◎無関係

 風を切るような音を、直接聞いたのはそのときが初めてだった。

 アナウンスが二番線に電車がくることを告げて、それから数秒後。音を立てて電車がホームに滑り込んできた、その直前。風が、横を走り抜けて行った。

 一瞬、なにが起こったのかはわからなかった。

 けれど脳が反応していた。同時に体も動いていた。

 ギュッと掴むと、体の重心を後ろに落とし、足を踏ん張る。

 すぐにお尻を地面に打ちつけて倒れてしまったけれど、手はきちんと目的のものを掴んでいた。

 見知らぬ男性の腕を。

 何事もなかったこのように、電車が黄色い線の外側に止まる。

 でも、何事もないと感じていたのは電車に乗っていた人々だけだ。腕を掴まれている男性と、近くでその時のことを見ていた人々には、一瞬だったが衝撃な出来事が起こっていた。

 とくに腕を掴まれている男性にとっては、衝撃だったのだろう。

 尻餅をついてもなお、男性の腕は離さずに済んだ。それに安堵してから顔を上げると、彼は呆然とした顔をしていた。思ったよりも若い男性だ。まだ二十代前半ぐらいだろうか。少しよれたスーツを着て、髭も剃っていないもっさりとした雰囲気の男性だった。

 わなわなと男性の口が開く。

「な……な、なんっ、で!」

 意味が解らずに首を傾げると、彼はますます激昂してしまった。

「なんで、止めたんだよ!」

「それは、あなたの自殺をですか?」

 問いかけに、男は歯を見せて唸った。まるで手負いの獣だ。

「そうだよっ。せっかく死ぬ決意ができていたのに。なのに、くそっ。なんだ、偽善者のつもりかよ」

「そんなつもりはありません。私は単純に、目の前で人に死なれるのが嫌だっただけです」

「それを偽善と言うんだろ! 人を助けたつもりになって、ヒーロー気どりか!?」

「だから私はあなたを助けてはいません。助けたのは自分です。目の前で人が死ぬのを見たくはない、自分を助けただけです。あなたはもののついでです。死にたければ、私の目の前以外のどこかで死んでください。私は、あなたの自殺を、止めるつもりはありません」

「はあ? あんたなに言ってんの?」

「ただのエゴの話です。戯言だと、受け取っていただいてもかまいません」

 その騒動をよそに、人を吐き出した電車が再び人を飲み込んで、ホームからでていく。

 電車を乗るタイミングを逃してしまったけれど仕方がない。いまは手負いの獣の相手をしたほうがいい気がした。

「俺は死にたかったのにッ。おまえのせいで、タイミングを逃してしまった。くそっ。最低だ。また明日から同じ日の繰り返しで……もう、くそっ、早く死にてぇ」

「好きに死ねばいいでしょ?」

「あんたがいうなっ! そもそも、あんたが止めなければ、いまごろ俺はこんな日常とはおさらばしてたんだよ!」

「そうですか。それは、さぞあなたにとっては素晴らしいことなんでしょうね。でも、私には最悪な結果が待っていたと思います。あなたが目の前で死んでいたら、いまごろ私は絶望感に支配されていたでしょう。それはほかの人々とて同じこと。目の前で人がグチャグチャになって死んで、気分のいい人間なんていません」

「うるせぇ。あんたらのことなんて、しるかよ」

 男性は座り込んで、こちらをにらんでいた。

「いえ、自殺したいのなら、あとのことを考えてもらわなければ困ります。あなたは、人に迷惑をかけて死にたいのですか?」

「べつにそんなのはどうでもいい。俺は、死ねたら。……でもそうだな、すこしは俺をこんなにした上司に痛い目を見せてやりたい」

「あなたが電車に飛び込んだところで、上司は痛い目を見ませんよ? 物理の面でも、精神の面でも。それは無意味でしかありません」

 男性はまた呆然とした顔になった。考え込むように、顎に手を当てる。

 それから彼は、訊ねてきた。

「じゃあ、どうしたら上司に痛い目を見せてやれる?」

「物理の面でしたら、夜道を襲うとかですかね。精神の面だと……そうですね、家庭をめちゃくちゃにするとか?」

「いや、そんなことしたら俺が犯罪者になるだろ? そうじゃなくて、もっと実現可能なことをだな」

「どちらも実現は可能ですよ。あなたの覚悟さえあれば」

「だからそういう話じゃねーだろ」

「そういう話でしょ。あなたは上司に痛い目を見せたい。その覚悟はもうおありでしょう? だって、あなたは先ほど、覚悟を持って死のうとしていたのですから」

「な……。でもそれとこれとは、違うっていうか……」

「同じぐらい覚悟がないと、できないことですよ」

 口を噤む男性。

 ふと視線を周囲に向けると、ずっと座り込んで話し込んでいたものだから、たくさんの視線がこちらに集中していた。男性はまだ気づいていないようだけれど。

 それに、もうすぐ次の電車がやってくる。その電車乗らなければ遅刻してしまう。

 立ち上がると、服についた埃を払い、近くに落ちていた鞄を拾う。

「待てよ」

 男性に呼び止められた。

 彼は立ち上がると、近くに寄ってきた。

「やっぱり俺は死にたい。上司に痛い目を見せたら、俺も、多分死ぬと思う」

「べつに死ねばいいんじゃないですか? 私の目の前以外で、でしたら」

「……ひとつだけ、訊いていいか? 俺が死にたいって思うのはおかしいことなのか?」

「おかしいこと?」

 少し考える。

 けれど答えは決まっていた。

「おかしくないと、私は思いますよ」

 アナウンスが、もうすぐ電車がホームに来ることを告げている。

 それに少し耳を傾けながら、黄色い線の近くまでいくと、振り返って男性を見た。

「よかった」

 どうやら彼は安堵しているようだ。

 決意は、ほんの少ししか揺らいでいないらしい。

 電車がホームに滑り込んできたのだろう。背後で、プシューっという音とともに、風が服を揺らしてくる。

 彼は、まだ私を見ていた。

 だから、笑って告げてやった。


「ええ。だって、あなたが死にたいっていう想いと、私が死なないでほしいという想いは、無関係ですもの」


 なにもおかしいことではないのだと。

 

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