第14話 書きおえよう
彼は両国学園に帰ってきた。
作中人物たちが「お帰りなさい」といって迎えてくれるわけでもない。
むしろ彼のペンが本調子を回復するまでは、以前よりもそっけなかった。
エアコンを点けていても汗が滲み、原稿用紙をふやかしてしまう。
彼はTシャツを脱ぎすてて上半身裸になった。
それでも暑いのは先生がそばにいるせいかもしれない。
「う~ん……どうして僕はこの
「文句をいうな。これまで何度もこのキャラに助けてもらっただろう」
先生のいうとおり、場面転換の直前や会話シークエンスのオチに小ネタキャラは活躍してくれた。
だがその小ネタは作中人物が当意即妙に発しているのではなく、作者がひねりだしているのだ。
ときにはそれがまったく思いうかばないこともある。
彼は小ネタを書きためてあるメモ帳をめくりながらため息をついた。
キャラが勝手に動いてくれるなどという甘い話はない。
彼らとは企画の立ちあげ時点から数えれば1年近くつきあっていることになるので、多少は気心が知れている。
それでもキャラの方からいま何を思うか、次にどう動くかを教えてくれるわけではない。
彼はこれまでの流れ、物語の行方を考慮しながら、もっとも自然でもっとも効果的な行動を彼らに取らせる。
彼は書きつづけた。
劇的に筆が進むということはなく、毎日バイトが終わってから夜遅くまで、バイトのない日は一日中、机に向かって一字一字、一語一語、一文一文書いていく。
それ以外に方法はなかった。
ある夜、最終決戦のシーンに差しかかった。
実際の取組は1分とかからないが、それを紙面に再現して読者が1分で読みおわってしまっては台無しである。
本1冊分の紙幅をついやして迎えたクライマックスなのだから、それにふさわしい重みを持たせなければならない。
物語において重みとは時間である。
物語内で流れる時間ではなく、読むのにかかる時間のことだ。
1文であっさり書かれてしまう10年よりも、5ページに渡って語られた1分の方が読者にとって重要なものとなる。
その1分をどう表現するか、彼は考えた。
攻防の流れは頭の中にある。
あとはそれをどうことばにしていくかだ。
相撲の1分は、ぼんやりしながら牛乳パックを棚に並べる1分とはわけがちがう。
手も足も絶え間なく動き、相手のそれに反応し、策略に満ちている必要がある。
それを読者に伝えることばの方も、みじかくきびきびとしていて、読者の読む速度にブレーキをかけるような心理描写など差しはさまれず、それでいてキャラの思いがこもったものでなくてはならない。
彼は
鏡に自分の顔を映し、相手にぶちかましを食らわせる顔、土俵際で踏んばる顔を作ってみた。
可動式フィギュアを取りくませてみて、体全体の見え方を確認する。
北斗千狼瑠が相手のまわしを握りこむ、その手の動きを自分の手で再現してみた。
左手には先生がいる。
机の上に乗って彼の書く文章にずっと小言をいっていたのだが、いつの間にか彼の左手首を抱えこんで眠っていた。
手の甲に湿った鼻息がかかる。
先生が息を吸うたび腹が膨れて彼の肘を
彼は先生の寝顔をしばらく見つめ、またペンを動かしはじめた。
右からおっつけて相手の体を起こす動きの真似を彼がしていると、先生が顔をあげた。
知らず知らずの内に左手が動いてしまっていたようだ。
「すまない。邪魔をした」
先生は口のまわりを一度舐めて彼の手を放した。
起きあがってきょろきょろとあたりを見まわす。
「いつもの箱の中で寝なおすとしようか」
「いえ、だいじょうぶです。ここにいてください」
彼は女性をエスコートするときのように腕を差しだした。
先生が目をしょぼしょぼさせながら彼を見あげる。
「邪魔ではないのか」
「先生のいてくれた方がはかどるんです。だからいっしょにいてください」
先生はやや不審げにしていたが、やがて「ふむ」と鼻にかかった声を出して彼の腕を抱えた。
彼が腕を机の上に置くと、先生は冷たい鼻を彼の手に何度もこすりつけ、また眠りこんだ。
彼はその顔をつくづくと眺めた。
物語の中では主人公以外みんな女子という学校でとてもにぎやかだったが、彼はひとりであった。
パンチラだブラチラだラッキースケベだと騒いでいても彼は、ほこりっぽい部屋でエアコンのかびくさい風を浴び、無言で文字を書きつづけている。
気の利いたことを書いても読者は離れた場所にいて、彼らがくすりと笑うのはいつになるかわからない。
だが彼には先生がいる。
漢和辞典を枕にして原稿用紙の角を尻に敷き、彼の腕にしがみついてしっかりとあたたかい。
むしろ熱いくらいだ。
彼は先生の頭から背中、尻尾までをそっと撫で、ふたたびペンを執った。
□□□□□□□
何の劇的なこともなく、終わりは来た。
徹夜して朝日が射すのと同時に
バイトが終わって夕食を摂り、いつものように書いていって午後9時に彼は最後の1文を書きおえた。
「あっ、終わった」
1行空けて「了」と書きこんで彼はペンを置いた。
椅子からずるずると滑りおち、床に寝ころがる。
「うわあ、すごい傑作を書いてしまった。これは絶対にみんな読みたがるぞ」
「本屋に並ぶすべての本がそうやって送りだされていると考えれば、感慨深いものがあるな」
先生が机から飛びおりてやってくる。
彼はその頭を撫でた。
「先生、僕はしあわせです。女の子が相撲を取るなんて馬鹿な思いつきをこうやってかたちにできたんですから」
「馬鹿も突きつめれば金になるということだ」
先生が彼の胸に顎を乗せる。
彼はその額を掻いた。
人は誰でも小説にできる材料をひとつは持っているという。
思いつきの段階では小説を書く彼も書かぬ者も、たいしてかわりはない。
だが彼はそれを最後まで書ききった。
最初の思いつきとは似ても似つかぬ、ひとつの世界に仕立てあげた。
彼にしかできないことだ。
それがうれしかった。
彼は目をつぶり、胸のよろこびと先生の重みをしみじみと感じていた。
だがやがてはそれも止む。
「さて、いま書いた分をタイプして推敲に移るとするか」
彼は起きあがり、机に向かった。先生も机の上にもどる。
「すぐ次の仕事に取りかかるとは感心だな」
「むかしは書きおわったら一度読みかえしてすぐ新人賞に送りつけるなんてことをやってましたよ。でもプロはそれじゃ駄目なんだとわかったんです。こんなに苦労して書きあげた原稿なんですから、ピッカピカに磨きあげた上で人に見せないと。いい文章を書く、おもしろいストーリーを生みだすというのも大事ですけど、プロの作家の第一条件は自分の作った物語世界と原稿を大事にすることだと思うんです」
「4年目にしてようやく気づいたのか」
彼はノートパソコンを開いて原稿を打ちこみはじめた。
気持ちを切りかえて作業に集中しようとするが、やはり原稿を完成させたよろこびは大きく、先生がマウスをいじって机から落としそうになるのも寛大な心で見まもり、机から落ちたところで受けとめた。
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