第4話 編集者と顔あわせをしよう
1月場所はエストニアから来た大関が初優勝を果たした。
「なぜだ……」
彼はテレビでその表彰式を観ながら頭を抱えた。「なぜばたばた文庫は何もいってこないんだ……」
企画書を送って2週間以上たつが、返事はおろか、受けとったことを知らせるメールすら届いていなかった。
「まあ、感想をいう価値もない企画というものもこの世には存在するからな」
先生がAmaxonの段ボール箱に身を潜めながらいった。
「返事がないってことは、駄目なのかなあ……」
「時間をかけてじっくり読んでいるのかもしれない」
「A4で五枚くらいのものをどれだけ精読してるんですかねえ」
彼は『猛毒ピロリ』の第2巻を書いていたときのことを思いだした。
あのときはプロットを出したらすぐ執筆に入るよういわれたのだった。
それにくらべて新企画はなかなか動きださない。
人気作家が延々とシリーズ物を書きつづける理由がいま彼にもわかった。
翌日、バイトが終わってから彼はぽかぽか文庫に電話をかけた。
ばたばた文庫の方にはもう見きりをつけていた。
電話に出た相手がこちらを知らないのは前と同じだったが、構わず彼は企画を売りこんだ。
『――それではこちらにお送りいただきまして、一度顔合わせということで、弊社の方にお越しいただけますか』
「は、はいっ」
彼は先生の方を見て親指を立てた。
先生は段ボール箱の横っ腹に彼が空けた窓からわずかに顔をのぞかせていた。
電話を切ってから彼は箱の中から先生を抱きあげた。
「やりましたよ。ようやくアポが取れました」
「ぽかぽか文庫か……最近ヒット作もないし、そろそろ潰れるだろうな」
「潰れないですよ。僕の新作が大ヒットしますからね」
彼は先生に頬ずりしようとしたが、髭がちくちく目を刺しそうになり、顔を背けた。
□□□□□□□
ぽかぽか文庫を抱える出版社は3階建ての古い建物に入っていた。
九階建てのビルを持っているピコピコ文庫とは大ちがいである。
中に入ると受付係などおらず、電話機がひとつ置いてあるだけであった。
用事がある者はこれで各部署を呼びだせということらしい。
彼は壁に張られた表を見ながら内線番号を押した。
「3時に
その場で待つよういわれて彼は受話器を置いた。
こういうとき、彼は「石川布団」というペンネームにしておいてよかったと思う。
デビューする前の5年間、ずっと布団にくるまってすごしたことから「布団」をペンネームに使っているのだが、最初は名字の方に置いて「布団
(もしそうなら、いまごろ「布団と申します」といっているところだ)
(そうしたら向こうは「わっ、布団がしゃべった」って驚いただろうな)
(……フフッ、いまのメモっとこう)
彼はメモ帳を取りだし、思いつきを書きとめた。
前のページに「女子高生
「石川さん、お待たせいたしました」
先日の電話を受けた林が階段をおりてきた。
明るい色のニットを着て、全体的に若々しく、大学生のような風貌の男であった。
その手にノートパソコンと『猛毒ピロリ』第1巻があるのを彼は見た。
林に連れられて近くの喫茶店へと移動した。
ピコピコ文庫ではいつも広い会議室で打ちあわせをしていたため、喫茶店で編集者と話をするのははじめてのことであった。
注文したオレンジジュースが来ると、それを彼はテーブルの上の企画書から離して置いた。
グラスに触れた手が濡れたので一度ハンカチで拭う。
「プロット拝見しました」
コーヒーを一口飲んでから林はいった。
「ありがとうございます」
「石川さんは、この『猛毒ピロリ』もそうですけど、学園物しか書かれないんですか」
「いえ、そういうわけでは……」
「今回いただいた『両国学園乙女場所』も学園物ですよね」
「まあ、学園物というか、メインは相撲で――」
「いま学園物は売れないんですよ」
林はテーブルの上で手を組み、上目遣いに彼を見た。
「そうなんですかねえ」
彼の脳裏にはいくつかの人気タイトルが浮かんだ。
どれも現代日本の学校を舞台にしている。
だが具体的にそれらがどのくらい売れているのかはわからなかった。
そうした情報は作家のところまでおりてこない。
「これからは異世界物ですよ」
そういって林はノートパソコンの画面を彼に向けた。
そこにはヒット作を多く抱えるぷるぷる文庫の新作ラインナップが表示されていた。
なぜ自分のところの新刊を見せてこないのだろうと彼は思った。
売れ線を把握しているのなら自分のところでやればいい。
ひょっとしたらこのレーベルは次に何が売れるのかという予測を外部に委ねてしまっているのではないだろうか――そんな疑念が彼の中に生じた。
「石川さん、異世界物はあまり書きたくない感じですか」
「書きたくないというわけでは……ただ、いまはこの『両国学園乙女場所』を書きたいと思ってますので……」
「もっといろんなことにチャレンジした方がいいですよ。自分を枠に
「そうですねえ」
彼は力なく笑った。
林がコーヒーを飲むのに合わせて彼もジュースに口をつけた。
氷が融けてジュースは薄まっている。
グラスを置いた彼は濡れた掌をハンカチで入念に拭った。
□□□□□□□
駅からの道を歩きながら彼は考えた。
(確かにどんなテーマ・モチーフでも書ける人はいる)
(でもそういう人たちも原稿に向かうときは、それが書きたくて、それだけを書きたくて仕方なくて書いているはずだ)
(それと自分とどこがちがうのだろう……)
日がみじかくなっていた。
川沿いの道は街灯もすくなく暗い。
夕暮れ空を背景にシルエットと化した団地の建物がダムとなって光を
彼の足元を行く暗い川はそこから流れだしていた。
林はあの企画がおもしろいのかどうか、最後までいわなかった。
彼が聞きたかったのはそれであった。
初版の部数がピコピコ文庫の半分であるとか印税がピコピコ文庫より3割安いとか林は語ったが、そんなことはどうだっていい。
ただ「おもしろい」とさえいってくれれば、どんな条件でも書くつもりでいた。
(結局、あの人には何がおもしろいのかわからないのだ)
(だからジャンルに当てはめて判断しようとする)
(でも……それは当然のことだ。なぜって自分にもこの企画がおもしろいのかどうかわからないのだから)
(たった五枚でおもしろさを十全に表現できるのなら、苦労して300ページも書くことはない)
(自分の頭の中にあるこのおもしろい――おもしろいにちがいないものを伝えるには、それだけの分量が必要だ)
(でもそれを書くには、書かずにそれがおもしろいと証明しなくてはならない)
(まるで相撲を取らずに自分が横綱より強いことを示せ、といわれているようなものだ)
(そんなとんちみたいなこと、できるわけがないではないか……)
街を吹きぬける風は冷たいのに、掌だけが汗に濡れていた。
彼はコートのポケットから手を出して街灯の光にかざした。
端から見れば降る雪を受けとめようとする子供のようだろうと彼は思った。
玄関の戸をくぐると眼鏡が曇った。
「どうだった」
先生は座布団の上に丸くなって本を読んでいた。
「あのレーベルは僕には合わないみたいです」
彼が眼鏡を水道で洗いながらいうと先生は、
「ふむ」
といって顔をあげた。
「早くこっちに来てオフトンになれ。これでは高さが足りない」
「はいはい」
彼はうがい手洗いを済ませて部屋に入った。「先生、本読む以外にやることないんですか。もっといろんなことにチャレンジした方がいいですよ」
「生きる以外にやることなどない。その厳しさ恐ろしさに立ちむかう以上のチャレンジなどあるものか」
先生は彼をオフトンにしようというのに、キャットタワーのてっぺんにのぼる。
これは天井近くから勢いよく腹の上に着地するつもりだと悟り彼は、先手を取って首のうしろの皮をつかみ、先生を引きずりおろした。
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