第11話 病気の父親を見舞おう
彼の父に胃癌がみつかり、切除手術を受けることになった。
手術当日、彼はバイトが終わってから病院に出むいた。
昼にはじまった手術はまだ終わっておらず、母だけが病室にいた。
個室なので椅子が一脚しかない。彼はナースステーションに行って椅子を借りてきた。
太腿の上に乗せたキャリングケースを机代わりにして原稿をひろげる。
辞書は膝に挟む。
今日はここで執筆するつもりであった。
「博、その本いつ出るの」
「まだわからない」
彼が答えると、それきり母は何もいってこなかった。
母は彼が書いているのを見るといつでも、息を殺すようにしてそそくさと去った。
投稿時代の箸にも棒にもかからぬ原稿を書いているときでも、わずかな物音さえ執筆の障りになるというように息をひそめた。
彼にはそれが息苦しかった。
彼が夕食を摂って病室に帰ってくると、キャスターつきのベッドに父が横たわっていた。
手術は終わったようだ。
いつも地味な服を着ている父がいまはパステルカラーの
それは場ちがいに浮かれて見えた。
消毒薬の強いにおいが鼻を衝いた。
人工呼吸器がついていて麻酔も切れていなかったが、彼は父に見とがめられるような気がして原稿用紙を鞄にしまった。
どう操作するのかもわからない装置がベッドのかたわらに立ち、父とつながっている。
彼はとうのむかしに実学だとか実業だとかいうものに背を向けていたが、そうした確固たるものが父の体に入りこみ容赦なく組織の一部を取りさったと思うと、たいしたものだと感心してしまった。
彼自身がそんな事態になったらどうするだろうと考える。
「体に針を入れるなど不条理だ」といって注射を嫌がる先生のように治療を拒むだろうか。
それとも消耗してわけがわからなくなり、すっかり身をまかせてしまうのか。
兄がやってきて母と手術について話をする。
彼には聞いても理解できなかったが、どうやら手術は成功したようであった。
仕事帰りの兄はスーツを着ていた。
ネクタイを緩めることもせず硬い足音を立ててベッドに近づき、父を見つめる。
「博、コーヒーでも飲みに行かないか」
兄に声をかけられ、彼は頭を振った。
「僕はコーヒー飲まない」
兄はあきれたように笑った。
「別にコーヒーじゃなくてもいいよ。行こう」
自動販売機のまわりにソファが置かれてラウンジのようになっていた。
まだ面会時間内だが人の姿はない。
彼は自分の水筒に入った水を飲んだ。
兄はコーヒーを買う。
「悪かったな、今夜の付き添い頼んじゃって」
「別にいいよ」
彼は今夜、泊まりこみで父の付き添いをすることになっている。
それがなくとも徹夜する予定であった。
執筆のペースがあがらず、自分から提示した締切が守れるかどうかギリギリのところに来ている。
「いそがしいのか」
「ふつう」
兄弟はとなりあって座った。
兄は紙コップから湯気を立たせたままにして口をつけない。
保温機能もないプラスチック製の水筒を持つ彼に気兼ねしているかのようであった。
「なあ博、入院前にお父さんと話したんだけどな、おまえ就職しないか」
「えっ?」
彼の手の中で水が水筒の内壁を叩いた。「いまさら就職なんて無理でしょ。今年34だよ?」
「お父さんが世話してくれるって」
「ふうん」
彼は25歳で投稿をはじめてから30歳でデビューするまでのことを思った。
作家になるのは高校生のころからの夢だったが、新人賞に応募するようになったのにはあの何者でもない状態ですごす時間からの逃避という側面があったことは否定できない。
もしあのとき彼が何者かであったなら、小説を書こうなどとは思わなかっただろう。
何者でもない彼は無価値だった。
書くことでようやく彼は物を買ったり街を歩いたり猫と暮らしたりするに足る人間になれたと思っている。
彼は書くことを他の仕事とくらべて特別なものだとは考えていない。
誰だって四六時中妄想に浸っていれば小説になりそうなアイデアのひとつやふたつ浮かぶものだし、架空の人物や土地に架空の名前を付与する気恥ずかしさを克服すれば物語の設定を作ることなど容易だし、毎日こつこつ書いていればいつかは書きおわるし、何年もつづけていれば多少は文章が上手くもなる。
もっと他にまともな仕事があるなら、それに越したことはない。
何者かであらせてくれるなら、それでいい。
兄が恐る恐る紙コップに口をつけ、コーヒーをすすった。
「別に小説をやめろといってるわけじゃないんだ。おまえには才能がある。他人には真似できないことだ。一生を捧げる価値がある。俺はそれでいいと思う。ただ、お父さんが心配してるんだ。おまえもいつか結婚することになるかもしれないし、車が欲しくなるかもしれない。もしかしたら大病をするかもしれない。そうなったとき、いまのままでは経済的に厳しいだろ」
彼は何も答えずに水筒の水を飲んだ。
水道水をそのまま入れているので、カルキのにおいが蒸されて苦い。
どこかの患者に急変でもあったのか、目の前の廊下を2人組の看護師が足音を殺してかけていった。
□□□□□□□
サイドテーブルはプリント原稿と原稿用紙を置くといっぱいになってしまった。
プリント原稿の束はダブルクリップで留められないほど分厚くなっていて、いまは右肩に穴を空け、
母と兄が帰って、彼は病室に父とふたりきりであった。
部屋の照明は消され、テーブルの上のスタンドだけが点いている。
執筆ははかどらなかった。
自分の部屋とくらべれば電車や車の音も聞こえず静かだし、空調も具合がいい。
集中できる環境であるはずなのだが、どうにも筆が進まなかった。
彼は闇を透かし、眠る父の横顔を見つめた。
鼻に酸素を送りこむ透明なチューブが威厳のない髭のように口のまわりを飾っていた。
「お父さん――」
彼は静かに呼びかけた。
「僕はいつも先生と話しながら原稿を書いているんだ」
「今日はお父さんに先生の代わりをしてもらうよ」
「黙ったままでいいからさ」
「先生っていうのはうちにいる猫のことだよ」
「お父さんはうちに来たことがないから、一度も会ってないよね」
「先生は人間のことばが話せるんだ」
「信じてもらえないだろうけど」
彼のことばに心電図モニターと人工呼吸器の音だけが返ってきた。
「いま僕はね、相撲の話を書いてるんだ」
「お父さんは相撲観てる?」
「僕は一時離れてたけど、最近また観はじめた」
「小さいころ、僕は相撲好きだったんだってね」
「お母さんから聞いたことがある」
「僕の書いてる話のヒロインは北斗千狼瑠っていうんだけど、この子のモデルになった力士を僕は
「その力士が勝ったときより、負けて
「小兵だけどダイナミックな相撲を取る人だったからね」
「北斗千狼瑠もそんな力士にしたいと思ってる」
「勝っても負けても人を魅了する力士にね」
彼は書いた。
返事はなくともこうして話していればやはり調子が出てくる。
「ラノベで相撲をネタにするのはおかしいかもしれないけど、たぶんそれはそういうむかしの記憶と関係があるんだ」
「デビュー作の『猛毒ピロリ』っていうのは病気を擬人化したキャラクターが出てくる話なんだけど、いま考えるとこれも僕の記憶に関係している」
「僕は小さいころ病気ばかりでよく入院してたでしょ?」
「そのときに同い年くらいの入院患者にたくさん会って、その子たちの人格と病名とが僕の中で結びついたんだ」
「だから
「突拍子もないアイデアほど、自分の中の奥深いところから湧いてきているんだと思う」
「だから書かずにいられないんだ」
彼は書きつづけた。
書いてはあともどりし、欄外に追加の語句を記した。
思いついてプリント原稿に赤で加筆し、原稿用紙にも同じことを書いて連関を生みだした。
「僕はむかしからこうだったわけじゃない」
「小学生のころは作文が大嫌いだった」
「1年生のとき、作文の宿題を1年間提出しなかったことがあったよ」
「原稿用紙をこっそり捨ててたんだ」
「あとでバレて叱られたけどね」
「僕は『僕は』って一人称を書くのが嫌だったんだ」
「なぜだかはわからないけど」
「子供ながらに言文一致という問題について考えていたのかもね」
「僕が小説を書こうと思ったのはお父さんの本棚にあった『剣客渡世』を読んだのがきっかけだよ」
「あれを読んで『僕にも書けるんだ』って思ったんだ」
「別に池上春太郎先生を馬鹿にしてるわけじゃない」
「ただ、僕はそれまで小説というのは漱石とか鷗外とかドストエフスキーみたいな髭の生えた偉い人にしか書けないものだと思ってたんだ」
「でも池上先生はそうじゃない」
「ふつうの人が書いてもいいんだって教えてくれた」
「だからいま僕は書いてる」
「僕の書いたものをお父さんが読んでないのは知ってるよ」
「でもそれをおもしろいといって読んでくれる人もいるんだ」
「お父さんにもいつか読んでもらいたいな」
「だって僕はお父さんの本棚にある本を読んで育ったんだから」
「きっと何か共通するものを持っていると思うんだ」
彼はペンを置き、立ちあがった。
肩こり予防のため、腕をまわし、水を飲む。
集中していると歯を食いしばってしまう癖があるので、口を大きく開き、強張っていた顎の関節をほぐす。
さらに全身運動として体をくねくねと動かし、謎のダンスを踊った。
いつもならその動きに反応して先生が飛びついてくるところだが、いまは何も彼の体に触れない。
彼はベッドのそばに立ち、父を見おろした。
先生に対してするように髪の毛をそっと撫でる。
白髪の手触りは枯草に似ていた。
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