結ばれた糸

夕涼みに麦茶

結ばれた糸

 一人暮らしのアパートに帰ってくる。静寂に包まれた部屋。「おかえり。」の一言もなく、自分の足音だけが響き渡る。部屋着に着替えて、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一息つく。この時間は、いつも寂しかった。友人達との馬鹿騒ぎや街中の喧騒が恋しくなる程に。自分が孤独ではないことは百も承知だが、人間ふとしたことで寂しさを感じるものだと思っている。

そんな僕の気持ちを知ってか、「あの子」は突然現れた。

 窓を覗くと、すぐに「あの子」の姿を見つけた。丁度食事中のようで、美味しそうに食べるその姿に頬が緩む。食事が終わると、こちらに気付いたのか、カーテンの陰に隠れてしまった。恥ずかしがり屋なのか、僕の事が怖いのか、「あの子」の感情を知ることはできないが、そんな素振りもまた、僕の心の隙間を満たしてくれるのだった。

「また明日ね。」

いつものように「あの子」に、聞こえるはずの無い声をかけてカーテンを閉める。次に会うのは明日の朝。どうしようもない寂しさを紛らわせてくれる「あの子」の存在に感謝しながら、垂れ流しのテレビを消して、眠りについた。


 いつものように食事を済ませる。ふと視線を感じて振り向くと、いつものように彼が私を見つめていた。食べ物に貪りつく姿を見られていたと思うと、急に恥ずかしくなり、すぐさま彼の視界から外れた。

 彼は、お構いなしにと言わんばかりに、私の生活風景を覗き見する。最初は、私に危害を加えるのではないか、と怯えていたが、そんな素振りは一切無かった。寧ろ、毎日私の様子を伺いに来て、心配してくれているように感じた。彼がいなくなる前に、必ず何かを私に伝えようとしているのも知っている。何を伝えたいのかは不明だが、穏やかで温かいその表情を見ていると、思わず胸が高鳴った。

彼の優しい表情が好き。彼の仕草の一つ一つが愛おしい。彼の伝えようとしている気持ちを知りたい。彼の事をもっと知りたい。私の頭の中は、日に日に彼の事で一杯になっていく。いずれ、この小さな体を破裂させるような勢いで。しかし、私は、彼にそれを伝える術を持ち合わせていなかった。

 夜空の輝きを見つめながら、自分の無力さを嘆く。視界が淀む。初めての経験だった。溢れ出る夜露を手で拭い、幸せそうに光を発する空に願う。

(貴方達の一欠けの輝きでいい。どうか、私にもその幸せを下さい。)

毎晩のように、雲に隠れようが雨を降らせようが願い続ける私に、彼らも呆れたのだろうか。

私は…私は今、幸せです。


 「あの子」が現れてから数ヶ月が経ったある日、「あの子」は突然姿を消した。欠かさず綺麗に保たれていた「あの子」の部屋は、原型が無いほどすっかり荒れ果ててしまった。「あの子」はもう、ここには戻ってこない。ただ別の場所で強く生きていて欲しい、そう願うことしか出来なかった。僕の小さな孤独は、少しばかり穴を広げたように感じた。

 そんな心配も寂しさも、すぐに無くなった。「あの子」がいなくなった数日後、一人の女性と付き合うことになった。近くのコンビニのアルバイトがきっかけで知り合った彼女。初対面にも関わらず、彼女にはどこか馴れ親しんだ雰囲気があった。どこか親しみを感じる、その程度の関係だった。しかし、どちらからともなく、気付けば僕たちは恋人になっていた。そして、彼女と付き合っていくうちに同棲することになり、彼女は僕の部屋に引っ越してきた。

「懐かしいなぁ。」

窓の外を眺めながら呟く彼女の言葉を、僕は聞き逃さなかった。僕の中で感じていた不思議な親近感の正体に、そこでやっと気がついた。非現実的でありえない奇跡が起こったのだ。確たる証拠は無いが、間違いない。「あの子」は帰ってきたのだ。「あの子」のいつもの場所ではなく、僕のすぐ側に。

「おかえり。」

自然と口から零れた彼女への、「あの子」への言葉。彼女は、その言葉に一瞬きょとんとしていたが、すぐに笑顔を見せて返してくれた。

「ただいま。」

 彼女が僕に好意を持って帰ってきてくれたのか、妖怪・魑魅魍魎の類となって僕を喰らいに来たのか、僕には彼女の本心を知る由は無い。いや、実はその答えが前者だということを知っている。僕と話す時の彼女の笑顔は、陰を作らないほどに眩しいのだ。真実が如何であれ、一つだけ胸を張って言える事がある。

僕は…僕は今、幸せです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

結ばれた糸 夕涼みに麦茶 @gomakonbu32hon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ