落葉(前編)

 木がらしの風にも散らで人知れず 憂き言の葉のつもる頃かな (小野小町)


 言ノ葉の神の紡ぐ歌は落ち葉となり風に舞う。それは呪であり物語であった。



     プロローグ


 夢をみる。

 静まり返った広い部屋。高い天井。硬い床。冷たい鏡。

 鏡の中の少女が細く長い手足を優雅にしならせ、軽やかに音も無く舞う。

 不意に立ち止まった少女の姿が頼りなく、蝋燭の火のように揺らめき、そして不安気な眼差しがわたしを振り返る。


 鏡に映る姿は、あれは、わたし――



     1


 不運というモノは一体どこで待ち伏せしているか分からない。それは人生における引ったくり犯のようなものだ。そう、丁度、初夏の長閑な午前中に、公園を通りかかった香蓮かれんを背後から突き飛ばし、その手からスポーツバッグを奪った引ったくり犯のような。

「泥棒ッ」と香蓮が悲鳴を上げた。「誰かっ! 捕まえてっ!」

 しかしいくら叫んでも平日の公園なんてお年寄りしかいない。慌てて立ち上がった香蓮が痛む足を引きずるようにして必死に走って追ったが、ローラーブレードのひったくり犯はあっという間に遠ざかる。

 と、前から歩いてきた少年がひょいっと男の前に足を出した。足を引っ掛けられた男が大きくもんどり打って転んだ拍子にバッグが空高く放り上げられたのを見て、香蓮が再び盛大な悲鳴を上げる。しかしバッグが地面に激突する寸前に少年が器用にキャッチしてくれた。ホッとしたのも束の間、起き上がった男が少年に掴みかかった……様に見えたのに、気が付けば男はうつ伏せに地面に倒れていた。

 男の背中に片膝を乗せ、その右腕を後ろ手に捻り上げた少年が、「あんたさ、右利き? 左利き?」と男に尋ねた。

 うるせぇ、放せ、この糞餓鬼がぁ、とかなんとか男が品のない声で喚くと、ふ〜ん、と少年がつまらなそうに鼻を鳴らした。

「まぁ俺的には別にどっちでもいいんだけどね。じゃあさ、右腕を折られるのと警察に自首するの、どっちがいい?」

 男が再び何かかなり品性に欠ける言葉を喚き、少年を振り落とそうともがいた瞬間、ゴキッと不気味な音がした。

 蒼ざめて尻餅をついた男の肩を同じくらい蒼ざめた香蓮が見つめる。何だか肩が片方なくなっちゃったみたいで、おまけに腕がやけにぶらぶらしていて、色々と物凄く不自然なんですけど……。

「そ、それ、腕折ったの……?」

 恐る恐る尋ねると、ううん、と少年が首を横に振った。

「肩を外しただけだよ。でも早いとこ治した方がいいかもね。段々痺れてくるし、下手すると癖になって、なんかの拍子に簡単に外れちゃったりするからさ。例えば路上引ったくりとかした時に」

 少年がニヤリと笑うと、男が怯えたように尻で後退った。

「警察行くといいよ。柔道とかの有段者ならそれくらい簡単に治してくれるからさ。ついでに自首もできるし、一石二鳥じゃん。俺って可愛くて親切な上にアタマいいと思わない?」

 腕を抑え悲鳴を上げながら逃げてゆく男の背中に向かって、きゃはははは、と少年が笑う。その横顔を香蓮はただ呆然と眺めた。



 少年は煉と名乗った。

 精々十一〜二歳といったところか。第一印象は控えめに言ってもかなり凄まじいモノがあったが、しかしお礼に奢ったチョコレートクレープを肩に座った小さな狐と分け合いながら美味しそうに食べる少年は、自分で言うだけあって確かに中々可愛い顔をしていた。

「本当にどうもありがとう。でも、助けてもらってこんな事言うのもナンだけど、子供があんまり無茶しちゃダメだよ? 最近はアブナイ奴が多いんだから」

 大切そうにバッグを抱きしめた香蓮の忠告に、ハイハイと煉が気の無い返事をする。

「そのバッグさ、やけに重いけど、なにが入ってるの?」

 おお、よくぞ聞いてくれた。香蓮がいそいそとバッグを開けて自慢のカメラを次々と取り出す。最新式のキャノンやニコンの高級デジタルカメラ、柔らかな質感の写真が堪らないハッセルブラッドのフィルムカメラ、そしてビデオカメラ。

「凄い数だね。写真家なの?」と少し呆れたように煉が尋ねた。

「ううん、ただの趣味よ。まぁたまに個展とかやるけど」

「……こんな沢山のカメラで撮るのに被写体はひとりだけなんだ」

 デジタルカメラの中の膨大なデータを見て煉がぼそりと呟いた。

「……あのさ、まさかとは思うけど、あんたってストーカーなの?」

「違うわよっ! 失礼ね! これは私の双子の妹よ!」

「あ〜良かった。俺、女ストーカーから少女を守ろうとした健気な男を引ったくりと勘違いして乱暴しちゃったのかと思って、今一瞬焦っちゃったよ」

「あいつは正真正銘ただの泥棒よっ」

 香蓮に睨まれ煉が肩を竦める。

「妹さんってバレリーナなの?」

「そうなの。香澄かすみは若いけど凄く才能があって、おまけに努力家で、最近は海外のバレエ団からもお呼びがかかるくらいなんだから」

 華やかな舞台衣装を着て恥ずかし気に微笑む妹の写真に香蓮が目を細めた。

「素敵でしょ? 私の自慢の妹よ」

「香蓮さんは踊らないの?」

「あぁ、まぁ私も子供の頃は一応習ってたけど、でも地道な努力とかできないタイプなもんで、早々に辞めちゃったのよ。才能も無かったし、根が飽きっぽいもんで」

 エヘヘ、と照れ臭そうに香蓮が笑った。

「でも香澄の踊りを見るのは大好きなんだ。好きこそ物の上手なれ、で写真の腕も上がったしね。最近はこのままカメラマン兼バレエ評論家とかになってもいいかなって思ってる」

 そんな職業ないかな、と笑う香蓮の横顔を煉がじっと見つめた。

「そうだ、今日の午後ね、来週始まる公演のリハーサルやっているから、良かったら見ていかない? 今日はオーケストラと合わせて通しでやるリハだから、結構見応えがあるんだけど。あ、でも男の子はバレエなんか興味ないか」

 そんなことないよ、と煉が首を振った。

「バレエなんて滅多に見る機会ないからね。妹さんの邪魔にならないようなら是非みてみたいな」



     2


「あ、あの今出てきた子が妹の香澄よ」

 ひと気のない暗い観客席に煉と並んで座った香蓮が、ほっそりとした身体つきのバレリーナを指差す。

「私とそっくりでしょ? まあ一卵性の双子だから似てるのは当たり前なんだけど、子供の頃は親でも間違えるくらいで――」

「そうかな?」と煉が首を傾げた。「まぁ確かに似てなくはないけど、でも区別がつかないなんてことはないと思うな」

 少年の言葉に少し驚いた。後にも先にもそんな事を言われたのは初めてだ。化粧のせいかしら、と香蓮が首を傾げた。完璧主義者の香澄はたとえリハーサルでも舞台化粧を欠かさない。化粧の練習と本番への慣れのためらしい。ドギツイ舞台化粧に比べてジーンズにTシャツ、ノーメイクとシンプルな装いの香蓮が違って見えて当然か。

「バレエってさ、物語になってるんだよね? これってどんな話なの?」

「これはラ・シルフィードっていう『白のバレエ』の代表作のひとつで、人間の男に恋をしてしまう妖精の話よ。男には結婚を間近に控えた婚約者がいて、最初はシルフィードの誘いにも気の無い振りをするんだけど、でも段々とシルフィードの美しさに惹かれていくの」

 ふわ〜と煉の肩に座った焰が欠伸した。

「つまらん話だな。古今東西オトコなら誰だって若くて綺麗な方に目がいくだろうが。オトコの悲しいサガって奴だ」

 香蓮に聞こえないように小さな声で嗤う焰の額を、顔を顰めた煉が指でピンと弾く。

「結婚式の直前に男の指輪を奪って逃げたシルフィードを追いかけて男は森へ行き、結婚式の事も忘れて妖精たちと森で遊び呆けてしまうの。そしてふわふわと逃げ回るシルフィードを永遠に手元に捕まえておきたくて、男は魔女に貰った妖精の羽をぐベールでシルフィードを包むんだけど、羽を捥がれたシルフィードは死んでしまうのよ」

 煉に説明していた香蓮が、明るい舞台照明の下で踊る妹を見つめ、ふと口を閉ざした。

 ――羽を捥がれた妖精は生きてはゆけない。

 それはきっと、羽こそが、妖精を妖精たらしめるもの、妖精であることの証だからなのだろう。羽を失った妖精は、妖精ではなく、それは地面に蠢くおぞましい虫――

「凄いね。何アレ、爪先で立ってるの?」

 少年の明るい声に不意に我に返った。

「え? あぁ、あれはね、ポワントって言うのよ。ああやって爪先で優雅に立つことで、天界やシルフのような軽やかさを表現しているの。あ、シルフって言うのは四精霊のひとつで……」

「風の精霊でしょ? 確かパラケ何とかって十六世紀の錬金術師の『妖精の書』に出てくるよね。風のシルフ、地のノーム、水のウンディーネ、そして火のサラマンダー」

 ……なんだ、この子。少し呆気に取られた香蓮を振り返り、煉が笑った。

「ちょっと家庭の事情で物の怪的なモノに詳しいんだ。まあ西洋のモノはあんまり縁がないから、精々本で読んだり話に聞いたりする程度なんだけどね。でも言われてみれば、確かにバレリーナは風の精霊って感じだね」

 ふわりと高い香澄のジャンプを見て、飛んでるみたいだね、と煉が感心したように溜息をついた。

「あの雰囲気とかもなんか浮世離れしてて、まるで背中に翼が生えているみたい」

「そうよ、バレリーナには翼があるの」

 舞台上の妹の姿に目を細め、香蓮が微笑んだ。

「バレリーナは爪先立ちの分だけ天界に近いのよ」

「は? 何それ?」

「何かで読んだセリフなんだけどね、『バレリーナは爪先立ちの分だけ天界に近い……』カッコイイでしょ?」

 不意にオーケストラの演奏が止まった。舞台に目を遣れば、何やら香澄がパートナーと言い争っている。と言っても香澄の声は殆ど聞こえず、彼女はただ俯いてパートナーの言葉に首を横に振るばかりだ。舞台監督が飛んで来て香澄に何か言ったが、香澄は怯えたように後退りすると、逃げるように舞台から姿を消した。



 心配した香蓮が控え室に駆け込むと、双子の妹は埃っぽいソファーの隅で俯いて膝を抱えていた。

「香澄?! 大丈夫?! 一体どうしちゃったのよ?!」

 香蓮の顔を見た途端、香澄が堪えきれなくなったかのようにぽろぽろと涙を零した。

「……だめなの。どうしても役が掴めないの」

「役が掴めないって……」香蓮が困ったように首を傾げた。「だけどシルフィードを踊るのはこれが初めてじゃないでしょ? それどころか二年前に香澄が初めて主役に抜擢されたのもシルフィードだったじゃない。これは香澄のオハコでしょ?」

「でもあの時だって、私は役が掴めていたわけじゃないわ。私はシルフィードの役の真似をしただけよ」

 隣に座り、そっと抱きしめた細い肩が嗚咽に震える。

「私にはどうしてもわからないの。シルフィードは愛する男に羽を捥がれて死にかけながら、でも後悔はないって言ったのよね。でも本当にそうかしら。本当は、人間なんかに恋した自分の愚かさを認めたくなかっただけじゃないかしら。自分を永遠に捕えておくために、自分の羽を捥いだ男を許すなんて、私にそんなことが出来るとは思えないの」

「そんな……」

 咄嗟にかける言葉も思いつかず、香蓮が口籠った。公演は来週始まるというのに、主役がこんな状態でどうするのだ。しかし下手な慰めは逆効果だろう。かと言って叱責するわけにもいかない。香澄は繊細な上に生真面目で自分に厳しく、完璧主義者だった。他人に叱責などされなくても勝手に自分自身を追い込んでいくタイプなのだ。

 ふと見ると、香澄は震えながら胸元の何かを握りしめていた。香蓮が手を伸ばし、白くなる程きつく握られたその指先をそっと撫でた。

 香澄が握りしめているのは紅い石のネックレスだ。それは二年前、初めて主役として迎えた舞台に怯え、カーテンの端で震えていた妹へ香蓮がプレゼントしたものだった。

 あの日、「私が香澄のために作ったお守り」と言って、香蓮は手作りのネックレスを妹の首にかけた。

「香澄が失敗したりしませんように、転んで怪我したりしませんように、世界中の人を魅了するバレリーナになれますように。香澄を守り、私の願いを叶えてくれるように、心を込めて作ったから」

 白く柔らかな衣装に身を包み風の精に扮した妹は、胸元の紅い石を見つめ、ありがとう、と呟いた。そして香蓮自身を鏡に映したようなその顔を緊張に紅潮させながら、口許に微かな笑みを浮かべた――

「……あのさ」

 控え室の隅に黙って突っ立っていた少年が不意に口を開いた。

「精霊がヒトに恋するなんて確かに愚かかもしれない。でもシルフィードはそんな自分を認めてあげたかったんじゃないかな。負け惜しみとかじゃなくって、たとえ一時の感情だったとしても、ヒトに恋した自分の気持ちは真実ホンモノだったって。そして彼と過ごした時間は幸せだったって」

「で、でも、羽を捥ぐような男――」

「羽を捥いで、相手の自由を奪ってまで自分のモノにしたいなんて、そんなのは我儘で、自分勝手で、歪んでいる。でもシルフィードはオトコの事が好きだったんでしょ? なのにちょろちょろ逃げ回って、オトコの愛を試してたのかも知れないじゃん。だからさ、たとえ歪んだ愛情でも嬉しかったのかもよ? 西洋の妖精のことはよく知らないけど、もしかしたらちょっとマゾなのかもね」

 化粧台の前に置かれたテッシュの箱を掴んだ煉が、驚いたように目を見張る香澄にそれを手渡しながら、ふわりと微笑んだ。

「どんな形であれ、たとえ短い間でも、シルフィードは幸せだった。そしてたとえ今日不幸だとしても、昨日感じた幸せまでもを偽りと呼ぶことは誰にもできないんだよ」



     3


 煉という名の少し変わった少年の言葉に気を取り直したのか。リハーサルを無事終わらせた香澄は、翌週から始まった公演でも美しく落ち着いた踊りをみせた。

「香澄、お疲れ様! すごいじゃない、大成功ね。さっき廊下で某辛口評論家に会ったけど、香澄のこと褒めちぎってたわよ?」

 大きな花束を抱えて控え室に戻ってきた香澄を香蓮が満面の笑顔で迎える。しかし香澄は少し疲れた顔で、「ありがとう」と言って小さく頷いただけだ。

「なによ? 浮かない顔して。疲れてるの? 大丈夫?」

「別に……」と言って顔を背けた香澄が、化粧台の鏡越しにジッと自分を見つめる香蓮を見て溜息をついた。

「香蓮ちゃんに嘘はつけないわね」

「当たり前じゃない」

「……あのね、ジェームズ役の須藤さんなんだけど」

 ジェームズとは妖精シルフィードの恋人役だ。

「私、ちょっとあの人とは合わなくて」

「合わないって、息が合わないってこと? 観てる分にはそんなの全然感じなかったけど」

「そうじゃなくて……」香澄が僅かに言い淀んだ。「……あの人、私のことが嫌いなのよ」

「香澄ったら、何言ってるのよ」香蓮が呆れたように肩を竦めた。「須藤くんとは子供の頃に通ってたバレエ教室も同じで、何度も一緒に踊った仲じゃない。ほら、憶えてないの? 教室でクリスマスに『くるみ割り人形』をやった時、香澄のクララ役と踊るのは絶対に僕だって言って、王子役を貰うために須藤くんってば毎晩遅くまで独りで練習しててさ。でも練習し過ぎて疲れて当日熱出しちゃって、結局踊れなかったんだけどね。悔し泣きしながら、『絶対に将来香澄ちゃんのパートナーになってみせる』とか言ってたけど、去年須藤くんが香澄の所属してるバレエ団に入って来た時は驚いたなぁ。子供の頃の初志を通すなんて凄いじゃん。嫌ってるどころか、ベタ惚れだって」

 化粧台の隅に置かれた写真立てを指差して香蓮が楽しげに笑った。

「公演もあと一週間でお終いなんだし、あんまり変に考えすぎちゃダメだよ? ほら、外で待ってるから、早く帰る支度しなさいよ。それで今夜はゆっくり熱いお風呂にでも浸かってさ、リラックスしよ?」



「……でも私は」

 控え室に独り残された香澄が胸元の紅い石を握り締め、写真の少女の髪に飾られた青いリボンを見つめる。

「私は、あの人と踊りたくはない……」



 翌日、バイト中の香蓮の元へ、須藤がバイクの事故で怪我をしたと知り合いから連絡が入った。雨でタイヤがスリップしたらしい。命に別状はないが、しかし踊れる状態ではないらしいと聞いて、香蓮は急遽バレエの公演会場へ向かった。多少気が合わないような事を言っていたとは言え、パートナーの事故や突然の配役変更で香澄が狼狽えているのではと心配で、胸が痛かった。

 しかし香蓮の心配は杞憂に終わった。香澄の踊りは完璧で、見事としか言いようがなかった。

「香澄、大丈夫?!」

「香蓮ちゃん……」

 舞台袖に下がった香澄は、少しぼんやりした顔で香蓮を振り返った。

「今日はバイトがあったんじゃなかったの?」

「そうだけど、須藤君が怪我したって裏方さんが教えてくれて」

「そんな事でわざわざ来てくれたの?」

「そ、そんな事って、当たり前じゃないの! 香澄がナーバスになってるんじゃないかと思ってすごく心配したんだから!」

「香蓮ちゃんったら……」香澄がふわりと口許を緩めた。「香蓮ちゃんは優しいね。ありがとう」

「あぁ、香澄君」

 廊下で話す二人を見つけた舞台監督が、嬉し気に近づいて来ると力強く香澄の肩を叩いた。

「どうなることかと思ったが、香澄君が落ち着いていて助かったよ。こう言っちゃナンだが、踊りもいつもより冴えていたね。それでこそプロだ。須藤は腰を酷く打ってリハビリには相当時間がかかるらしいから、パートナーはこのまま解消・変更ということになるが、大丈夫かな?」

「……ええ、大丈夫です」

 小さく頷きながら香澄が口許に静かな微笑みを浮かべる。しかし何故だろう。その落ち着いた様子にホッとすると同時に僅かな違和感を覚え、胸の内が不吉にざわめいた。



     4


 バレリーナの一日は長い。

 朝起きると先ずゆっくりと時間をかけて全身のストレッチ。その後カロリーと栄養を計算し尽くした朝食を摂り、九時過ぎにはスタジオに向かう。そこで二〜三時間のレッスンを受けて丹念にウォームアップし、昼食後は各種のリハに入る。そのまま夜まで踊り、一日の終わりにはフィジカルセラピーやマッサージを受け、ぐったりと疲れ切って家に帰り、寝る前に再びストレッチし、そして最低七〜八時間の睡眠を確保する。公演は大体夕方から夜にかけて始まる事が多く、そんな日は帰りは更に遅くなる。

 香澄は愚痴ひとつこぼさず、まるで修行僧か何かのように黙々と厳しいスケジュールをこなす。たまのオフの日でも決して練習を欠かさず、僅かに空いた時間にはバレエのビデオを観て、バレエ関係の本を読み、バレエ音楽を聴く。香澄の生活はまさにバレエ一色で、それは香澄の踊りに他に追随を許さない精緻さと浮世離れした妖精のような透明感を与えていたが、そこには同時に何かに追い詰められたような逼迫感があり、時に観る者を不安にさせる。それが堪らなく良いと言う者もいたが、しかし香蓮はそんな香澄が心配だった。

「ねぇ、たまのオフの日くらい、どこかに遊びに行ったら?」と香蓮は時々香澄に声をかける。

「バレエだけじゃなくて、他の事にも興味を持ったほうが踊りにも深みが出るんじゃないかな、とか思うんだけど……」

 しかしそんな時、香澄は心底驚いたように眼を見張る。

「他のことって?」

 妖精のように透明な微笑みを浮かべ、香澄は幼子のように首を傾げる。

「私の人生に他のことなんてあり得ない。それは香蓮ちゃんが一番よく知っているでしょう?」

 その一点の曇りも無い瞳に、香蓮はいつも言葉を失う。



 そんなある日の事だった。

 いつもより少し早目に家に帰って来た香澄が、家に帰るなり挨拶もそこそこに二階の自室に閉じ籠った。香蓮が部屋に様子を見に行っても、香澄は暗い部屋のベッドに俯せになったまま身動き一つしない。

「香澄、どうしたの?」

「……次の舞台、主役が貰えなかったわ」

 枕に突っ伏したまま、香澄がくぐもった声で小さく答えた。

「次の舞台って……?」

「知ってるでしょう、『白鳥』よ」

 ……またか。香蓮が香澄に気付かれないよう、そっと溜息を吐いた。

 香澄は子供の頃から『白鳥の湖』に憧れ、その主役の座を喉から手が出るほど欲しがっていた。過去にも何度かチャンスがあったのだが、白鳥を踊るには若過ぎると言われ、結局ダメになった。若過ぎるとは、つまり力不足だと言われたようなものだ。

「……白鳥の優雅さはあっても黒鳥の妖艶さに欠けるって言われたわ」

 悪魔の呪いで白鳥になったオデット姫と、悪魔の娘オディールは通常一人二役で同じバレリーナが踊る。純真で優雅な白鳥としたたかで妖艶な黒鳥という相反する二つの役を同時にこなす演技力、長い舞台を踊り続ける体力、32回フェッテ等の超技巧。白鳥の主役に要求されるものは多い。

「主役は誰に決まったの?」と尋ねると、香澄がくぐもった声でダンサーの名を告げた。

「ベテランね」と香蓮が何気無く呟いた途端、香澄が枕から顔を上げて強張った表情で香蓮を睨んだ。

「だけどあの人はダンサーとしてはもう歳で、最盛期は過ぎているわ。それに技術なら私の方が上よ。表現力や演技力があるってことも証明してみせる。だけど機会が無ければ証明の仕様がないじゃない!」

 キリキリと奥歯を噛み締めて胸元の紅い石を握る香澄の凄まじい形相に、思わず息を飲んだ。

「香澄ったら、どうしちゃったのよ……? もしかして、誰かに何か言われたの?」

「……そうじゃないけど」香澄の視線が不意に弱まった。「でも、私は香蓮ちゃんの為に踊らなくちゃいけないのに……」

 ごめんね、と呟いて俯いた双子の妹を、香蓮がそっと抱き締めた。

「香澄が謝る必要なんてない。香澄は香澄のペースで、香澄が踊りたいように踊ればいいのよ。他人の言う事なんて気にしないで。誰がなんと言おうと、私はいつだって香澄の味方だからね」

 そして私はいつも香澄を、香澄の踊りだけを見ている。そう言って微笑む双子の姉を、香澄が無言で見つめた。



 物静かで内向的な香澄があんな激昂した口調で話すなんて、やはり少し疲れが溜まっているのだろう。部屋の明かりを消し、寝息を立て始めた妹を起こさないようにそっと外に出た香蓮が、小さく溜息を吐いた。やはりパートナーのこともあってナーバスになっている部分もあるのかも知れない。香澄はとても繊細だから、わたしがもう少し気を配ってやらねばならない。

 そう考え、その後しばらく香澄の様子に気を付けていたが、香澄はどうやら気を取り直して自分に与えられた役の練習に専念しているようで、特に変わった様子も無く香蓮を安心させた。

 しかしそれから十日後、白鳥の主役を踊る予定だったベテランダンサーが練習中の事故で大怪我を負った。


 代役として主役に抜擢されたのは香澄だった。

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