう。そして道の角を曲がった瞬間、あっ、と息を呑む声がして、同時にばしゃりと脚に何かがかかった。

 信じ難い思いでタイトスカートを見下ろす。びっしょりと濡れた脚の間を、三月上旬の冷たい風が無情に吹き抜けてゆく。

「あわわわ、す、す、すみませんっ」

 花屋の店員であろうか。バケツを持った若い男が泣きそうな顔で駆け寄ってくると、地面に跪いてタオルで菫の脚を拭こうとした。ヤメロ触んなバカヤローと胸の内で男を激しく罵倒しつつ、舌打ちと共にその手からタオルを奪い、手早く脚と靴を拭く。家に帰って着替える時間はない。駅でストッキングを買って穿き替えるしかないだろう。

「あああ、どうしよう、本当に、ごごごごめんなさいっ」

 どもりながら涙声で謝る男に無言でタオルを投げ返す。

「あ、あの、すみません、謝罪に伺いたいんで、お名前とご住所を……」

 ふざけるな。誰が見ず知らずの男、それも自分に水を浴びせた奴にお名前とご住所なんか教えるか。そもそもお前の敬語は何やら中途半端だぞ。

「そういうの、結構ですので。急ぎますから」

 素気なく言い捨て、菫が再び駅に向かって駆け出した。


     ❀


 菫は都内の某有名大学の理科学研究員だ。親の仕事の都合で高校時代に渡米し、そのまま大学院までアメリカで過ごした。本当はそのままアメリカの大学に研究員として残りたかったのだが、一人娘ということもあり、親のたっての願いで渋々日本に帰ってきた。しかし日本の大学というものは閉鎖的かつ派閥主義であり、他所の大学から移籍してきた菫には色々と窮屈なことが多い。

 ……まぁ、恐らくそれだけが問題というわけでもないのだろうが。

 ぱりっとノリの効いた白衣を羽織って実験室に入ると、不精髭を生やした男がにこにこと親しげに声をかけてきた。

「オハヨ~、スミレちゃん。今日は珍しく遅かったじゃん。寝坊?」

 村田め。朝っぱらからむさ苦しい男だ。ヒゲくらい剃れ。

 男を無視して自分の机のコンピューターを起動させる。

「ねぇねぇ、このソフトでさぁ、データの計算してみたんだけど、なんか変な数字出ちゃうんだよね。このソフトって壊れてない? ちょっと見てくれる?」

 壊れているのはソフトじゃなくてお前の頭だろう。分厚い説明書を男の机に投げやるように置いてやる。

「まずそれを読んで、それでも解らないようなら仰って下さい」

「えぇ~、こんなの読むの時間の無駄だよ~」

 ふざけるな。私にはお前に費やすような無駄な時間はない。

 泣き言をいう男を無視して実験の準備に取り掛かろうとしていると、茶髪をふわふわと揺らしながら、今年入ったばかりの大学院生が駆け寄ってきた。

「すいませ~ん、なんかぁ、培養室の細胞が変なんですけどぉ」

「……は?」

 嫌な予感に背筋が冷たくなる。

「細胞じゃなくってぇ、なんか違うのが産まれちゃってる感じなんですけどぉ」

 慌てて培養室に駆けつける。

 ──やられた。育てていた細胞がイースト菌の襲撃を受けて全滅した。菫に無言で睨みつけられ、エアリーなゆるふわパーマの女が涙目で抗議する。

「そ、そんな睨まなくたって、私はちゃんと言われた通りにやってましたぁ。器具とかもちゃんと殺菌してたしぃ」

 菫が派手なネイルアートを施された女の両手にちらりと目を遣った。

「……あなた、手袋は毎回新しいものを使っていたのよね?」

「へ? 手袋?」

 きょとんとした顔に思わず殺意が湧いた。新しいものどころか、こいつは手袋もせずにその薄汚い手でプレートを触っていたのか。エアリーでユルイのは髪だけにしておけ。

 目の前の細い首に手が伸びそうになるのをグッと堪え、ひとつ大きく溜息をつく。今日の実験どころか、これで今後一週間の実験予定が全て崩れた。


     ❀


「スミレさぁ~、今日はいつにも増して荒れてたね~」

 気分転換に大学のテラスで科学誌を読んでいると、背後のテーブルから自分の名前が聞こえてきた。あぁ、コレは聞かない方がいいな、と思いつつも、ついつい聞き耳を立ててしまうのはヒトの悲しい性と言えよう。

「あぁ、アレじゃない? あの人って隣の実験室の坂本さんと別れたらしいじゃん。なんでも二股かけられたらしいよ」

「へぇ、そうなんだ。でもプライベートの苛々を仕事に持ち込まないで欲しいよね~」

「っていうか、あの人って高飛車だよね。ちょっと美人で頭がイイからってさぁ、いい気になってるみたいな? 坂本さんもそれで嫌になっちゃったんじゃないの? 」

「教授とかも実はあの人のこと怖がってるんじゃない?」

「だって性格キツすぎでしょ。『教授、その仮説は最新データとは根本的に矛盾しています。先月号のネイチャーは読まれましたか?』」

「似てる~」

 きゃははは、と甲高く耳障りな女達の笑い声を背中に聞きながらすっくと立ち上がり、丸めた科学誌でバシリとテーブルの上の蠅を叩き潰す。振り返った女達が菫を見て一斉に沈黙した。潰れた蠅が表紙にへばりついた科学誌を自分の物真似をしていた女の前に置くと、菫が形の良い唇の端をキュッと吊り上げるようにして微笑んだ。

「橋本さん、あなたがやっている実験、トロトロしているから残念ながら他のグループに先を越されちゃったみたいね。それに載っているわよ? 良かったらそれあげるから読んで」

 何か言いかけた女を鋭い視線で黙らせる。

「雑誌のお礼なんていいわ」

 潰れた蠅にちらりと目を遣った菫が、にっこりと最上級の笑みを浮かべた。

「私、虫と馬鹿は大嫌いなの」


     ❀


 今日はいつにも増して疲れた。これは肉体的疲労ではなく、馬鹿共の毒に当てられたことによる精神的疲労だろう。普段ならジムで汗を流して気分をすっきりさせるところだが、今日はそんな気力すら残っていない。おまけに朝、脚に水を浴びたせいか、少しぞくぞくする。早く家に帰り熱いシャワーを浴びて寝よう。

 駅を出て俯き加減に歩いていると、不意に背後から呼び止められた。

「あ、あの、すみません……」

 振り返ると、今風の茶髪、くっきりとした二重の眼、シンプルだが小ざっぱりした服装の青年が迷子犬の様な顔で菫に近づいてきた。こんな男知らんぞ。しかし、どう見ても年下だが中々可愛い顔だ。よそ行きの笑顔を浮かべ、愛らしく小首を傾げた菫に向かって青年が深々と頭を下げた。

「あの、今朝は僕の不注意でご迷惑をおかけしてしまい、本当にすみませんでした」

 ──あぁ、あの男か。

 即座に不機嫌な色を目に浮かべた菫を見て、青年の顔が迷子犬から捨て犬のそれになる。

「……何か御用ですか?」

 低く押し殺したような菫の声に青年が涙目になる。馬鹿め、男の癖にこの程度で泣くな。

「あ、あの、これ、つまらないモノですが……」

 おずおずと差し出された白いビニール袋に菫が首を傾げた。

「品種改良したチューリップの球根なんですけど、すごく綺麗だから、あの、お詫びと言ってはなんですが……」

 イルカ、ソンナモン。本当にツマラナイ物だ。どうせなら酒にしろ。

「ありがとう。でも折角だけど、マンション住いで植える所もないので」

 やんわりと断ろうとした菫の手に青年がビニール袋を押し付けた。

「大丈夫です! 肥料を混ぜた土で小さい鉢に植えてありますから。日当たりのいいところに置いて、芽が出たら時々水さえやれば大丈夫ですから!」

 呆気に取られている菫に青年が不意に無邪気な少年のような顔で笑いかけた。

「本当、すごく綺麗なんで」

 それだけ言うと青年はもう一度頭を下げ、菫から逃げるように駆け出していってしまった。

 ……一体全体、何なのだろう。全くもって迷惑この上ない。しかし無理矢理渡されたとは言え、一度手にした物を道端に捨てていくのも気が咎める。意外に持ち重りするビニール袋を手に、菫が大きく溜息した。



     2


 街角で水を浴びせられてから一週間程経ったある日の事。ジムから帰ってきた菫が水を飲みながらバルコニーの片隅に目をやり、ふと首を傾げた。貰って、というよりも無理矢理押し付けられて、帰って来るなりバルコニーに放置してあった鉢から小さなグリーンの芽が出ている。

「あれれ」

 草木に興味などないが、『芽が出たら水をやって』と言った青年の言葉と無邪気な笑顔をふと思い出し、手に持っていたボトルの水を土にかけてやる。その瞬間、ぴくりと芽が動いたような気がした。どきりとして、二~三センチのグリーンのそれを改めてじっくりと観察する。

「虫……がいるわけではないみたいね」


     ❀


 翌朝、バルコニーのカーテンを開けたついでに何気無く鉢に目を遣り、思わず目を見張った。昨日は小指の先ほどしかなかった芽が、すでに十五~六センチ程のしっかりとした葉を出している。植物の観察など小学校低学年の頃に育てた……と言うより見事に枯らした朝顔以来で花の事などよく知らないが、これはいかになんでもちょっと成長が早過ぎはしないか。それともチューリップとはこういうものなのだろうか。

 駅に向かう途中の花屋の前で、店先の鉢植えの世話をしている青年を見かけた。足を止めた菫の気配に青年が顔を上げた。

「あっ、お、おおおおはようございます!」

 青年が吃りながら慌てて挨拶する。そんな声が裏返るほど怯えなくたっていいって。獲って喰ったりしないよ。

「あの、頂いたチューリップ、芽が出たんですけど」

 途端に青年がぱっと顔を輝かせた。うっすらと日焼けした肌に白い歯が眩しい。

「あ、芽、出ましたか!」

「ええ、でもそれが、なんかすごく成長が早いような気がするんですけど」

「植物の成長って意外に早いんですよ。動物と違って動かないから変化に乏しい感じがしますけど、新芽なんかはほんの数日でびっくりする程伸びたりするから」

 数日どころか一晩で十センチ以上伸びた気がするが。

「芽が出たら水はわりとしっかりやって下さいね。水が足りないと蕾が枯れちゃったりするんで」

 にこにこと嬉しそうな青年を後に駅に向かう。ふと子供の頃に見たミュージカルを思い出した。主人公がそれと気付かず人喰い植物を育てるホラー・コメディーだったが、確かあの植物もやけに成長が早くはなかったか。


     ❀


 翌日の日曜日は久し振りに家でゆっくりすることにした。ジムから帰ってきてバルコニーでストレッチしながらふと鉢植えに目を遣り、思わずぎょっと目を見張る。分厚いグリーンの葉の間に見え隠れしているモノ、あれは蕾ではなかろうか。グリーンのまだ固そうなそれをまじまじと眺め、試しに飲んでいたボトルの水を上から少しかけてみる。丸く透明な雫が光を反射しながら蕾から滴り、葉の上をころころと転がり落ちて、すっと土に染み込む。と、蕾がぴくりと動いた。

「ん?」

 鉢植えに顔を近づけた菫の目前で茎がするすると一気に伸び、蕾が膨らみ、それが止まったかと思うとみるみるうちに蕾が薄ピンクに染まり始めた。まるで教育テレビでよくやる植物の成長の早送りビデオだ。

「……なにこれ」

 ひらひらとした先端が薄いピンクに染まった花が大きく膨らんだ時点で、ようやく成長が止まった。呆気に取られていた菫の眼が、先の閉じた白い花の中でもぞもぞと動く黒い影を捉えた。

 成長時とはまた一味違った不自然かつ不気味な動きで蕾が揺れ、花弁の間から何かが這い出そうとしている。

「こ、これは……!」虫だ。しかもデカイ。

 菫にとって虫の存在は人喰い植物よりもホラーだ。腰を抜かしそうになりながら台所に飛び込んで超強力瞬間殺傷を謳うゴキブリ用殺虫スプレーを掴む。潔癖性な菫のマンションにゴキブリが出たことなどないが、出てから後悔しても遅いと思い、以前に購入したものだ。備えあれば憂いなし。昔の人はエライ。

 スプレーを持った腕を前に突き出しつつ、恐る恐るバルコニーに戻る。および腰でチューリップから顔を背け、しかしスプレーを噴射する寸前、つい怖いもの見たさでちらりと半開きの花に目を遣ってしまった。と、花の中に座っていたモノと目が合った。

 大きな瞳。ツンと尖った形の良い鼻。紅い唇。陶器のように白い肌に艶やかな長い髪。推定身長十二センチという以外は、まさに絵から抜け出たように可憐な美少女が、チューリップの花の中から黒々と濡れた瞳で真っ直ぐに菫を見つめていた。

 不意に子供の頃に読んだ童話の一節が頭に浮かんだ。


『昔々あるところに、独りぼっちの女の人がいました。女の人は、小さくても構わないので子供が欲しいと魔法使いにお願いして、大麦の種を一粒貰いました。蒔いた種はあっという間に芽を出しチューリップの花を咲かせ、花の中から小さな可愛い女の子が出て来ました。女の子は親指姫と名付けられました』


 子供心にも不思議に思ったものだ。何故大麦の種からチューリップが咲くのだ。遺伝子組換えの大豆じゃあるまいし、この話を書いた人物は生物学の基礎がなかったに違いない。

「おい、女」

 鈴を転がすような澄んだ声がバルコニーに響いた。

「花に水が足りぬぞ」

 驚きのあまり呆然としている菫に、人類縮小版としか言いようのない摩訶不思議な虫改め親指姫が首を傾げた。

「聴こえぬのか。気の利かぬ奴め。水が足りぬと申しておる」

 親指姫の鋭い舌打ちに、菫が我に返った。

 ──コイツ。チューリップの上に剛然と座す親指姫と睨み合う。珍種の虫だか親指姫だか知らないけど、どちらにしても私とは気が合いそうにない──

「ミズーーーーッ」

 突如親指姫が耳をつんざくような雄叫びをあげた。思わずびくりとして、反射的に手にとったボトルの水を親指姫の頭の上からドボドボとかける。

「ド阿呆っ、花の上から水をかける奴があるかっ、花の色が褪せるではないかっ」

 ずぶ濡れの親指姫が顔を真っ赤にして喚くといきなり菫の胸に飛びついてきた。得体のしれぬムシモドキに飛びつかれ、駆除しようとしたゴキブリに反撃された如き悲鳴を上げながら菫が後ろ向きに引っくり返る。ガラスの引き戸に頭をぶつけ、激しい音がして、少し気が遠くなる。あぁ、夢ならこれで醒めるだろう。

「あのう、だ、大丈夫ですか?」

 あまりの音に驚いたのだろうか、マンションの隣人がバルコニーから身を乗り出すようにしてこちらを覗き込み、あられもない菫の姿に目を丸くしている。

「す、すみません。大丈夫です」

 慌てて愛想笑いを返し、痛む腰と後頭部を撫でつつ部屋に退避する。

「落ち着きのない奴だ。見ているこっちが恥ずかしい」

 高く響く声にはっとして振り返る。あれは夢ではなかったのか。知らぬ間にちゃっかりとついて入って来たらしい親指姫が、ぽたぽたと水を垂らしながらダイニングテーブルの上から菫を睨んでいる。

「女、名は何という」

「……菫」

 威丈高な口調にむっとしつつも思わず答えてしまう。

「ふん、菫か。地に這いつくばって咲く、つまらん花だ」

「……」

「だが可憐ではある。お前には過ぎた名だ」

 殺虫スプレーを持つ右手が勝手に動きそうになるのをぐっと堪える。

「……あんたこそ一体なんなのよ?」

「ワラワは花木の神である」親指姫が小さな鼻をつんと反らした。「敬ってへつらえ」

 あぁ、やっぱりコイツ、早目にゴキブリスプレーの餌食にしといた方がいいかも。そもそも私は子供が欲しいなどと魔法使いにお願いした憶えは無い。どうせお願いするなら多額の研究費、間違ってもムシモドキの子供などではない。

 くしゅん、と不意に親指姫が小さくくしゃみをした。虫でも風邪を引くのだろうか。ビッショリと濡れた親指姫は、よくよく見れば微かに震えて蒼ざめている。見た目の可愛さに騙されてなるものか……とは思うものの、水をぶっかけた張本人として僅かにうしろめたくなった。溜息と共に台所に行き、スープ皿にお湯を入れてハンドタオルと共に親指姫の横に置いてやる。やはり寒かったのだろう。親指姫がいそいそとスープ皿の風呂に浸かった。

「湯がぬるいぞ。次はもっと熱くしろ」

 文句を言う割にはふんふんと機嫌良さげに鼻歌を唄っている。親指姫の顔が上気するにつれ、部屋中にふわりと甘い花の香りが漂った。

 何故か、否応なくコイツとの共同生活が始まる予感がした。仕方が無い。自動芳香剤だと思ってやるか。

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