第10話 逃げずに書こう

 執筆に入ってからアルバイトが楽しくなった。


「いらっしゃいませ~。本日ボーナスポイントセール開催中で~す」


 品出しをしながら呼びこみをする。客の方には背を向けたままだ。


 店内の有線放送ではJ-POPのインストバージョンが流れている。

 アレンジがかわりすぎてサビに来るまで何の曲だかわからない。


 呼びこみも有線放送も一日中同じことのくりかえしで、頭がおかしくなりそうだ。


 それでも執筆よりはましだと彼は思った。


 同じことをくりかえしていられたらどんなに楽か。

 原稿用紙のマスは常にあたらしいことばで埋めなくてはならない。


 彼は毎日不安であった。


 次の朝起きたら何も書けなくなっていそうな気がした。


 前日に書いたもの、1行前に記したことばがなぜ自分に書けたのか、彼にはわからなかった。


 いっそ魔法であってくれればいいと思う。

 呪文も振りかざす杖もなく彼は、どこからか浮かんでくる文字を捕まえ、消えぬ内に書きつけた。

 その秘密を知りたかったが、金の卵を産むちょうの腹を裂いた男のようになるのが怖い。


(新人賞を獲った年のパーティーで石橋いしばしパピコさんが自分たち新人に向かっていっていたな、『おまえら、仕事辞めんなよ~』って)


(自分はあのとき無職だったからピンと来なかったが、いまなら理解できる)


(収入だけが問題なのじゃない)


(専業作家となったら、書けなくなるかもしれないという不安にさいなまれつづけるのだ)


(創作の才能とは別の、強靭な精神が必要となる)


 レジに近いところで同僚が例の「いらっしゃいませ」をはじめ、それが店内にでんする。


 このくりかえしがいつまでもつづいてほしいと願い彼は、高らかに唱和した。


   □□□□□□□


 バイト帰りに本屋に寄った。


 今日発売の『小説新星』に和泉美良の短編が載る。


 雑誌の棚を見る前にラノベコーナーをのぞく。

 各レーベルの新刊が平積みになっている。

 ふわふわ文庫の本は発売日がずれているのか、見あたらなかった。


 彼は自分の本の売っているところを見ないことをジンクスとしていた。


 投稿をくりかえしていたころは自分の本が書店に並ぶことを目標としていたものであった。


 だがデビューしてみて、それがスタート地点にすぎぬのだと思いしらされた。


 書店に並んだ本を手に取ってもらうこと、読んでもらうこと、楽しんでもらうこと、そんな本を書きつづけることが肝要なのだ。


 彼は下手な満足を得ないよう、デビュー作が出版されてもラノベコーナーに近づくことをしなかった――もっともいまでは3年前の本などとっくに返本されてあるので、気兼ねなく見てまわることができる。


『小説新星』は棚に1冊刺さっているきりであった。彼はそれを手に取った。

買って帰るつもりだが、家に帰りつくのをすこしでも遅らせたくて立ち読みをする。


 美良の短編は「きょうげん探偵たんていきょうてり」というタイトルで、アオリの文言からしてどうやら女子高生探偵が主人公のミステリらしかった。


 最初の2ページを読んで彼は天井を見あげた。


(何ということだ……)


 冒頭の部分だけで彼は主人公の息遣いを感じ、彼女の住む街の空気を吸い、彼女のかよう高校の廊下に響くざわめきを聞き――そして彼女を好きになっていた。


(これは本物だ……)


(本物の作家の仕事だ……)


(「ラノベ界の俊英が本誌初登場!」なんてアオリで舐めてかかった読者もここに来てそれと気づいただろう)


(自分は和泉さんと同じ「作家」という肩書でくくられるのが恥ずかしい)


(わずかな紙幅でここまではっきりと力量の差があらわれるものなのか……)


 彼は子供のころから本屋が好きであった。

 本棚に並ぶ本は会ったこともない人が書いたものだったが、どれも彼に親しく話しかけてくれた。


 だがいま知人の書いた本を読み彼は、この場所が恐ろしくてたまらなくなった。


   □□□□□□□


 雑誌を買って店を出る。


 川沿いの道を行こうとして彼は足を止めた。

 5月の川は温い腐臭をうっすらとただよわせている。


 彼は柵に手を突き、川面を見おろした。

 飛びかう羽虫が夕日を浴びて沸きたっている。


(自分はもう書くのをやめるべきなのだ)


(和泉さんのように書けない作家はみんなやめた方がいい)


(彼女と同じ値段で本を売るなんて、読者に失礼だ)


 虫たちは飽きもせずに川面近くを飛びまわる。

 魚のいない川で、水から飛びあがって捕食する者もない。


 彼もまた飽かず眺める。

 嫌なことから逃れているときには妙な集中力がはたらくものだ。


(和泉さんなら書くことから逃げたり不安になったりはしないだろう)


(こんなことは才能の有無以前の問題だ)


(書くのを恐れるなんて作家失格ではないか)


 彼の悩みはプロの作家としてあるまじきもので、また街を行く人にも共感はされぬものであった。

 誰にもかえりみられず流れる眼下の川を彼は見つめつづけた。


 トラックが背後をとおり、彼は柵をつかんで身を寄せた。


 道の反対側で3歳くらいの男の子がしゃがみこんでいる。

 どうやら靴が脱げたらしい。


 母親がすこし離れて彼を待っていた。

 彼女はベビーカーを押していて、その中では赤ん坊が口を開けて眠っている。


「たっくん、早くして」


「待って~」


 急かされながらも子供は、靴の中に小石でも入ったのか、なかなか履かない。


 母親はベビーカーをゆっくりと押して歩きだす。


「たっくん、ママ行っちゃうよ」


 少年は足を靴につっこみ、あとを追った。


「待ってよ~。ふたりともずるい~」


 親子が去るのを見おくって、彼は柵から手を離した。


って……ベビーカーの赤ちゃんも人数に入ってるのか)


(寝たまま運ばれてるだけなのに)


 彼は可笑しくなった。


 このことを先生に話して聞かせたら「ふむ」といって特段可笑しそうな顔もせず、読書にもどるだろう。


 それでよかった。


 才能がなくても、不安でも、先生はそこにいる。


 彼が原稿用紙の前で頭を抱えているときも、部屋を歩きまわって場面転換後の一文をひねりだそうとしているときも、先生はそれとは関係なく跳ねまわり、爪を研ぎ、レジ袋をかぶって遊んでいた。


 その背中に触れば彼の掌にかいた汗を弾くような冷たい感触で、その下にしっかりと熱を持ち、そこにある。


 不確かなものなど何もなかった。


 彼は柵を指で叩いて歩きだした。

 それは鐘のようには響かず、低く鳴った。

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