最終話 そして書きつづけよう

 プリント原稿に朱を入れていると、メールが来た。

 推敲作業をはじめてから一週間後のことであった。


「んっ? ぺろぺろ文庫の人からだ」


 ぺろぺろ文庫とはつきあいがない。

 どこで連絡先を知ったのかと彼は不思議に思った。


「ふむふむ……『木村さんからの紹介で――』って、って誰だ?」


「ふわふわ文庫の編集者だろう。いまはだが」


「あっ、あの木村さんか。本当に僕の原稿を世話してくれたんだ。やっぱり信頼できる人だなあ」


の名前を忘れるというのはいったいどういう了見なのか」


 先生が鼻を鳴らす。


 彼はさっそく返信してアポを取った。


   □□□□□□□


 打ちあわせ当日、とうという若い編集者と会って社内の会議室に入った。


「私、尾崎クリムゾンさんの担当をしておりまして――」


 名刺入れを革装のノートに並べて置きながら伊藤はいった。


 尾崎クリムゾンはベテランなのでほぼすべてのレーベルで本を出している。


「先日、その尾崎さんと打ちあわせをしていたのですが、そこで石川さんの話題が出まして、ふわふわ文庫が潰れて企画が中断しているということでしたので、木村さんに連絡を取ってみました。木村さんは個人的に知りあいなのです。すると石川さんの担当だったということで、いろいろとお話を聞くことができました。これは何かの御縁なのではないかと思います。ぜひ私どものレーベルでその企画を進めさせてください」


「はい。よろしくお願いします」


 彼は頭をさげた。


 話を聞いてみると、木村が奔走してくれたわけではなく、尾崎クリムゾンの口利きがあってのことであった。


「どこか別のレーベルとコンタクトを取ったりされてます?」


「いえ。これから原稿を持っていく先をさがそうとしていたところで」


「そうですか。それでは原稿の方、こちらにお送りいただけますか」


「わかりました」


 彼はボールペンを手の中で転がした。「あの……木村さんってどこかのレーベルに移られたんですか」


「いえ。教育関係の会社に入られたそうですよ」


 伊藤の答えに彼は諸行無常を思った。


 ふわふわ文庫の入っていたきれいなオフィスビルで、木村は熱心にラノベ業界のことを語っていた。


 その木村が業界を離れ、彼は残っている。


 レーベルが消滅したために新天地を求めなければならなかった木村と、他に行くところのない彼、どちらが不幸なのかはわからない。


 彼は窓の外に目をやった。


 向かいのビルでは暗い色のスーツを着た男女が集まって会議を開いている。

 彼にはそれがフィクションの世界のものであるように思えた。


   □□□□□□□


 宙に浮いていた原稿の引きとり手が決まって彼は足取りも軽く帰宅した。


 箱の中で丸くなっていた先生を抱きあげ、ぺろぺろ文庫の件を先生に報告する。


「僕は才能もないのに運と縁だけでこの仕事をつづけているような気がしますよ」


「才能があって運と縁がないのは悲劇だが、才能がなくて運と縁があるのは喜劇だ。近くで見せられるのなら喜劇の方がいい」


 先生は彼の腕を脱してキャットタワーをかけのぼった。


 彼はノートパソコンを開いて原稿のファイルを伊藤に送る。


「あれっ……そういえば、なんで尾崎先生が僕の原稿のこと知ってるんだろう」


「和泉美良が話したのではないか」


「あっ、そうか。じゃあ和泉さんにお礼いっとかないとな」


 彼は美良に電話をかけた。

 たまに近況をメールで伝えてはいるが、声はしばらく聞いていない。


『ひさしぶり。布団さん元気だった?』


 若い彼女の声は、彼の生活においては決して聞かれぬみずみずしさでスピーカーから響いた。


「おかげさまで。和泉さんはどうですか。いまいそがしいんですか」


『まあまあってとこ。睡眠時間足りなくて座ると眠っちゃうから、立ったまま書いてるよ』


「それは……どころではないような……」


『布団さんは? 相撲のやつどうなったの』


「その件なんですが――」


 彼はぺろぺろ文庫での出来事を語った。


『ああ、いわれてみれば尾崎先生の家でそんな話したような気がする』


「おかげで原稿を読んでもらえそうです。ありがとうございます。尾崎先生にもよろしくお伝えください」


『気にしないで。ロックが飢え死にしたら私も先生も悲しいからね』


「和泉さんはいま何書いてるんですか」


『いまは『京野照葉』の単行本が出るからその作業と、それに合わせて『小説新星』に載る最新話を書いてる』


「早くも単行本になりますか。おめでとうございます」


『あとは『オール讀本よみほん』で連載はじめる』


「ええっ! 池上春太郎先生が『神平犯かみへいはんちょう』を連載していたあの『オール讀本』ですか!」


『布団さんって価値基準それ以外にないの?』


「いやあ、すごいなあ。売れっ子ですねえ。新作はどういう話なんですか」


『女子大生が50代のおじさんと恋をする官能ストーリー』


「えっ……それってまさか、和泉さんがモデルだったりするとか……」


『おっ、いいリアクションだね。私と主人公が重なって見えるようなトラップを本文にもたくさん仕込んであるんだ。今回、中高年男性をターゲットにしてるからさ、そういう楽しみ方もできるように作ってあるの』


「ま、まさか……和泉さんの実体験じゃないでしょうね」


『ん~、ノーコメント』


 美良がいたずらっぽく笑う。


 彼は急激な吐き気に襲われた。


「駄目ですよ! 和泉さんみたいな人がおっさんに近づいちゃ駄目です! おっさんは若い女性をいやらしい目で見るに決まってるんですから、近づくのは危険です!」


『いやいや、そうと決まってはないでしょ』


「決まってますよ! 僕にはわかるんです。もう僕もおっさんと呼ばれるような年齢ですからね」


『じゃあ布団さんも私のこといやらしい目で見てたの?』


「えっ……いや、それは……」


『見てたんだ』


「いや、その……ちょっとだけ」


 彼が答えると美良は大笑いした。


『布団さんマジうける。今度そのっていうのを取材させてもらうわ。ロックにも会いたいしね。ロック~、聞こえる~? これスピーカーでしょ? ロック、声を聞かせて』


 美良の呼びかけに先生はニャーンと長く鳴いて答えた。


『布団さん、またね。初稿あがったら遊びに行くから。あとケーキはチョコにして』


 通話が切られて彼は深くため息をついた。


 先生がキャットタワーから彼を見おろす。


「翻弄されているな」


「いやもう、ホント疲れますよ……」


「きっと新作を読む男たちも翻弄されることだろう」


「女性は怖いですね。女性作家はなおさらです」


 彼は立ちあがり、キャットタワーの先生を見あげた。「僕は猫を相手にしている方が楽です。小説も猫の小説を書きたい。でも猫が出るだけじゃふつうだから……猫型ロボットっていうのはどうでしょう。少年と猫型ロボットが冒険をする。ロボットだから近未来で、荒廃した都市を舞台にするとか――」


「あの青いのに勝てるかな」


 先生は彼の抱っこしようとする手をかわして床に飛びおりた。


   □□□□□□□


 原稿を送って1週間後、伊藤からメールが来た。


「ふむふむ……ああ、あそこの心理描写がちょっと雑だったか……んっ? 20? そんな……」


 彼は愕然とした。


 キーボードの上で丸くなっていた先生はそこからどこうともしない。


「ふむ。300ページあるのを280ページにしろというのか。300ページを超えると本の単価があがるからな。本文280ページなら挿絵などを入れても300に収まる」


「いや、無理ですよ。これでもかなり詰めこんでるのに、ここからさらに減らすなんて。ダイエットでいったら脂肪を落としきってあとは内臓を摘出するしかないレベルです」


 彼は床に寝ころがり、頭を抱えた。「ああ、なんでこううまく行かないんだ」


 しばらくそうしていたあとで、彼はやにわに立ちあがった。


「みんなで出稽古に行くシーン、あれ必要ないな。とすると、その伏線となるあそこも削れる――20ページ、いけるかもしれない」


 彼は机に向かい、プリント原稿に赤を入れはじめた。


「むしろこっちの方がおもしろくなりそうだ。作家としての勘がそういっている」


「作家としての勘を信じた結果がいまのこの有様なわけだが」


 先生がキーボードの上で大きな欠伸をした。


   □□□□□□□


 そうしてできた原稿が編集会議をとおった。

 3週間後のことであった。


「やった! ついに本が出るぞ!」


 彼はハイタッチをしようと手を伸ばしたが、先生はそれを見あげるだけである。


「『猛毒ピロリ』の読者も石川布団の名前など忘れてしまっているだろうな」


「そうですねえ。あれを読んでくれた人なら今回のも楽しめると思うんですけど」


「ブログをはじめて告知してみたらどうだ」


 先生の提案に彼は顔をしかめた。


「そういうの苦手なんですよね。素人でも作れるものなんでしょうか」


 ブログの作り方について調べていると、メールが届いた。

 ピコピコ文庫の齋藤からである。


「何だろう……おっ、仕事の話だ。『スラッシュラビリンス』というゲームのノベライズをやらないかといってきてます」


「どんなゲームだ」


「スマホゲームらしいです。スマホ持ってないからそういうのよくわからないな」


「ではことわるのか」


「やりますよ。仕事のオファーなんてはじめてですからね。やっぱり持つべきものは信頼できる担当さんだな。齋藤さんは僕の一番の理解者ですよ」


から毎年年賀状をもらって一度も返事をしないとはいったいどういう了見なのか」


 彼は先生を抱きあげ、頬ずりした。


「これからいそがしくなるぞ! 石川布団の第2章が幕を開けるんだ!」


「私が編集者なら前の章は全削除を命じるだろうな」


 先生は彼の顔を押しのけ、床に飛びおりて毛づくろいをはじめた。


       ○


 その夜、電気の消えた部屋で先生は、月の光に誘われるようにしてAmaxonの箱から起きだした。


 外は満月であった。


 机の上に跳びのると、カーテンの隙間から漏れ入る月光が先生の体に白い帯を作った。

 先生はそれを舐めた。

 色がかわっても毛の味はいつもとかわりない。


 光の帯は机の端で途切れて床に落ち、布団で眠るオフトンの体を横断して歪んだ。


(しあわせそうな顔をして眠っている……)


 太くなった瞳で先生は見た。


 胃腸の弱いオフトンは夏でも毛布を腹にかける。


(1年かけて思い悩んで東奔西走して、それでいくらになるのだ)


(割にも合わぬ金を得て浮かれている)


(哀れなものだ)


 長い時間をついやしてできあがるものは文庫本1冊。

 速い者なら2時間で読了してしまうほどのものである。


(だがオフトンよ、おまえは書くのだ)


(書かねばならぬのだ)


(おまえは漱石にも鷗外にもなれずに終わるだろう)


(生まれ持ったものがちがう)


(だが漱石も鷗外も、いまを生きておまえのように書くことはできない)


(だから書くのだ、オフトンよ)


(おまえはとうとい)


(かつて生き、書き、とうとかった者たちがおまえの遠い遠いおやとしてある)


(どんなつまらん文章にもかならず祖がいる)


(すべてのことばの申し子としていまこの瞬間、オフトンの書くことばはあるのだ)


 先生は机の上で伸びをした。


 誰に教わったことでもないが、やり方は知っていた。


 座って尻尾を体に巻きつける。

 そのしなやかさを先生はうつくしいと思った。


 窓から差しこむ月光もうつくしい。

 誰かにそう教えられたわけではないが、先生の心はそう動いた。


 静かに地上へ降りそそぐ光をはばかってか、エアコンがうなりを止めた。


(猫はかつて人間のそばで暮らすことを選んだ)


(私にはその選択が1匹の猫の意志によるものだとはとうてい思われない)


(選んだのは猫という種そのものだ)


(種というひとつの大きな命が生きながらえるために野生を捨てたのだ)


(作家というのもひとつの命なのだろう)


(漱石も鷗外も、萬葉まんようしゅうの名もなき歌人も、みやこの女房も、武士も町人も、流行作家もおたずね者も、みな書くことで作家という命を生かしつづけてきた)


(彼らが生きようと死のうと、病もうと飢えようと、作家という命は一顧だにしない)


(草木が実らぬ種をばらまいて平気なように、個々の破滅などは織りこみずみだ)


(奴は書く者さえあれば生きていける)


(だから「誰が書くか」ということは問題にしないのだ)


(だがそれでもオフトンよ、おまえは書け)


(懸命に生き、そして書け)


(おまえの書いたものは、たとえ世に出たところで何も生まずにすぐ忘れさられる)


(だがおまえの書くことばはいま、大きな命を生かし、次に生まれてくることばたちを準備するだろう)


(報われぬまま書け、オフトンよ)


(私がおまえを見ていてやる)


(同じ大きな命を担う者として、敬意を表し、これからもずっとおまえをオフトンにしてやろう)


 先生は机から音もなく飛びおりた。


 オフトンの胸に足をかける。


 体重をかけるとオフトンが「うぐっ」とうめく。

 それに構わず先生は伸しかかり、腹を出して寝た。


 目を閉じると白い月光の帯が瞼の裏に浮かぶ。

 その色からお豆腐を先生は連想した。


 お豆腐ならば鍋いっぱい食べたい。


 1人用のアルミ鍋なんかではなく、相撲部屋で力士たちが囲む大鍋だ。


 それほど大きな鍋ならば先生だけでなくオフトンも和泉美良も尾崎クリムゾンも漱石も鷗外も藤村も芥川も池上春太郎も、大きな命の中にある者みなが腹いっぱい食べられるだろうと思い先生は、そんな夢を見ようと決めて口のまわりをぺろりと舐めた。


 了

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