第5話 先輩作家をもてなそう

 ほこりだらけ本だらけの部屋に起居して平気でいる彼も、半年に一度は掃除をする。


「こんな汚い家に客を呼ぶ方も呼ぶ方だが、来る方も来る方だ」


 先生が彼の転がすコロコロを嫌って跳びすさった。


「汚れの8割が先生の毛なんですが」


 彼は粘着シートを剥がしてゴミ箱に捨てた。


 本の山はもう動かしようもないので、机の上をきれいにする。

 原稿用紙の上にボールペンを無造作に置き、あたかも執筆中であるかのように見せかけた。


「つまらん見栄を張るな」


 先生がキャットタワーの上から見おろした。「どんなに取りつくろおうと、あいつはおまえより格上だ」


「まあそうなんですけどねえ」


 玄関のチャイムが鳴った。

 彼が行ってドアを開けると、冷たい風と共にはしゃいだような声が飛びこんできた。


「ああ寒い寒い」


 彼女は玄関に入ってくるなり太腿を手でこすった。

 短いスカートから伸びる脚は寒さで血色が悪くなっていた。

 首元には長いマフラーを幾重にも巻いているが、上着は制服のブレザーだけで、いかにも寒そうだ。


「コート着ないんですか」


「まわりみんな着てないもん」


 彼女はローファーを脱ぎ、スクールバッグをおろした。

 人馴れた猫を思わせる丸い目がきょろきょろとあたりを見まわす。


「ロック、おいで」


 彼女が呼びかけると、先生は猫らしくニャーンと鳴きながらやってきて、紺色のソックスに頬をこすりつけた。

 彼女はしゃがみこんで先生の背中を撫でた。


「ひさしぶりだねえ、ロック。元気にしてた?」


か……)


 彼は先生の本名にどうしてもなじむことができなかった。


 もともと他の家で飼われていた先生を彼に引きあわせたのは彼女――和泉いずみ美良みらであった。


   □□□□□□□


「石川さん、子猫飼いませんか」


 はじめて会ったとき、彼女は彼にそういった。


 彼が新人賞を受賞した年、ピコピコ文庫のパーティー会場でのことである。


 和泉美良は彼の前年に同賞を獲ってデビューしていた。

 中学2年生の女子が商業デビューしたとあって当時話題になった。


 彼女のデビュー作『めいりょく深迷宮ラビリンス』は大ヒットし、アニメ化もされた。

 ぽかぽか文庫の編集者がいっていた「異世界物ブーム」の先鞭せんべんをつけた作品である。


「和泉さん、はじめまして」


 彼は深く頭をさげた。

 プロの作家と話すのはこれがはじめてであった。


 彼女の年齢は彼も知っていたが、こうして実際に目の当たりにすると、あれだけの作品がこのいかにも若い、机に向かってキーボードを叩いているより友達とおしゃべりしながら携帯をいじっている方が似合いそうな少女によって書かれたということが信じられなかった。


「友達の家で子猫が生まれて、里親をさがしてるんです。うちにはもう二匹いるし」


 そういって彼女はスマホの画面を彼に見せた。

 そこには子猫たちがじゃれあい絡まりあう動画が表示されていた。


 当時スマホはまだめずらしく、彼はその画面がきれいなことにおどろいた。


「じゃあ僕、飼います」


 彼が即答すると、美良は目を丸くした。


「えっ、ホントですか?」


「石川さん、だいじょうぶなんですか」


 となりにいた担当の齋藤が心配そうにいう。

 それは彼が実家暮らしであることをいっているのであった。


「だいじょうぶです。ちょうど僕、一人暮らしをはじめようと思ってたんです」


 猫を飼うことが子供のころからの夢だったが、家族がそれを許さなかった。


 作家になることも夢だったが、新人賞を獲ることでそれはかなった。

 この機に乗じてもうひとつの夢も叶えてしまおうと彼は思ったのであった。

 資金は新人賞の賞金50万円がある。


「石川さん、ありがとうございます。じゃあ今度メールしますね」


 美良は彼に名刺を渡し、談笑する作家たちの輪に入っていった。


 彼はみずからの唐突な決意について考えてみた。


 ひとつの小さな命をやしなうことには重大な責任がともなう。


 だがそのことがプロの作家としてこれからやっていけるのかという不安を打ちけしてくれるように感じた。


 命が相手ならば、ではなく、


 そうしたことばの強さが彼にはこころよかった。


 何者でもなかった自分が作家になり、猫の飼い主になる。

 それは一人前になるということだ。


 年若い先輩作家のくれた名刺がそれをあかし立ててくれると思い彼は、手の中の小さな紙片をじっと見た。


   □□□□□□□


 だがこのときすでに子猫の引きとり手はすべて決まっていた。

 じゃれあう姿を撮った動画があまりにかわいすぎたためである。


 そして彼のところにはどういうわけか、小さな命でも何でもなく、かわいくも何ともない、7歳の大柄な成猫・ロックこと先生が連れられてきたのであった。


   □□□□□□□


「ロック、こっち見て」


 美良がスマホを構える。

 先生は澄まし顔で彼女に写真を撮らせた。


 撮影を終えると美良はマフラーを解いた。

 首のうしろに押さえつけられていた黒髪が空気をはらんでひろがる。

 ブレザーのウール地に染みこんだ冷気がふっと匂いたった。


ざき先生はお元気ですか」


「元気だよ。ユウちゃんも元気。最近漫画読めるようになった」


 彼女は部屋に入り、床に腰をおろした。

 あぐらをかけば、その膝の上に先生が乗って丸くなる。


 先生の元の飼い主は尾崎クリムゾンという大物ライトノベル作家である。


 ちょうど美良が子猫の里親をさがしているころ、第1子が誕生したのだが、その子が猫アレルギーであることが判明し、飼い猫を人に譲らなくてはならない仕儀になったのであった。


 美良は小学生のときからラノベ界の第一人者である尾崎の仕事場に出入りし、早くからその文才を認められていた。


 先生もドアの隙間からそこに出入りして尾崎の仕事ぶりを観察し、業界の第一人者ならぬとなっていた。


「布団さん、打ちあわせで大暴れしたってホント?」


 美良にきかれて、台所でコーヒーをいれていた彼は赤面した。


「いや、大暴れってほどでは……」


「私のとこにも『布団狂セリ』ってメールがまわってきたよ」


「そんな大袈裟なことじゃないですよ」


 彼はコーヒーとショートケーキをちゃぶ台の上に置いた。


 人づきあいのまったくない彼のもとを訪ねてくるのは尾崎のみょうだいとして半年に一度の様子を見に来る美良だけで、それをもてなす彼の手つきはぎこちなかった。


「まあでも、譲れないところは誰にでもあるよね。担当さんにいろいろいわれて、いつの間にか担当さんの気に入るものを書こうと思うようになってたりするけど、それじゃ駄目なんだ。私たちの本当のお客さんは担当さんじゃなくて、本を買ってくれる人たちだからね」


「本当にそうですね」


 彼はテーブルの上に置いた手を見つめた。


「それで布団さん、企画はどうなったの」


 美良は先生の背中に手を置きながらコーヒーをすすった。


「いま、ふわふわ文庫で見てもらってます」


 ぽかぽか文庫との打ちあわせが不調に終わったのち、彼はふわふわ文庫に接触を図った。

 すると先方からその企画を送るよういってきたので、さっそく送りつけて反応を待っているのであった。


「ふわふわ文庫か……あそこはけっこう自由に書かせてくれるらしいね」


「和泉さんは次どうするんですか。『冥緑』が終わったばかりでこんなことをきくのも何ですけど」


『冥緑の深迷宮』は先月、最終12巻が発売されたところであった。


「今度『しょう説新星せつしんせい』に読切書くよ。反応よかったらそのまま連載する」


 彼女のことばに彼は口に含んでいたケーキを吹きだしそうになった。


「ええっ! 『小説新星』といえば、あの池上いけがみしゅんろう先生が『剣客けんかくせい』シリーズを連載していた雑誌じゃないですか! すごい!」


 池上春太郎は昭和の人気時代小説作家で、その作品を読んで彼は作家をこころざすようになったのであった。

 彼には時代小説を書いて投稿していた前歴がある。


「じゃあピコピコ文庫から移籍するってことですね」


……?」


 美良が眉間にしわを寄せた。「布団さん、出版社やレーベルに籍があると思ってんの? 独占契約を結んでるわけでもないのに。私たちの生活やキャリアを保証してくれる人や組織はどこにもないよ。それってけっこう辛いけど、私はどこにも属さず自由でいることに誇りを持っている。布団さんは心のどこかにレーベルが自分のことを守ってくれるっていう甘えがあるんじゃないかな」


 彼は何もいいかえせなかった。


 といったのはことばのあやだ。

 レーベルに対する帰属意識はない。


 だが美良のいうとおり、どこかでレーベルを頼っている部分があった。

 原稿や企画の評価を向こうに委ねてしまっている。

 自分の書いたものを信じぬくことができない。


 先生が美良の膝の上でニャーンと高く鳴いた。


「ロックも私の意見に賛成みたいだね」


 美良が先生の喉を撫でる。


 先生は目を細め、彼に向けて片方の牙を見せた。

 笑いをこらえている、と彼は思った。


「私さあ、ラノベの限界が見えちゃったんだよね」


 先生の尻尾のつけねを掻きながら美良がいう。


「限界なんて……和泉さんはまだまだこれからですよ」


「いや、だって『冥緑』も300万部しか出なかったし」


(300万部……一部600円・印税10%として……むむむ)


 暗算して出てきた数字に彼は黙りこんだ。


「巻割25万部っていっても、こういうのは右肩さがりになるものだし、最終巻まで完走した人は10万ってとこでしょ。それじゃ足りない。狭い世界でしかない」


(10万人の読者……)


 自分とは桁のちがう話なので彼はあっけに取られた。


「今度『じょう熱半島ねつはんとう』に出るんだ。『女子高生作家が女子大生に』みたいな感じで」


「えっ、本当ですか」


『情熱半島』は各界注目の人物を採りあげるドキュメンタリー番組で、作家はベストセラーを書くか有名な賞を獲るかしないと出られない。


「撮影のとき、布団さんも来れば? 名前と顔が出れば宣伝になるよ」


「い、いや、僕はいいです」


 彼は激しく頭を振った。

 その動きに気を惹かれたか、先生が顔をあげる。


「ラノベの読者は作家につかないってよくいうでしょ。人気シリーズ書いてもその次のが全然売れなかったりするって。でもそれって努力をしてないだけなんだよね。自分という商品を理解してもらう努力。読者からしたら、顔も知らない作家に親しみなんて湧かないし、それについていく義理もない。私は顔を出して、自分という人間も込みで本を売る」


「それは自分に自信がなくちゃできませんね」


「自信はあるよ。私の書くものはおもしろいもん。こんなおもしろいものを知らない人がいたらかわいそう。だから私が出ていって知らせてあげるんだ」


 皿に残してあったケーキの苺を彼女はフォークで刺し、一口で食べる。

 酸っぱかったのか、すこし変な顔をした。


 彼女は美しい。

 若くて才能もある。

 彼女を知ればみんな彼女の書いたものに興味を持つだろう。


 彼女の才能は光を放っている。

 才能の光を見るのに才能はいらない。

 ただ目を見ひらいていさえいればいい。

 

 彼は彼女から目が離せなかった。


 体があたたまって血のめぐりがよくなったせいか、先生の毛が障ったか、彼女はしきりに太腿を掻いた。

 白い肌に赤い痕が線となって走る。

 触れると熱そうに見えた。


 先生が彼の視線に気づいたか、寝返りを打って彼女の太腿を隠し、愉快そうにニャーンと鳴いた。


 彼は目を逸らし、咳払いをした。


「和泉さん、大学の準備はどうですか」


「何もしてない。家近いしね。あんま緊張感ない」


 彼女は先生の腹の毛づくろいをする。


 パーティーで出会ったとき中3だった彼女が四月から大学生になる。

 彼がデビューしてからの3年は特筆すべきことのない時間だったが、彼女にとっては人生でもっとも豊かな、おどろきや発見に満ちた年月であったろう。


「大学生活について何かアドバイスある? 先輩として」


 彼女のかようのは彼の卒業した大学であった。


「友達をたくさん作った方がいいですよ」


「布団さんは友達いっぱいできた?」


「僕は図書館にこもってましたから」


 彼女はうしろに手を突き、脚を伸ばした。


「じゃあ私も図書館にずっといようかな。友達なんて勝手にできるし」


「えっ? あっ、そうですよね……」


 彼は苦笑した。

 太腿の間にずりおちた先生が今度ははっきりと声をあげて彼を嘲笑した。


   □□□□□□□


 美良が帰って彼は食器を洗った。


 先生が調理台の上に跳びのり、蛇口から出るお湯に鼻を近づける。


「和泉美良はあいかわらず精力的だ」


「彼女を見てると、自分は才能が質的にも量的にも足りないんだなって思いしらされますよ」


 彼は皿についた生クリームをスポンジでこすりおとした。


「オフトンも精力的に活動していけ」


「そうですねえ。僕、ジョギングはじめようと思ってるんですよ。やっぱりフリーランスは体力が資本――」


「そうではない。もっと簡単なことだ」


「というと?」


「女の乳や尻を揉んでその体験を作品に活かすといったようなことだ。女子高生を家に連れこんで手を出さぬという法があろうか」


って人聞き悪いな」


「実際に揉んだり吸ったりしなければわからぬこともある。猫を飼っていない者に猫の吐くゲロのくささがわからぬのと同じ道理だ」


「くさいってわかってんなら吐かないでもらえますかね」


 お湯の飛沫しぶきが散り、先生は目を真ん丸にして逃げていった。


 さっきまで部屋にいた美良の姿が彼の眼の奥にちらついた。

 彼女の太腿は赤くなっていた。

 掻くたびに肌が張りつめたままへこむ。


 ふくらはぎが紺色のソックスに締めつけられて窮屈そうだった。

 靴下の足裏は擦れて光沢を帯び、その張りだしたところ、土踏まずのえぐれたところのかたちを露骨に浮かびあがらせていた。


 彼はお湯を止め、水をいっぱいに出した。

 冷たさに指の肉がぎゅっと引きしまる。


 美良の使っていたフォークを指の腹でこするとぬめりが落ちて、金属本来のうとい感触がよみがえった。

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