第7話 たまには実家に帰ろう
帰宅して玄関のチャイムを鳴らすのは奇妙な感じがした。
「おかえりなさい」
ドアを開けて迎えに出た母に、彼は会釈だけして何も答えない。
居間に入ると父が新聞をひろげていた。
「おかえり」
彼は軽く頭をさげてソファに座り、室内を見まわした。
壁際に置かれた低い棚にむかし流行った俗流の歴史書が並べられていた。
その上にある調剤薬局の紙袋を入れる箱は彼が子供のころ文房具をしまうのに使っていたものだ。
キッチンのカウンターに置かれた植木鉢のポトスはあいかわらず腐りかけのような色をしている。
どれも彼には逃れようもなくなつかしかった。
彼のアパートと同じ
一人暮らしをはじめて3年、彼の目には父と母がいつの間にかずいぶんと老けたように映った。
「おなか空いた?」
母に聞かれ、彼は頭を振った。
キッチンで母がコンロに点火する。
「お兄ちゃんが来たら食べよう」
彼は家に残してきた先生のことを思った。
いまごろ夕食のキャットフードを食べているだろうか。
先生は彼がいると見る間にカリカリをたいらげてしまうくせに、彼がご飯を置いて家を空けると帰ってくるまですこし食べのこしていたりする。
自分で玄関の鍵を開けて彼の兄が帰ってきた。
「おお博、帰ってたのか」
兄は革の鞄を床におろし、ネクタイを緩めた。
彼は目礼だけした。
食事の前に父へプレゼントを贈る。
今日は父の誕生日会ということで来たのであった。
彼はビジネス用の靴下を贈った。
父は62歳で元公務員だが天下りして民間企業の役員を務めている。
テーブルの上に乗った料理はあいかわらずのものであった。
有機野菜や国産牛肉など高価な材料を使っているが、味つけも見た目もまずい。
彼は自炊をするようになって料理のやり方を母からではなく本で学んだ。
おふくろの味から可能な限り離れることが彼の料理修行であった。
両親と兄の会話が弾んでいた。
その内容からしてどうやら兄はしばしばこの家に帰ってきているらしい。
兄は高校教師になって口数が多くなった。
「博――」
兄に呼びかけられ、彼は誰も観ていないテレビのニュースから目を離した。
「何?」
「いま何か書いてるのか」
「もうすぐ書きはじめる」
ふわふわ文庫の木村に企画を再提出したところ、いい出来だと褒められた。
主人公を両国学園で代々
編集会議を通過すればいよいよ執筆に入れる。
彼は3月場所を観ながら写生文を書いて筆を慣らし、そのときに備えていた。
「また絵のついてる本?」
母がいう。
「ライトノベル」という術語をいまだおぼえようとしない。
「いつになったらふつうのやつを書くの?」
彼は苦笑して答えなかった。
父は彼の本を読まないので何もいわない。
食卓の話題は父の慢性的な胃痛の件に移っていった。
母は
彼はやたらと塩辛い味噌汁をすすりながら今日の結びの一番を頭の中で文章にする作業をはじめていた。
□□□□□□□
家に帰るとやはり先生はご飯をすこし残していた。
彼を見て横取りされると思ったのか、あわてて食べはじめる。
彼は机に向かった。
ひどく疲れていて服を着がえる気にもなれない。
ライトノベルの世界と家族の食卓とはあまりに距離がありすぎて、行き来した彼は時差ボケのような状態におちいっていた。
実生活からの遠さを根拠にライトノベルを非難する声もある。
だがまさにそうした遠さこそがライトノベルの特長なのだと彼は思う。
つらい実生活から逃れたいと願う読者のためにライトノベルやその他の娯楽はあるのだ。
彼自身がかつてそうした逃走にあこがれた若者だったし、いまでも家族やバイト先の雰囲気に居心地の悪さを感じている。
実生活とうまく折りあいをつけられる者、居心地のいい空間を作りあげることのできる者はいい。
だが多くの若い人にそんな力はないし、年を取っても彼のようにうまく行かない者がいる。
彼らが世間に押しつぶされたままでいいのかと彼は思う。
彼がペンを執るのは一種の抵抗であった。
彼は椅子を回転させ、部屋の中を見まわした。
漫画やラノベが山積みになっている。
古いゲーム機が本棚にうやうやしく飾られてある。
それを警護するように美少女キャラのフィギュアが立つ。
どれも実家で禁じられていたものだ。
これが彼の家であった。
帰る場所が他にあろうとは思えない。
食事を終えた先生が水を飲んでいる。
お行儀がよく、決して水を床にこぼすことはないが、どういうわけかトイレの使い方は乱暴で、砂を床に蹴ちらかす癖があった。
彼は立ちあがり、トイレの砂をかえた。
砂は先生の好きな鉱物系で、尿を固めてくれていた。
トイレの下にはビニールシートを敷いてある。
そこにこぼれた砂を集めてトイレにもどす。
「先生、今日母に『ふつうの小説を書け』っていわれちゃいましたよ。でもふつうって何なんですかね」
「それは王道を行く売れ線ラノベを書け、という意味だろう」
「一般に行けってことじゃなく、そっちのふつうですか」
「オフトンにもふつうの売れっ子ラノベ作家になってほしいという親心だな」
「まあそんなの書こうと思っても書けませんけどね」
「ふむ、それは世の者が誤解しているところだな。鬼才だとか異端だとか独特の世界観だとか評されるラノベ作家は売れ線のものを書かないのではなく、書けないのだ。原因は、才能がないか、マーケティング能力がないか、ストーリーテリングが下手か、頭が悪いか、あるいはそのすべてだろう」
「よし、僕はひとつも当てはまってないな」
彼は先生の背中を一度撫でて、ビニール袋に入れた砂をベランダのゴミ箱に捨てた。
干しっぱなしだった洗濯物をしまっていると、電話が鳴った。
見るとふわふわ文庫の木村からである。
『石川さん、編集会議でGOサインが出ました』
「本当ですか? ありがとうございます」
彼はハイタッチをしようと手を差しだした。
先生はそれをじっと見あげるだけで動かない。
『さっそく執筆に入っていただけますか』
「わかりました」
『完成までだいたいどのくらいかかりますか』
「そうですねえ――」
彼は頭の中で計算してみた――本文280ページとして、一日5ページ書けば56日で完成する。
バイトが休みの日は倍の10ページ書くとして、1週間で45ページ。
全部で6週間強というところか。
「では約1ヶ月と――」
いいかけて彼は考えなおした――シリーズの続巻でもない限り、それほど急かされることはない。
本になるのは早くても半年後だろう。
早めの納期を提示するメリットがあるだろうか。
間に合わないで不興を買っては損だ。
「いや、2ヶ月ってとこでしょうかね」
『では5月末を一応の目安にするということでお願いします。途中でご連絡して進捗の方をうかがいます』
「わかりました」
『それではよろしくお願いします』
「はい、よろしくお願いします」
電話を切った彼は拳を天に突きあげた。
「やっと書ける! 長かった戦いよサラバ!」
「戦いはこれからだぞ」
先生が机に跳びのってまだ光の残る携帯の画面を踏む。
「でも本当に時間がかかりましたからね。いろんなレーベルをまわって頭をさげて。小説を書く一連の工程でもっとも簡単なのは執筆作業だとわかりました」
「逆説的なことをいって
先生は携帯のボタンを爪で押した。
意味をなさない文字列が画面に並ぶ。
彼は服を脱ぎはじめた。
「よし、今日はもう風呂に入って寝る!」
「書きはじめるのではないのか」
「これから最高傑作をものにするんだって興奮をもうちょっと味わっていたいんですよ」
「ふむ。確かにその最高傑作が書きすすめていけば凡作に堕するのだと思うと、いまを楽しみたくなるのも道理だ」
彼はすっかりテンションがあがって、風呂のついでに先生にもシャンプーをしようと考えた。
それを気配で察したか、先生は彼の手から逃れ、キャットタワーの頂上まで一気にかけあがった。
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