第九章 蒲生千紘

 横山照光を操っていた数学教師の蒲生千紘にあと一歩のところで逃げられた道明寺かすみは、作戦変更を考えた。このまま横山を通じて敵を探ると、彼が殺される危険性があるからだ。そのため、横山の親友の風間勇太にも素っ気なくした。注目させたくないからだ。そのせいで、勇太は酷く落ち込んでしまったが。

(俺、かすみちゃんを怒らせるような事をしたかなあ?)

 授業中、ずっとそんな事を考えていたため、

「風間くうん、今日は居残りねえ。ボンヤリしていた罰よお」

 アニメ声の甘ったるい口調で千紘に告げられた勇太は、ビクッとしてしまった。かすみもハッとした。

(蒲生先生がもし横山君を操っていたのであれば、勇太君が危ない?)

 断定できない程度しか状況証拠がないため、判断しかねるかすみである。

(さて、道明寺かすみ、どうする? 風間勇太を救うために動くか?)

 勇太に微笑みながら、千紘の目は動揺しているかすみを観察していた。

「はい……」

 勇太は項垂れて応じた。かすみはまだ迷っていた。

(どうすればいい?)

 かすみは勇太を流し目で見たままで教室を出ている千紘をチラッと見た。もちろん、千紘はかすみの視線を捉えていた。

(好きなだけ迷いな)

 千紘は勝ち誇った笑みを浮かべ、廊下を歩いて行く。それを多くの男子生徒がジッと眺めていた。千紘が階段の踊り場に来た時、黒革のスカートのポケットで携帯電話が振動した。千紘は面倒臭そうな顔で舌打ちをし、携帯を取り出して通話を開始した。

「何の用かしら?」

 彼女の声は素っ気なかった。

「おいおい、恋人からのラブコールに随分な応答だな、チヒロ」

 男の声が言った。千紘は鼻で笑い、

「雑魚の一匹も仕留められないような腰抜けを恋人にした覚えはないね」

 アニメ声ではなくドスの利いた声で応じた。

「お前だって、カスミを仕留め損ねたんだろ? おあいこじゃねえかよ」

 男が返した、図星を突かれた千紘の顔が怒気を帯びた。

「私は仕事中なんだよ。用件は?」

 更に声が荒々しくなる。男は笑いながら、

「悪かったよ。今度思いっきり気持ち良くしてあげるから、機嫌直せよ」

「切るよ」

 千紘は苛ついていた。

(こんなバカにあれこれ言われたくない!)

 するとようやく男は本題に入った。

「わかったよ。ちょっとばかし、力を使い過ぎたんだ。充填したいから、頼むぜ」

「今日の午後九時に学園の裏庭で待ってるよ」

 それだけ言うと、千紘は通話を終え、電源も落としてしまった。

(下衆が……)

 千紘は携帯をポケットにねじ込むと、階段を駆け下りた。


 かすみは教室を出た勇太を追いかけた。

「勇太君、ちょっといい?」

 勇太はかすみが話しかけてくれたので、小さくガッツポーズをして振り返った。

「あ……」

 すると、かすみの背後に幼馴染みの桜小路あやねが仁王立ちしているのが見えた。かすみも勇太の顔が引きつるのを見て後ろを見た。

「あ、あやねさん」

 かすみはまずはあやねに話をしようと思い、彼女に近づいた。あやねはまさかかすみが振り返って近づいて来るとは思わなかったので、ドキドキしていた。

(おお、両巨頭の直接対決か?)

 あやねの親衛隊の男子達は固唾を呑んで動向を見守った。

「ちょっといい、あやねさん?」

 かすみは敵に罠を仕掛けようと思い立ったのだ。

「横山君の事なんだけど、原因がわかったわ」

 かすみはあやねの耳元で囁いた。あやねはそんなつもりはなかったのだが、顔が紅潮してしまった。

(かすみさん、いい匂いがする……)

 かすみはそんなあやねに気づく事なく、話を続けた。

「この前、外で会ったサイキックのせいみたいなの。それを今、森石さんに調べてもらっているところなの」

「そ、そうなんだ」

 全然意味がわからないあやねだったが、苦笑いして応じた。

(かすみさんは何をするつもりなのかしら?)

 かすみが異能者だと知っているあやねは、彼女が何かをなそうとしていると察した。

(この会話を敵が捉えてくれていれば、何か反応があるはず)

 かすみはそれに賭けようと思っていた。


 かすみの狙い通り、あやねとの会話は千紘に聞かれていた。

(あのドジが仕留め損なったお陰で、妙な事になりそうだね)

 千紘は標的を勇太から別の人物に変える事にした。彼女は不敵な笑みを浮かべ、廊下を進んだ。そして、保健室の前で立ち止まり、ドアをノックした。

「どうぞ、空いてるよ」

 中から「保健室の魔女」の異名を持つ中里満智子の声が応じた。

「失礼しますう」

 千紘はまたアニメ声を使い、ドアを開いた。

「お、蒲生先生、どうしましたか?」

 机で種類に目を通していた中里が振り返って立ち上がった。別に彼女自身にはそんなつもりはないのだが、千紘はその威圧感に苦笑いした。

(こいつ、能力者ではないのにどうしてこれほど他者を圧倒するのだ?)

 そんな腹の内は噯気おくびにも出さず、千紘は微笑み、

「ちょっとご相談したい事がありましてえ」

 中里に勧められた丸椅子に腰掛けながら告げた。中里はバッと白衣の裾を払って直すと、回転椅子に座り、

「相談? どんな事です? 体調が悪いのですか?」

 目を細めて千紘の顔を観察した。千紘は小首を傾げてニコッとし、

「いえ、違うんですう。私ではなく、新堂先生の事なんですう」

「新堂先生?」

 その名前を言われると、中里はピクンとしてしまう自分が情けなかった。

(男はああいうタイプの女性が好きなんだよ……)

 中里は知っている訳ではないのだが、気になる存在である森石章太郎と新堂みずほが付き合っているのではないかと考えているのだ。千紘は中里の心の動揺を読み解いていた。それが彼女の力、精神測定サイコメトリー能力である。

(こいつの方が使い勝手がいいかも知れないな)

 千紘は力を中里に向け始めた。

「新堂先生が、悪い男と付き合っているみたいなんですう。大柄で細身で丸刈りの三十代前半くらいの男なんですう」

 中里の目が見開かれた。

(食いついて来た!)

 千紘は俯いてフッと笑い、

「新堂先生、あまり男性経験はなさそうなので、騙されているのではないかと心配なんですう」

 更に力を使って中里の深層心理の奥底まで潜り込んで行く。

(うまくすれば、道明寺だけではなく、森石も始末できるかもね)

 千紘はボスである小藤弘の信頼を独占しようとしているのだ。

「……」

 中里はみずほの交際相手が森石だと確信していた。

(やっぱり……)

 みずほを憎む気持ちも森石を蔑む気持ちもなかった。キッパリ諦めようと決断しかけた。だが、千紘の能力がそれを阻んだ。

(だめだよ、保健室の魔女さん。あんたも私と魔女の名を二分しているんだから、もっと頑張りなよ)

 消えかかっていた中里の嫉妬の炎を千紘が焚き付け、業火に変えてしまった。

「いいんですか、中里先生ィ? 貴方の好きな人をあんな小娘に取られて?」

 千紘のその囁きが中里の支配した。彼女の瞳孔が開き、瞼が半分まで下がった。千紘はニヤリとし、

(サイコメトリー完了)

 中里は千紘の操り人形になった。


 放課後になった。

「風間くうん、今日は私、予定があったのお。居残りはまた明日ねえ」

 アニメ声を駆使して、千紘は勇太に告げた。勇太はホッとすると同時にほんの少しだけがっかりもした。

(二人きりで、あの声で囁かれたら、どうかしちまいそうだ)

 そんな事を妄想したのをあやねに知られれば、どうなるかわからない。

「かっすみちゃあん、帰ろうよ……」

 横山が陽気に教室に飛び込んで来たが、かすみはもういなかった。

「あっれえ、勇太、かっすみちゃあんはどうした?」

 涙目で顔を近づける横山を鬱陶しそうに押しのけ、

「知らないよ。もう帰ったんだろ」

 あやねが怖い勇太は素っ気なく言った。

「かっすみちゃあんはもしかして、外に男でもできたのかなあ」

 妙な心配をし始める横山を勇太は半目で見た。

 

 かすみは隣のクラスの片橋留美子と下校し、天翔学園大学に進学した手塚治子と合流して、森石に会いに行こうとしていた。待ち合わせのカフェに行く道すがら、かすみは留美子と治子に横山の事を話した。

「それは恐らく精神測定能力ね。その男子、また操られる可能性があるわ」

 治子が言った。かすみは頷いて、

「そう思ったので、ちょっと罠を仕掛けてみたんです」

 治子と留美子はかすみの大胆な作戦に目を見開いた。

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