♡初恋の日。

 その日、わたしは限界にきていた。

 今までのことに耐えかねて、もうこれ以上無理だと、そう思って酒を呷った。

 酒を飲んだら頭が回って、わたしは倒れた。居酒屋でのことだ。


 目を覚ますと、わたしは家にいた。いや、自分の家にいるのだと思った。間取りは同じだし。壁の色も、照明も、わたしの部屋と変わらない――明確に違う部屋。

 たとえばいま寝ている布団、わたしのやつは質素な茶色い布団だ。けれどこれは、青い水玉模様の布団。壁際に、男物のジャケットがハンガーにかかって揺れている。黒く、特別高級でもなさそうなもの。隅に脱ぎちらかった服。干したままになっている服。汚いというわけではないが、綺麗にも見えない1DKの部屋。開いたままになっている扉から、キッチンが覗いている。コンロの上では、ヤカンが音を立てて沸騰していた。


 音が消える。


「どこ、ここ」


 低く囁くと、声が帰ってきた。一人暮らしのわたしの部屋では聞こえるはずのない声。


「おはよう、小野寺さん。コーヒー飲む?」


 沸騰したヤカンのお湯をマグカップに注ぎながら、青年が聞いてくる。背中しか見えていないためよくわからないけれど、その声には少し覚えがあった。

 囁くような、柔らかい――青年にしては少し高く、少年気の残った無邪気な声。

 アパートの隣の部屋に住んでいる、学生の男の子の声だった。たまに朝や帰り道に会ったときに、挨拶をするだけの関係。特別親しいわけじゃなければ、わたしは彼の名前も知らない。


 どうして彼がここに? 違うのだろう。聞かなくてもわかる。ここはアパートの隣室の、彼の部屋だ。


「えっと、昨日の夜のこと覚えています?」


 そこまで大きくない折り畳み式のテーブルの上に、湯気をたてているマグカップを二つ置きながら、彼が訊いてきた。


 覚えている。昨日は、仕事でいろいろあって、わたしは限界にきていた。いつもはなるべく温厚に、怒らないように、やさしく笑えるように、人とのしがらみを作らないように気を付けているつもりだった。けれど昨日、わたしはいろいろいろあり、心底参っていたものだから、帰り道に見つけた居酒屋で酒をたくさん呷った。


 それからの記憶がほとんどない。果たしてわたしは店からどうやって帰ってきたのか。どうして青年の部屋にいるのか。

 まったく覚えていない。


 首を振ると、青年は柔らかく微笑みながら、マグカップを勧めてくる。

 おそるおそるカップに唇をつけて一口飲むと、苦みがわたしの脳を刺激した。


「ミルク、必要ですか?」


 顔を顰めたわたしに気を使ってか、青年が立ち上がる。

 わたしは首を振った。いまのわたしには苦みがある方がいいだろう。


「そうですか。で、先程の質問ですが……」


 頭をぽりぽり掻きながら、青年が言う。


「昨日の夜、バイト終わって帰ってくる道の途中で、小野寺さんが倒れているのを見つけまして。あのままでは危ないと思って、僕の部屋に運んでしまいました。小野寺さんの持ち物を漁って鍵を見つけるわけにはいきませんし、夜はまだ少し寒いので、僕の家なら安全かな、っと。あ、大丈夫ですよ。僕は男ですが、節操なく女性を襲ったりしませんし、そういう目的はまったくありませんでしたから! すみません」


 何に対して謝っているのだろうか。わたしは思わず笑う。


「ありがとう」


 道で泥酔して倒れているわたしを見つけたのが、彼でよかった。もし変な男に見つけられていたらと考えると、恐怖と共に寒気を感じる。この青年なら安心できると、わたしは安堵していた。


「い、いえ。あ、その、僕はまだ名乗っていませんでしたっけ。伊島克志いじまかつしです」

小野寺幸おのでらみゆきです。ごめんなさい。あなたはわたしの名前を覚えてくれていたのに、わたしは忘れていたみたい」

「いえいえそんな。僕は、その、も、物覚えがいいだけですから!」


 くすっと思わず笑う。


「どうして笑うんですか?」

「ごめんなさいね。なんでそんなに焦っているのか気になって……。なんだか見ていて面白くて、つい」

「あ、焦っているのは、その」


 伊島くんは口を濁すと横を向いてしまった。

 わたしはまた笑う。

 なんだろうか。彼と話すのに、変に気を使う必要がないものだから、リラックスして話すことができる。


 マグカップに口をつける。

 苦みと、温かさ。わたしはこの味を好きだ、と思った。

 わたしは、甘いものが好きというわけではないけれど、特別な刺激を求めているわけではない。


 わたしは、平穏を望んでいる。できれば誰かと諍いを起こすことなく、怒ったり怒られたりすることなく、平穏に、変化のあまりない日常を愛おしく思って生きていきたいと思っている。

 だから、わたしは昔から我慢してきた。怒りたくなっても、我慢。笑われても、我慢。反論したら相手を傷つけてしまうと思えば、我慢。極力否定的な言葉は使わないように、我慢して、愛想よく笑い、言葉を選んで人と会話をするように、日々心掛けている。


 それなのに。昨日、わたしは失敗した。上司を怒らせてしまった。後輩の愚痴をたくさん聞かされた。ほんとうに参っていた。どちらも否定できない板挟みに、わたしは苦しくなって、慣れないお酒を呷ったのだ。


「小野寺さん?」


 暗い顔になっていたのか、心配をかけてしまったみたいだ。

 わたしは微笑む。


「少し酔いが残っているみたい。昨日、呑みすぎたから」

「……それならいいのですが。その、小野寺さん。何かあったのなら、無理やり笑みを浮かべる必要はないんですよ」


 え?


「あなたはいつもそうです。無理やり愛想よくしようと、いつも苦しそうな顔を隠している。僕はよく小野寺さんのことを見ていて、いつもそれが心配で……」


 はっと、伊島くんは口を噤んだ。なぜか頬を赤くして視線を逸らす。


「すみません。とにかく、僕の前にいるときぐらい、自然にしてくれませんか?」

「自然?」

「はい。あなたが無理な笑みを浮かべていると、僕までつらくなってきます」

「……どうして?」

「それは、その。さっきも言いましたけど、心配で」


 どうして? あなたがそんなことで心配する必要なんて、少しもありはしないのに。


「僕は、小野寺さんのことが、好きだから」

「え、す、好き?」


 伊島くんは焦って目線を部屋中に向けて、ぐるぐるする。

 わたしも、そんな彼の焦りが伝達してきて、思わず目をぐるぐる回してしまった。


 彼が、わたしのことを好き? 今日まで、挨拶以外まともに会話したことないのに。いつも愛想笑いを浮かべて、温厚な人間でいようとしているわたしの、どこを好きになったというのだろうか。


 つらつらと、伊島くんが語り始める。


「最初は、一目惚れでした。ここに越してきて、隣の部屋に挨拶をしに行ったときに、小野寺さん笑顔が素敵で、ずっと忘れられなかったんです。それからたまに見かけたときに挨拶の言葉を交わすのが、いつも楽しみでした」


 そういえば、挨拶をするのはいつも伊島くんの方からだった。わたしは、それに応えていただけ。


「でも、ある日、気づいたんです。小野寺さんと挨拶を交わしているとき、たまに一瞬、とても寂しそうな顔をすることに。本当に一瞬だったので最初は見間違いかと思いました。けど、仕事の終りにとても暗い顔をして帰ってくることが多いことに、だいぶ前から気づいていました。それからずっと想っていたんです。どうして、挨拶をするとき無理して笑うのだろうって。そう思ったら、無理した笑顔の小野寺さんの顔を見るのがつらいことに気づいて。なんでなんだろうって考えて。ああ、僕は、小野寺さんのことが好きなんだなぁって気づいて。もっと、小野寺さんのいろんな表情を見てみたいなぁって。そう、思って」


 恥ずかしそうに、伊島くんが頭を掻く。


「僕は、初めて会ったときには、もう小野寺さんのことを好きなっていたみたいなんです。だから些細な変化にも気づくことができて、小野寺さんが無理に笑わなくても良くなるように、下の名前の通りに幸せになってもらうにはどうしたらいいのか、最近いろいろ考えていて……。正直、今のこの状況には、運命を感じています。思いを伝えるなら今だって、そう思いました。僕はまだ学生です。小野寺さんを幸せにするには、力が足りないかもしれない。でもっ」


 顔を真っ赤にしながらも、伊島くんは真っ直ぐわたしの目を見て、大切な言葉を口にする。


「僕は、小野寺さんのことが好きです! あなたを、絶対に幸せにしてみせます!」


 唐突な告白に戸惑い、わたしはいつもの笑みを忘れてしまった。

 そして、迷いながらも答える。


「ごめんなさい」


 頭を下げる。

 わたしには、彼の想いを受け入れることができない。わたしは、彼のことを隣人としか思っていなかったのだ。名前も今日知った。そんな人物からの突然の告白を受け入れられるほど、わたしは軽率な人間ではない。誰からも嫌われないように、温厚な自分を作り出してでしか生きられない、臆病な人間だ。


 自分の荷物を持って立ち上がる。


「ごめんなさい」


 もう一度そう言うと、わたしは伊島くんの家から飛び出した。彼の横を通る際、彼がとても寂しそうな顔をしていたのが気にかかったものの、告白を断られた相手からの気遣いの言葉なんて、余計につらい思いをさせるだけだ。

 わたしは自分の家に戻ると、玄関の扉に背中を預けて、ずるずると尻餅をついた。


 いまになって、体がほてってくる。

 よく考えると、今までの人生で産まれて初めて受けた告白だ。

 好きだって言われたのは、初めてだった。


 心臓が早鐘を打っている。恥ずかしい。こんなみっともない顔、誰にも見せられない。

 足に顔を埋める。


「どーしよー」


 高鳴る心臓は、なかなか静まることを知らないみたいだ。


 恥ずかしい。

 恥ずかしくって、死んでしまいそうだ。


 伊島くんの柔らかい笑みが、唐突に脳裏に浮かび上がる。

 首を振って消そうとしても、なぜだか離れなかった。


「ええい」


 耳を抑える。それでも離れない。

 わたしは無意味な抵抗をやめて、項垂れるように全身を玄関の扉に預けた。


 わたしは、どうしてこんなにも伊島くんのことを考えているのだろうか。フラれた彼がいま傷ついているんじゃないかと、心配になっているのだろうか。

 しばらく考える。


「そうかぁ……」


 答えは一つしか思い浮かばなかった。

 わたしはきっと。


 ――だけど。


 彼は、わたしよりも年下だ。

 わたしは、彼よりも年上だ。

 しかも告白を一度断っている。もう嫌われているかもしれない。

 こんなわたしを、彼は受け入れてくれるのだろうか。


 ――ううん。


 いままで我慢してきたのだから、少しぐらいわがままになってもいいかもしれない。


 今日、初めて感じるこの気持ちを、わたしは恋なのだと知った。

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