#5 回顧、あるいは懐古


「今大丈夫?」

夜、平坂からラインが来た。僕は返答の代わりに発信の操作をする。ピロリピロリと音が流れてから間を置かず、平坂が出た。

「夜方君から掛けてくれるとは思わなかったよ」

「ああ、どうせ暇だからな」

別に悪意も皮肉もこもってない。ただの事実だ。

「ならよかったよ。昨日はさ、わたしばっか自分の事話しちゃったじゃん。だから今日はキミの事が聞きたいな」

「僕の事?」

「そう。キミが死への衝動を持つ理由」

確かに平坂の極めてプライベートな話だけを聞いて、自分の話をしないというのは、フェアではない気がした。

「ああ、そうだな。わかった」

僕は小さく息をつくと、頭の中のアルバムをめくり始めた。


 僕は両親と兄と僕の四人家族。度を越して厳しい父。優秀な兄。それらを繋ぐ緩衝材としての母。そんな、ありふれた家族。ありふれた、機能不全家庭。学歴に対して尋常ならざる固執を見せていた父は、その結果物たる兄を賞賛し、相対的に不出来だった僕を絶えず貶した。父の過去にはきっと何かがあったのだろうと、今なら想像できる。でもそれが何なのか、知ることには大きな恐怖と嫌悪感があった。だから結局、僕を縛り付けるものの起源や由来についてはブラックボックスにしたままだった。

「お父さんのこと、嫌いなの?」

平坂が問う。

「嫌いかと言われれば嫌い。でも好きかと言われれば好き。結局二元的に説明なんてできないよ」

僕はしかしどこかで理解していた。父の存在は好き嫌いを超越した絶対的なものなのだと。父の存在は絶対。父の言葉は絶対。服従。それが、僕の知る親子の関係。


 そんな環境において正常な自尊心や自己肯定が育まれるはずもなく、僕はこの世で誰が一番嫌いかと言われれば、自分だと即答するような人間になった。僕には何の価値もなく、むしろ生命の運営を両親に委託している現在、いたずらに金や時間や命を吸い取って生きている化物なのだと自分を定義している。息を吸う1回、何気なく過ごす1秒。それらがすべて僕の内に秘める罪悪感の呼び水となるのだ。


 そういえば僕は褒められたことがない。いや、厳密にはテストの点で褒められたことはあるけれど、例えば母の手伝いをして料理を作ったときとか、何か「良いこと」をした時、父は決して褒めてくれなかった。僕が褒めて欲しかった時、決して望む言葉をもらうことはなかった。だから僕は、自分が本当にここにいていいのか、まったくわからない。

「お母さんは?お母さんは褒めてくれた?」

平坂が柔らかいトーンで訊く。

「褒めてくれた、と思う。でも父親の否定がいつもそれを上回った」

母がせっかく何かを讃えてくれても、父の否定がそれを塗りつぶす。

だから母にはとても申し訳なく思っている。


 受験期、学歴妄執の父は僕に苛烈な言葉を浴びせ続けた。学歴を得られなかった人間の末路がいかに悲惨で、どうしようもないか、まるで催眠のように日々吹きこまれた。そしてもしそうなったお前はもうこの家の人間として認めないとも言われた。娯楽の一切は取り上げられ、息抜きの必要性はついぞ理解してもらえなかった。


 僕の根本原理は「自罰」だ。僕は直ちに罰せられるべき無価値で罪深い悪人だと思う。僕は生きる価値も資格も力もない出来損ないの人間もどきだと思う。そしてなにより、僕は「疲れてしまった」。


 やがて生育過程で得た様々な観念、感情、哲学の集大成として、僕の中には死に対する強力な衝動が生まれた。

それと同じくらい強く、僕は怒りを抱えている。それはきっと、理不尽さの具現たる父親に対する怒り。抑圧されてきた憤怒のマグマ。僕は人間が嫌いだ。人間である自分も嫌いだ。だからこんな世界、きれいさっぱり壊れてしまえばいいと思っている。


「なるほどね。よくわかった」

僕の長々とした自分語りの果てに、平坂はそう言った。

「キミは独りで闘ってきたんだね」

「それは平坂も一緒だろ」

「まあね。だからさ」

平坂は一旦言葉を切った。


「やっぱりわたしたち、同志になれると思うんだよね」

「同志?神様を殺すっていう…」

「そそ、わたしとキミは太極図みたいに対極。生と死。でも共通しているのは他者への、世界への憎しみ。わたしたちは正反対でいながら、同じ気持ちを持ってる」

なるほど確かにその通りかもしれない。

「わたしは別にキミに自分を憎んだりするのをやめろとか、そんな偽善ぶった優しい言葉を贈るつもりはないよ。キミはキミのままでいいんだから。でもさ、前も言ったけど、死ぬのはちょっと延期にしてもらってもいいかな。キミとならできる気がする」

捨てる命なら寄越せと言った平坂。

「あー、ごめん。またわたしばっかりしゃべっちゃったね。そんでさ、やっぱキミの気持ちも聞いておきたいんだよね」

僕の気持ち。おそらく、これは意思確認。引き返せない場所に赴く、最後の儀式。

「僕は」

僕は結局どうしたい?

「赦せない」

自分を?それとも世界を?

「何もかも」

そう、それでいいんだ。

「だから、平坂に付き合うことにする」

「決まりだね。これからよろしく。夜方イツキ君」


此岸と彼岸の両端から互いに手を伸ばし、固く握手をした。

そして僕らは同志になった。

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