第8話 書きはじめよう

 プロットを書くのに3日かかった。


 ふわふわ文庫に送ったものとは別である。

 A4の紙を四つに折り、文庫本2二ページごとに起こる出来事を書きだしていく。

 1枚が1章に相当し、今回は全部で7枚になった。

 各章40ページ、最後の章はエピローグで10ページなので、合計250ページとなる。

 いつもすくなめに見つもるが、そこに収まったためしはない。


 こうしたプロットを作るのは、ひとつの出来事をだらだら引きのばしてしまったり、逆にあっさり終わらせたりしないようにするためである。

 紙の折り目は場面転換の目印だ。

 どんな出来事も10ページで場所や人物や状況に何らかの変化が起こることとする。


 後半の章に行くと、記述が簡素になる。

 何が起こるかは決まっていても、細かいところまではそこにみなければわからない。


 原稿用紙を作れるエディターソフトを使って42字×34行の原稿用紙を印刷した。

 これは文庫の2ページに相当する。

 プロットの記述ひとかたまりが原稿用紙1枚に収められるわけである。


 筆記具はPERKERのJETTER――ステンレス製のシンプルなボールペンだ。

 リフィルをOHTAの0.7ミリにかえてあった。

 これなら5ミリ四方の小さなマスに細かい字を書きこめる。


 17歳で作家をこころざしたとき、彼はパソコンの前に座って一文字も書けず、挫折したことがあった。

 虚構の物語を書くという行為に正当性を見いだせなかったのだ。


 いまはそんなことを気にも留めない。

 紙に文字を書いていくペンの動き、ペンを持つ手にこもる力こそが正当性なのだと思う。


 紙の上には変換キーも決定キーもない。

 並列された変換候補から選ぶのではなく、ただひとつのことば、そうとしか書けないことばを自分の力でつかみとりたかった。


 机の上に原稿用紙を1枚乗せ、上部に「1」と記す。

 2行目にタイトルを書き、そこで止まってしまった。


 10分間考えて、彼は立ちあがった。


「書きはじめるのではなかったのか」


 先生が机の上のボールペンを転がす。


「冒頭の一文は悩みますよ。プロットができていてもこれは別です」


 彼は部屋の真ん中で四股しこを踏んだ。


「近代小説の理想的な冒頭はカフカ『変身へんしん』のそれだという」


「起きたら毒虫になってたってアレですか」


「『いまはむかし』式にとのつながりを暗示するのではなく、むしろ自律的な虚構世界であることを堂々と宣言しているのだ」


「トンネルを抜けると雪国だったっていうのもありますね」


「現実世界とオフトンの虚構世界とを区別するものは何だ」


「それは……やはり女の子の相撲でしょうか」


「ならばそれをいきなり提示してみるのもおもしろかろう」


「う~ん……『吾輩わがはいは北斗千狼瑠である。四股名しこなはまだない』……いや、ちがうな。『両国学園の土俵に通じる花道はすべて山の中である。あるところはそばづたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾きそがわの岸であり――』……いや、何だこれは」


「タイトルを『中入り前』に変更しろ」


「う~ん、まるで糸口がつかめない」


 彼は机にもどり、頭を抱えた。

 先生が机の上を音もなく横断する。


「朝稽古を主人公が訪ねるシーンからはじまるのだったな。ならば朝、主人公が目をさますところから書きだせばいいのではないか」


「ちょっと悠長すぎませんかね。立ち読みやネットの試し読みですぐ閉じられちゃいそうなんですが」


「ならば部屋の戸をガラリと開けて主人公が入ってくる、その目に少女の裸体が飛びこんでくる、というのはどうか」


「それが妥当なとこですかね」


 そうはいったが彼はいまひとつ気乗りせずにいた。


 彼は読書をするときにも描写というものを好まない。

 それこそ悠長すぎると思った。


 もっと激しい、燃えさかるような文章を読みたいし、書きたい。


 物語やテーマなど捨てて、一瞬の、一文のしゃくねつじゅんじたかった。


 それは相撲も同じだ。

 立合たちあいでいきおいよくぶつからない力士は嫌いだった。

 静から動へと移りかわるあの刹那こそ相撲のもっともうつくしい部分であると彼は信じている。


「立合……。そうか、立合か……」


 彼はペンを執った。


 ――土俵の中央で裸の胸と胸がぶつかりあい、汗が弾けた。


「ふむ」


 先生が原稿用紙をのぞきこんだ。「これでは男どうしでやるふつうの相撲に見える」


「あ、そうですね」


「それに、をいきなり登場させるのは突飛すぎて読者が面食らう。その結びつきを理解しようと頭をはたらかせてしまうので、かえって印象が薄れるのではないか」


「なるほど。ということは、ここは裸だけでいい」


 ――裸の乳房がぶつかりあうと、汗が弾けた。


「いや、もっと攻める!」


 ――ぶつかりあう裸の乳房は、大きい方に分があった。


「ふむ」


 先生が原稿用紙に鼻を近づける。「では2行目以降、周囲の様子を描写するのだ」


「えっ? ここからぶつかり稽古の攻防を描くつもりだったんですが。アクションシーンでどんどん攻めていきましょうよ」


「引くことをおぼえろ、オフトンよ。1行目で読者は、何事が起こっているのかと疑問に思う。その答えを知りたくてすかさず2行目以降に目を移すだろう。そこで物語の舞台を描写して読者にそれを呑みこませるのだ。そして1ページののち、1行目のシーンが何だったのか、じれている読者に明示してやる。ここまで来れば読者は物語のとりこだ」


「先生って……策士ですねえ」


 彼はため息をついた。


「そもそも小説とは策略のかたまりなのだ。何のたくらみもなしに書かれることばはひとつとしてない」


「そ、そうですよね……もちろんです」


 彼は自分のデビュー作が何のたくらみもなしに書かれたことを思い、赤面した。


   □□□□□□□


 彼は書いた。


 主人公のたてたくが両国学園に転校してくる、ヒロイン・北斗千狼瑠との出会い、そしてはじまる乙女相撲5月場所――次々にシーンを切りかえていく。


 最初の1週間、1日5ページという目標はたやすく達成できた。


 前日に書いたものをパソコンのメモ帳に打ちこむのが執筆作業のウォーミングアップである。

 推敲すいこうしながらタイピングし、プリントアウトしてまた朱を入れる。


 明朝体のフォントで印字された文章は自分の書いたものでないように見えた。


 執筆開始から10日目に第1章を書きおえた。


 その日はバイトが休みで、切りがいいところまで行こうと8八ページ書いた。

 翌日、執筆前に原稿をタイプすると、量が多い分いつもより時間がかかってしまい、夜中に第2章の冒頭を書こうとしてそこで止まってしまう。


 章の冒頭は、小説全体の書きだしほどではないが、悩ましい箇所である。

 

 だが彼の筆が重いのは他にも原因があった。


「何かこれ、思ってたのとちがうな……」


 彼はダブルクリップで留めたプリント原稿をぱらぱらとめくった。


「ふむ」


 先生がめくられていく紙の起こす風に髭をなびかせた。「一応プロットどおりには書けていると思うが」


「でももっとおもしろくなるはずだったのに、何だかつまらなく思えるんです」


「まあそう悲観することもあるまい」


「他の作家はこういう不安とどう折りあいをつけてるんでしょうかね。のちに人気シリーズとなる作品を書いてるとき、本当にそれがおもしろいのかわからなくて心が折れそうになったりしなかったんでしょうか」


「尾崎クリムゾンはいつも不安がっていたな。書きかけの原稿を妻に読ませたり、執筆中は眠れなくて酒と睡眠薬をチャンポンで飲んだり、朝になると枕に抜け毛をごっそりつけたりしていた」


「うわあ……」


 彼は指の腹でつむじのあたりを押さえた。


「誰しも不安なのだ。書く前からおもしろいとわかっていれば作家も編集者も苦労しない」


「おもしろいおもしろくない以前に、文章がものすごく下手な気がするんです。ことば遣いはぎこちないし、もしっくり来てないし」


 文章術について、彼は独学であった。


 小説を書きはじめたころはしゅくする池上春太郎の真似をしていたが、これではいかんとすぐにそこから離れた。


 池上を第1の師とすれば、第2の師はピコピコ文庫の校閲こうえつしゃであった。

 顔も知らないその人にゲラが真っ赤になるほど修正の赤ペンを入れられて彼は、書くことの恐ろしさを知った。

 ことばの誤用・曖昧あいまいな表現は徹底的に直された。

 彼の伝えたいことは、そのことばがつたないためにほとんど伝わっていなかった。


 投稿時代から彼は「小説は読者に読まれてはじめて完成する」などと一端いっぱしのことをいっていたのだが、本当に読者のことを考えて書けるようになったのは、デビュー作の校正で泣きを見て以来のことであった。


 第3の師である先生も、明晰めいせきということを重要視する。


「オフトンの文章はひとりよがりが減ってずいぶんよくなってきた。尾崎クリムゾンほどではないが」


 背中に乗った先生の声と髭が彼の耳をくすぐった。


「ラノベ作家の文章力について語られるとき、尾崎先生の名前が挙がることってないですよね」


「あの男は上手いぞ。読者の読むスピードが落ちないよう、語順や表記を緻密に計算して書いている。読みやすい文章とは平易な表現を使ったものをいうのではない。ああして素直に読みくだせるもののことをいうのだ」


「確かに尾崎先生の文章は速く読めるし、ひっかかって前読んだところにもどったりするようなことがないですね」


「もっとも、最近は書きすぎて文章が荒れてきている。油気が抜けてうまみに欠けるな。私はオフトンが書く遊び心のある文章の方が好きだ」


「えっ、本当ですか」


稚気ちき愛すべし、というやつだ。だがオフトンは稚気の使い方をまちがっている。力を抜いて読むべきところにも遊び心のある文章を置くから読者は力を入れて読まねばならなくなる。結果、読みにくい文章ができあがるのだ。遊び心はここぞというときのために取っておくがいい。シークエンスの最後で力の入った、フックのある文章を見せてやればシークエンス全体が読者にとって印象的なものになるだろう」


「先生に褒められるなんてうれしいなあ。明日のごはんは缶詰のウェットフードにしましょうか」


「そんなことはいいから毎日缶詰が食えるほど稼いでみろ」


 先生は彼の頭を踏み台にキャットタワーへと飛びうつる。


 そのごとな跳躍を見おくって彼はペンを執り、原稿用紙に向かった。


 もう午前0時をまわっている。


 バイトのために朝は早いが、いまは何としても書きたい気分であった。

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