第13話 猫と散歩しよう

 作家をやめても彼の日常にかわりはなかった。

 どこに届けを出す必要もないし、告知もいらない。


 バイトを終えて家路をたどる。


 川沿いの道は夏の明るいゆうべで、コンクリートに四角く固められた川のせせらぎも耳にこころよい。


 玄関のドアを開けると、涼しかった。


 先生のためにエアコンを点けっぱなしにしているせいだ。


 夕食を摂ると、床に寝ころがり、図書館の本を読む。


 先生が背中を布団代わりにするので、そこに丸く汗をかく。


 一日海で遊んだあと波の感触が肌から消えぬように、書かなければという焦りの名残が体を押す。

 彼は読書に没頭することでそこから逃れようとした。


 バイトが休みだったある日、本にも飽いて散歩にでも出ようかと起きあがると、先生が足元にまとわりついた。


「猫の身ながらたまには散歩についていこうかと思う」


「本気でいってるんですか」


 彼は先生を見おろした。

 先生は前にいた尾崎クリムゾンの家でも外に出たことはないという話であった。


「散歩とは本気を出さなければ行けないようなものなのか」


「じゃあ首輪を取ってきますから待っててください。野良とまちがえられたら困りますからね」


 尾崎家から先生を迎える前に念のため買っておいた首輪を出そうと彼が部屋にもどりかけると、先生がその膝に跳びついた。


「首輪はあれでいい」


 かけていって机に跳びのる。

 そこには『両国学園乙女場所』の原稿が置きっぱなしになっていた。


「ああ……綴り紐ですか」


 彼は机の文具入れから綴り紐を取りだした。

 その青い紐を先生の首に巻きつけ、蝶結びにする。


「苦しくないですか」


 先生は一度首をまわして机から飛びおりた。


「よし、行くぞ」


「おやつ持っていきます? 先生の好きなフリーズドライササミありますけど」


「必要なら現地調達する」


「トカゲとかセミとかはやめてくださいよ」


 玄関のドアを開けると、エアコンに冷やされた空気を押しのけて蒸し暑い外気が入りこんでくる。


 アパートの外階段を使って地上におりたときにはすでにTシャツが汗で湿っていた。


「暑いですねえ。これで梅雨明けがまだなんて信じられないな」


 そう口にして先生の同意を求めると、何も返ってこない。

 見ると足元を澄まし顔で歩いている。


「先生、なんで無視――」


 彼はそこではっと気づいて口をつぐんだ。


 外で猫と話すのはおかしいし、日本語を話す猫はもっとおかしい。

 先生がさげすむような目で彼を見あげた。


 平日の午前中で、川沿いの道を歩く者は彼ら以外になかった。


 車がとおると先生は柵のそばに寄ってやりすごす。

 その体は家の中で見るのとくらべておどろくほど小さく感じられるが、体の軸をまっすぐに保ったまま歩を進めるその静かさも驚異的である。

 

 彼はうなじに天頂近くからの日を浴びながら、自分も足音をなくしてしまった者であるように感じていた。

 この道を小説についてあれこれと考えながら歩いていたのはもう過去の話だ。

 その小説という空虚なものと訣別けつべつして得たものは、かえって空虚になってしまった時間と自分自身であった。


(ピコピコ文庫のパーティで会った人――和泉さんと同期の受賞者で、執筆に専念するため会社を辞めたといっていたが、最初のシリーズが4巻で終わって以来、音沙汰がない)


(確かあのとき、いまの自分と同じ34歳だといっていた)


(あの人はいまどうしているのだろう)


(いまも書いているのか、書けずに苦しんでいるのか、それとも書かないことと折りあいをつけて暮らしているのか)


 川は団地の間を抜けて住宅地に入る。


 以前は美容院だった空き店舗の入口に一人の老婆が腰をおろしていた。

 そのかたわらには布で包まれた大きな背負しょいが置かれてあった。


(おや、いまどき行商人とはめずらしいな)


(自分が子供のころにはよく見かけたものだが)


 休憩中なのか、老婆は大きなソフトクリームを舐めていた。

 コーンに乗った白いクリームのとがった先端がいまにも姉さんかぶりの手拭についてしまいそうである。


 彼の視線に気づいて老婆は、体をひねってがらんどうになった店の方を向き、ソフトクリームを彼の目から隠した。


 おやっと思い彼は先生の方に目をやった。

 先生もまた彼を見ていた。


 しばらく行くと、道のそばにベンチが設置されていた。

 先生がそこに跳びのり、座りこんで尻尾を体に巻きつけた。


 ホームレス避けの肘かけがベンチを中央で分断している。

 彼はそれを先生と挟むかたちで腰をおろした。


 川の上流下流に目をやり、誰もとおらないのを確認して口を開く。


「さっきのおばあさん、僕にソフトクリームをられると思ったんですかね」


「おやつは現地調達だからな」


 先生のことばに彼は吹きだした。

 先生も鼻を鳴らして愉快そうにしている。


「人間とはおかしなものだ」


「まあでも、あのソフトクリームはおいしそうでした」


 自転車が1台、彼らの前をとおりすぎた。

 どこからか掃除機をかける音が聞こえてきた。


「外に出るとおもしろいものが見られる」


「そんなにおもしろいことは起こりませんけどね」


「オフトンはよくおもしろいものを見るだろう」


「そうでもないですよ」


「よく話してくれるではないか。図書館でウンチの歌を歌う子供の話とか」


「そんなこともありましたね」


「子供がベビーカーに乗っている赤ん坊に『待って』といった話もあった」


「よくおぼえてますねえ」


「私はオフトンのする話を聞くのが好きだった。私は居ながらにしてオフトンの目で外の世界を見ていたのだ」


「こんな視力の悪い目で申し訳ないです」


 彼は眼鏡をはずして目をこすった。


「小説もそれと同じなのだと思う」


 先生が空を仰ぐと、髭が風になびいた。「読者は作家の目を、筆をとおして世界を見る。作家の作りあげた世界を者は作家自身しかいないのだから」


 彼は黙ってうなずいた。


「オフトンしか見ていないものはオフトンが語るしかない。あの女子が相撲を取る両国学園を者はこの世でオフトンだけだ。オフトンが書かなければ、あの学校のことを、生徒たちのことを誰も知らずに終わる。あの学校に行ったことも見たこともない者が、それをつまらない、流行からはずれているなどという。それをオフトンは黙っていわせておくのか。オフトンには書く責任がある。あの世界とその住人に対して負う責任だ。余人には代わることができない。そうだろう?」


 彼は黙ってうなずいた。

 ことばがなかった。


 これまでは自分のことを、業界にたくさんいるラノベ作家の一人にすぎぬと思っていた。


 たいして売れもせず、知名度もなく、期待もされず、才能もない――そうやって自分をおとしめていた。


 だがそれはちがう。


 彼は彼の作りだした世界をひとりで背負っている。


 どんな売れっ子でも、才気溢れる作家でも、彼の見た世界を見られないし、彼の語るようには語れない。


 彼が彼だけの世界を書いている――その事実だけで、かけがえがなく、とうとい。


 それを先生が教えてくれた。


 先生がそうやって彼のことを思っていてくれたことが彼にはうれしかった。


 先生と暮らすべき人間は他にもいるはずだ。

 尾崎クリムゾンならもっと高価な食事を先生に用意できる、和泉美良ならもっとすばらしい作品を先生に見せられる――そう思っていた。


 だが彼は彼の見たものを先生に語る。

 先生は読んだものを彼に話して聞かせる。

 他の誰がこれに取って代われるだろう。


 彼は紛れもなく、逃れようもなく作家で、先生とともにいた。


 作家の道をあきらめたときにも出なかった涙がこぼれた。

 南天の日に焼かれた頬を伝って冷やす。


 先生が肘かけをくぐって彼の膝に乗った。

 彼はその背中を撫でた。


「先生、僕は書きます。あの作品を書きあげます」


「それがいいだろう」


 先生は彼を見あげる。

 涙が頬から落ちていく様を見つめられ、彼は照れくさかった。


「やめるっていったのにすぐ撤回して、ちょっと恥ずかしいですね」


「気にするな。作家と猫は気まぐれで嘘つきに決まっている」


 泣きながら猫を撫でる彼の姿に道行く人たちはぎょっとしていたが、彼は構わず先生を撫でつづけた。


「先生、これからはいっしょに散歩しましょうね」


 先生は目を逸らした。


「いや、散歩はもういい」


「どうしてですか。こんなに日差しが気持ちいいのに」


「すこし道路が熱い」


 そういって先生は前足の裏を舐める。


「あっ、しまった!」


 彼は先生のあしをつかみ、肉球を指でさすった。


 夏の日中はアスファルトの路面が熱くなっている。

 たとえば犬の散歩をする場合、気をつけないと足の裏はもちろん、肢のみじかい品種なら腹まで火傷やけどしてしまう恐れがあった。


「猫と散歩するなんて考えたこともなかったから、火傷の可能性が頭から抜けおちていた……。先生、ごめんなさい。今度ワンちゃん用の靴を買っておきます」


「犬の靴など履けるか。猫がすたる」


 先生は彼の手から肢を引きぬいた。


「じゃあ次は夕方の散歩にしましょうか」


「次は秋になったらでいい。散歩など半年に一度で充分だ」


 帰りはこれ以上足を傷めないよう先生を抱っこしていこうとしたが、先生は嫌がって彼の肩に乗った。


 肩だけでは足りず、前足を彼の頭にかけて直立する。


「これは見晴らしがいい」


「どうです、僕の目線で見る世界は」


「オフトンより15cmは高い。高身長イケメンの目線だ」


 川沿いの道を子供たちが2列になってやってきた。

 黄緑色の、前後にのついたお揃いの帽子をかぶっている。


 彼を見て子供たちは騒ぎだした。


「見て。猫乗せてる」


「猫だー」


「先生、猫が頭の上にいる」


 恥ずかしくて彼は道をかえたくなったが、脇道も向こう岸に渡る橋もない。


 先生が耳打ちする。


「手でも振ってやれ」


「嫌ですよ、恥ずかしい」


「子供に向かって振るのではない。保育士に振れ。社会性を見せて『猫を頭に乗せて歩く狂人ではない』とアピールするのだ」


んじゃなくてんですが」


 彼は引率の保育士をターゲットに笑顔で手を振った。


 近づいていくと、20人ほどの保育園児たちが頭の上の先生に注目する。

 鉄柵のついた手押し車に乗る年少の子供たちもよだれを垂らしながらこちらを指差す。


「リードなしでも逃げないんですね」


 先頭の若い保育士が声をかけてきた。


「馴れてますから」


 彼は頭の上に手を伸ばし、先生の首の皮をとつかんだ。「もし撫でてみたいっていう子がいたら、どうぞ」


 差しだされた猫の体に子供たちがわっと群がる。

 列の最後尾についていた保育士が彼らを道の片側に寄せようと声を張りあげた。


 子供たちに肢や尻尾をひっぱられ、先生は必死で彼の腕につかまって上にのぼろうとした。

 彼はその体を押さえつける。


「この子はね、ロックっていうんだ。みんな名前を呼んであげてね」


 子供たちが「ロック」「ロック」と呼びかけながら小さな手で先生の毛を掻きまわす。


 先生が彼をにらんだ。

 彼はそれに向かって舌を出してみせた。

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