第9話

「《野馬台詩》よ」

 いつの間に現れたのか、白衣の陰陽師の声。

「秋津(あきつ)丸は別に紙片を隠し持っていたのだ。蜘蛛の死骸ばかり探していたのでおまえは見落としたな? いや、存外、最悪の場合を考えて──秋津丸は幾つも〈証拠〉を用意していたか……」

「?」

 まだよく意味が飲み込めず眉を寄せる蜻蛉(せいれい)丸に陰陽師は護法のごとく一片の紙を放った。

「見ろ! これがそれ──秋津丸がその手に握っていた紙片。記してあったのは《野馬台詩》」

「おお! 吉備真備(きびのまきび)が唐より持ち帰ったというあの予言詩じゃな?」

 藤原三位(ふじわらのさんみ)が思わず声を上げる。

「私も読んだことはあるが、難解な詩よの? では、おまえはあれを解読したのか?」

 橋下(はしした)の陰陽師は首を振った。

「今回、重要だったのは〈詩の内容〉にあらず。〈題〉そのものにあった!」

「?」

「最初、私は三位殿もおっしゃった通り、あの難解で複雑怪奇たる詩句に翻弄され時間を取られてしまった。が、何のことはない。《野馬台詩》を〝やまとし〟と呼んではならないのだ。

 《野馬》はそのまま〝のま〟なのだ!」

 蜻蛉丸を見つめて陰陽師は言う。

「知っているか? 《野馬》とは古語でそのものズバリ〝蜘蛛〟を言う。

 だから、《野馬台詩》は〝のまとし〟……言い換えれば〝蜘蛛と死〟だな?」

「あ」

「おまけに──もっと教えてやろうか?」

 こうなると博覧強記のこの男、止まらない。

「そもそもおまえ達兄弟の名な、秋津丸に蜻蛉丸よ? それが古語でともに〝陽炎(かげろう)〟を意味し、その陽炎の語がまた〝蜘蛛〟を意味する。どうだ? このことは今回の事件に絡んで皮肉にも恐ろしい偶然の一致だな?」

「あはは……はははは……」

 玻璃のように澄み切った声。突然、蜻蛉丸が笑い出した。

「あはははははは……」

 暫く武者姿の若者は笑うのを止められなかった。

 存分に笑った後、唐突に言った。

「あの絵を描いたのは私です。秋津丸に頼まれて」

 田楽師の、どうして区別できたのだろう? 弟の方をしっかりと見据えて蜻蛉丸は言うのだ。

「私の唯一の取り柄は絵を描くことだった。風流な兄は誰よりそれを喜んで、いつも褒めてくれたものだ。そんな兄を喜ばせようと虫の絵は色々描いて来たけれど──」


 その日、〈馬の絵〉を頼まれて蜻蛉丸は少々吃驚した。

 蜻蛉丸が唐渡りの珍しい蜘蛛を飼育してみないか、とこれを持って行った際、秋津丸の方もニコニコして言ったのだ。

   ── 珍しい蜘蛛か? ふうん? 飼ってみるかな。

      でも、その代わりと言ったら何だが、

おまえも私の願いを聞いてくれるかい?

   ── 私にできることなら。

   ── おまえにしかできないよ。新しい絵を描いて欲しい。

但し、絵柄については要望がある。

   ── へえ?


「偶然じゃない。

 虫が好きで……本も好きで……博学だった兄はハナから知っていたんだ。〝野馬〟が〝蜘蛛〟と同じ意味を持つことも、そしてまた、私たち兄弟の名が同じく〝蜘蛛〟に通じることも、何もかも……!

 だからこそ、あの日、蜘蛛を持ち込んだ弟に、その暗合を面白がって〈馬の絵〉を描かせた」


   ── 馬だって? 蜘蛛の絵じゃなく?

   ── そうじゃ、馬さ! 描けるか?

   ── 勿論、描けるよ。検非遺使や近衛が乗ってるあの、馬だろ?

   ── いや、飼われているのじゃなくて、

野を走っている自由な馬がいいな!

      それも二頭、仲良く……


「数まで細かく指定してきた。そうか? 今思うと、私たちのことだったんだな?

 あの絵は私たちの写し絵だ。結局、兄が望んだのは、あの絵のごとく兄弟仲良く、楽しく、自由に生きること。それだけ……」

 何事か考える風に暫く闇を見つめていた蜻蛉丸が、再び口を開いた。

「兄は蜘蛛じゃあない」

 取り巻く一同を眺め渡して微笑んで言った。

「秋津丸は透き通った羽を持つ爽やかな蜻蛉(とんぼ)だった。

 それを罠に誘い込んで……挙句の果てに頚(くび)き殺した私こそが……私だけ・が蜘蛛だ! 醜い……毒蜘蛛……」 

 蜻蛉丸の頭が不気味にガクッと折れた。

 兄の時同様、細い、赤い糸が唇から滴り、白い顎を伝って首筋、そして胸へと流れ落ちる。

「しまった! 舌を噛んだな?」

 検非遺使が飛びついて抱え起こした時には、一条の赤い雫は迸(ほとばし)って数多(あまた)の糸となり地に注いだ。

 それは見る見る双子の足下まで拡がって行った。

 狂乱丸と婆沙丸はそっと足を曳いて、その赤い蜘蛛の巣から逃れた。



 秋津丸を殺めた後、蜻蛉丸は兄が育てた蜘蛛たちを全て養子先の屋敷へ移したと思われる。

 思われる、と記したのは、その夜、時を移さず衛士を率いた成澄(なりずみ)が門前に到着した時、既に大里師実(おおさともろざね)の屋敷は夜空に火の粉を散らせて炎上していたから──

 新興の大里氏の野心も、おぞましい外つ国の毒蟲も、屋敷もろとも灼熱の火に焼かれて灰になってしまった。

 結局、この年、京師(みやこ)の人々の記憶に残ったのは、数人の清廉な要人の相次ぐ病死と、この大火事だけだった。

 それはそれで悲劇ではあったが──とはいえ、病いも火事も、京師ではどの年にもある〝ありふれた出来事〟に過ぎない。



「秋津や蜻蛉がその読みから〈陽炎〉と同義なのは容易にわかる。だが、何故、蜘蛛が〈陽炎〉を意味するのか? 答えは、連中の吐く糸にある。古代の人は、あの白いキラキラした糸を見て陽炎を連想したのさ!」

 例によって勿体ぶって有雪が講釈を垂れている、一条堀川の田楽屋敷。

 すっかり秋めいた空の下、一同縁に出て久方ぶりに音曲を楽しんでいるところ。

「それはわかったさ」

 編木子(びんざさら)を鳴らす手を止めてうんざりした体で狂乱丸が言う。婆沙丸が続けて、

「では、蜘蛛を〈野馬〉と言うのは何故じゃ? どこも似ておらんぞ?」

「いや、だからな、元々陽炎を野馬と読んだらしい。それで、陽炎が野馬だから、蜘蛛も野馬となって……要するにだな、陽炎、野馬、蜻蛉、蜘蛛、次第にごっちゃになって……まあ、言葉なんてものはそんなものさ!」

 最後は曖昧に終わるのもいい加減なこの男らしかった。

「おい、信じないのか? 俺の言ってることは真実だぞ! 現に菅原道真(すがわらみちざね)も歌の中で『糸を乱る野馬は草の深き春……』なんぞと陽炎を野馬と呼んで──」

「もういいよ」

「蜘蛛が空を飛ぶのを知っているか?」

 ひたすら笛を吹き続けていた検非遺使、唐突に唇から笛を放すと、

「晩秋の晴れた昼、澄んだ風に乗って蜘蛛は空を飛ぶのだと。透き通った糸を吐きながら。その糸を指に絡め取ると幸せになれるとか……」

「ふうん」

「その糸は、勿論、赤くはないんだろ?」

 あれ以来、すっかり蜘蛛が嫌いになった兄弟だった。



       野馬台詩   ── 了 ──



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検非違使秘録〈野馬台詩〉 sanpo=二上圓 @sanpo55

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