第八章 敵の正体の片鱗

 保健室の魔女の異名を持つ中里満智子は、かすみに噛みつかれて口の周囲を負傷した横山照光の治療を雑にすませ、

「これを当てておけ」

 消毒液を含ませた脱脂綿を渡した。

「ひいい、もの凄くしみて痛いっすよお」

 泣き言を言う横山は非情にも無視され、中里は彼を部屋の端にある椅子に座らせると、かすみと相対するように背もたれのあるキャスター付きの椅子を移動させて腰を下ろした。

「お前が狙いだという事は、死んだ天馬理事長と繋がりがあるのか?」

 中里は声を低くして尋ねた。かすみは、例え筆談してもここでの会話は敵に筒抜けの可能性があると思っているので、

「わかりません。誰がそうなのかも見当もつかないんです」

 半分本当の事を言った。わからなくはないが、今は自分の力を敵に制御されているので探る事ができないのであるが、それを中里に話したら、彼女も狙われてしまうかも知れないのだ。そして何より、一度操られた横山が、完全に敵との繋がりを断たれているのか判断しかねるからでもあった。中里も、前回の事件のほぼ全容を理解しているので、敵がどれ程恐ろしい存在かは承知している。だから彼女は横山を遠ざけた。しかし、中里の警戒心が追いつかない程、敵は強大でどこまで入り込んで来ているかわからないのだ。

(少なくとも、中里先生と新堂先生は取り込まれてはいないようね)

 かすみは少しだけ安心した。

(横山君を操りながら、ロープを見えないところから操作し、尚且つ私が追跡トレースしようとしたのをすぐに察知して引き上げたあの手並みから判断して、敵は慎重な上に相当なレベルの能力者だと言える)

 千里眼クレヤボヤンスの能力を持つ手塚治子が言っていた高等部全体を覆い尽くしている能力者が森石章太郎が指摘していた敵のボスだとすれば、前回苦戦を強いられた天馬翔子より手強い可能性は十分あった。外科医でもある中里はカウンセリングも担当しているのではないかというくらい人の心が読めるようだ。彼女はかすみが話せないのを悟り、黙って頷いた。

(敵はどこに『耳』を仕掛けているかわからないという事だな)

 翔子の時は、敵がどこにいるのかさえわからなかったから、警戒のしようがなかった。今回は確実に学園内部にいるのはわかっている。わかっているが故に、動き辛いのだ。かすみはその時、横山を操っている敵の正体が少しだけ見えた理由に思い至った。

(そうか……)

 かすみはションボリている横山に近づいた。

「おい、道明寺、そいつに不用意に近づかない方がいいぞ」

 中里が目を細めて言ったが、かすみは微笑んで、

「大丈夫ですよ」

 横山の右肩を叩いた。

「元気出して、横山君。貴方は何も悪くないんだから。それに考えてみたら、私、横山君に大胆な事しちゃったんだね」

「へ?」

 何を言われているのかわからない横山はポカンとした顔でかすみを見上げた。かすみは照れ臭そうに、

「だって、横山君の唇に噛みついたんだよ。これって、表現を変えると、私が横山君にキスしたって事だよね」

 かすみのその言葉に横山はドキッとした。スケベを標榜していても、本当のところは純な横山は赤面してしまった。

(キス?)

 その言葉が呼び水になり、横山の記憶の奥底に封じ込められていた数学教師の蒲生千紘との激しい口づけが鮮明に甦って来た。

(もう少しだ)

 かすみは横山の深層心理の奥底に沈められている敵の残像を見極めようと意識を集中した。


(おのれ!)

 職員室にいた千紘は、かすみが横山の記憶を誘導して自分に辿り着こうとしているのを感じ取り、横山に残していた自分の力を全部引き払った。

(道明寺かすみめ、想像以上に切れるな)

 千紘が舌打ちしたのを新堂みずほが聞きつけた。

「蒲生先生、どうなさったのですか?」

 みずほは全く他意なくそう尋ねた。あまりにも絶妙なタイミングだったので、千紘は一瞬みずほを能力者ではないかと疑いかけた。

(思い過ごしだ。こんな惚けた女が能力者のはずがない)

 随分と失礼な判断だが、間違ってはいない。千紘は苦笑いして、

「別に何でもないですよお、新堂先生」

 猫をかぶった口調で返事をした。みずほも何か根拠があって訊いた訳ではないので、

「そうなんですか」

 微笑んでそのまま自分の席に着いた。千紘は背中に冷たい汗を掻いているのに気づき、歯軋りした。

(道明寺かすみ……。やはり底知れない力を持っているというのは本当のようだな……)

 千紘はかすみに対する畏怖の念を排除し、数学教師の仮面を被り直した。

「ああ、ホームルームが始まっちゃうわ。急がないと」

 網タイツを履いた脚を意図的に周囲の男性教師に見せつけながら、千紘はトテトテと職員室を出て行った。

(私も蒲生先生みたいな色気があれば……)

 自分の幼さを省みて項垂れるみずほである。


(また気づかれた……)

 かすみは横山を操っていた敵がこちらの動きを察知して繋がりを完全に切ったのを感じた。

(横山君を操っている敵を感じる事ができたのは、実際には違うけれど、形の上では私が彼と『キス』をしたから。という事は、敵も横山君とキスをした。でもさっき、その記憶ごと敵は横山君から撤収してしまった)

 かすみは横山の昨日の行動を思い出した。

(横山君は蒲生先生の補修を受けたんだっけ……。もしかして……?)

 かすみは真相のすぐそばまで辿り着いていた。だが、そこで考えるのをやめた。

(これ以上横山君を通じて探りを入れると、彼が殺されてしまう可能性がある。別ルートで探るしかないか)

 かすみはもう一度森石に会う事にした。


「二人共、遅いなあ」

 廊下に仁王立ちして、実は横山が好きな五十嵐美由子が呟いた。

「美由子、授業始まるよ」

 桜小路あやねが声をかけた。美由子は仕方なさそうに教室に戻りかけたが、ちょうどその時、廊下の角を曲がって、かすみと横山が姿を見せた。何故か項垂れている横山をかすみがなだめているように見えて、美由子はちょっと嫉妬してしまった。

(かすみさんが照の事を何とも思っていないのはわかってるけど……)

 居たたまれなくなり、美由子は廊下を駆け出した。

「照、遅い! 早くしないと、先生が来ちゃうぞ!」

 その声にかすみはハッとし、横山はビクッとした。

「かっすみちゃあん、どうもありがとう、じゃあねえ」

 階段を挿んで右と左に別れる二人なので、横山は目を吊り上げて走って来る美由子に愛想笑いをしながら近づいた。

「え、あ、うん」

 いつもの横山なら、かすみに纏わり付きながらついて来るのだが、今日は勝手が違うようだ。かすみは美由子に微笑むと、自分のクラスである一組に向かって歩き出した。その教室の前に風間勇太が心配そうな顔で立っている。

「かすみちゃん、大丈夫だった?」

 彼は親友の横山の節操のなさを知っているので、そればかり心配していたのだ。

(風間にはあやね様を諦めて欲しいが、道明寺さんとも仲良くして欲しくない)

 あやねの親衛隊の男子達は複雑な思いで勇太を見ていた。

(今日一日を凌げるのかな?)

 敵に迫ろうとした事で、相手を刺激したと思ったかすみは、敵が何かを仕掛けて来るのではないかと警戒している。だから、横山の事も、勇太の事も心配なのだ。

(勇太君、今日は悪いけど、愛想悪くするね)

 かすみは勇太が声をかけたのを無視して、そのまま教室に入ってしまった。

「かすみちゃん……」

 勇太はそれがショックで、項垂れてしまった。あやねの親衛隊はそれを喜んでいいのか悲しんでいいのか判断しかねる顔をしていた。

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