第3話 持込をしよう
「オフトンよ、
そういって先生は前足でみかんを転がした。
「漫画家さんみたいですね」
彼はそのみかんを床から拾いあげ、親指をへそにずぶりと突きさした。
汁が霧状に飛び、先生が顔を背ける。
「漫画とラノベでは持込のあり方がまるで異なる。漫画の場合、デビュー前に持込をするものだが、ラノベの場合、デビューしてから持込をする。いや、むしろデビューしなければ持込を受けつけてもらえないといった方がよいのか。まったくの新人は賞に応募するかネットにアップしたものを見てもらうかする以外に編集者と接触できぬのがラノベという世界だ」
「なるほど」
みかんを食べてしまった彼はプリントアウトした企画書を揃え、ダブルクリップで留めた。
大相撲11月場所の最中に着想して、いまはもう1月場所の初日が近い。
時間はかかったがいい企画ができたと自負していた。
相撲の歴史や力士のエピソードなどを織りこみ、相撲ファンにもアピールできる作品になるはずだ。
先生は空になったみかんの皮に鼻を近づけた。
「今月でおまえはデビュー3周年だったな」
「そうです。2009年1月デビューですから」
彼は『
病気を擬人化したコメディ『猛毒ピロリ』はシリーズ化して3巻まで出したが、ちっとも売れはしなかった。
「ラノベの新人作家は賞を獲ったレーベルで最低3年間書かなくてはならないという
「へえ。知らなかった」
「だがおまえは4年目に入る。もうどこで書いてもよいということになるな」
「そうですねえ」
彼は先生がちゃぶ台からはたきおとしたみかんの皮を拾ってゴミ箱に放った。
他のレーベルに行くことに対しては不安しかなかった。
新人賞を獲り、担当編集者がつくということは、その担当が選考の場で彼の応募作を強く推してくれたということを意味する。
彼とピコピコ文庫とは担当の齋藤を介してのみつながっていた。
ピコピコ文庫への帰属意識は彼の中になく、ただ齋藤との信頼関係だけがあった。
そこから離れてしまえば、彼は孤立無援である。
彼は賞を獲るまで他の賞で1次選考を通過したことすらなく、編集者と顔を合わせたこともなかった。
「どこでもいいからアポを取ってみろ」
先生が座ったまま彼を見あげる。
「そうしますか」
彼は本の山から文庫本を1冊取った。その帯には「アニメ化決定!」と書かれていた。
ぱくぱく文庫はいま勢いのあるレーベルである。
奥付にある電話番号にかける。
先生にも聞こえるようスピーカーホンにしておいて、携帯をちゃぶ台の上に置いた。
「緊張しますねえ」
「横で聞いているこっちの方が緊張する」
そういいながら先生は口も
何度目かのコールで相手が出た。
『はい、ぱくぱく文庫編集部です』
「あ、あの……はじめまして」
彼は見えない相手に頭をさげた。
声がうわずる。
「私、ピコピコ文庫さんの方で書いております石川布団と申します」
『はあ……』
相手のことばにおかしな間があった。『ちょっと存じあげないのですが』
「あっ……」
彼は先生の方を見た。
先生は窓の方に目をやっていた。
「あの……『猛毒ピロリ』というのを出しているんですけど……」
『ちょっと存じあげないですね。申し訳ないです』
「あっ……」
作品名を出せばさすがにわかってもらえると考えていたのだが、彼の当てははずれた。
先生は前足を舐めて顔を洗いはじめた。
『それで、どういったご用件でしょうか』
「あ、はい。あたらしい企画を作りましたので、一度見ていただけないかと」
『企画というのは、原稿にはなっていないということですか』
「はい。一応プロットとキャラ表は用意しました」
「そうですか。でしたらそれを書きあげていただいて、私どもの方でぱくぱく文庫新人賞というものをやっておりますので、そちらの方にですね――』
「新人賞?」
彼は先生と目を見あわせた。「いや、あの、私はもうすでにピコピコ文庫さんの方で新人賞をいただいてますので……」
『一度デビューされた方が応募してこられることもありますけどねえ』
「それをやってしまうとピコピコ文庫の担当さんに合わせる顔がないので、ちょっと……」
『私どもの方ではそういうかたちでお願いしたいのですが』
「そうですか……」
彼は相手に気取られないようため息をついた。「では一度検討してみます。ありがとうございました。失礼いたします」
電話を切ると彼はぱくぱく文庫の本をつかみ、壁に叩きつけた。
先生が顔をしかめる。
「本に罪はないぞ」
「確かに」
彼は本を拾いあげ、はずれたカバーと帯をつけなおした。「でもここの本は二度と買わないことに決めました」
彼は掌にかいた汗をスウェットパンツの膝にこすりつけた。
企画書も汗にふやけて波打っていた。
「先生、話がちがうじゃないですか。デビューしたら持込できるっていいましたよね」
「そういえばぱくぱく文庫とは関わったことがなかったな」
先生はそしらぬ顔である。
「検討してみる」とはいったものの、彼には新人賞にふたたび応募するつもりなどなかった。
どんなレーベルの賞でも倍率は数百倍である。
そんな厳しい競争を勝ちぬけるとはとても思えない。
ピコピコ文庫の新人賞も、どうして獲れたのか彼にはわかっていなかった。
「気を取りなおして次に行け」
先生にいわれて彼は携帯を手に取った。
次に電話をかけるのはばたばた文庫であった。
相手が出て、先程とおなじように自己紹介する。
『石川……さん? ちょっと存じあげないのですが』
「あっ……」
彼の名前は業界に知られていないらしかった。
彼は気を取りなおして企画のことを切りだした。
『企画……ですか。新人賞に応募されるということではなく?』
「ちがいます。再デビューというようなことは考えていません」
彼はきっぱりといった。「企画書の方、一度読んでいただけないでしょうか」
『……わかりました。それではアドレスをお教えしますので、まずばたばた文庫のウェブサイトを開いていただけますか』
「はい。いま見てみます」
彼はノートパソコンを開いた。
『そこの一番上に【お問い合わせ】というのがありますので、そこをクリックしていただいて――』
「これって……ファイルを添付してもだいじょうぶなんですか」
『だいじょうぶですよ』
「それならいいんですけど……」
企画書のファイルを送信すると約束して彼は電話を切った。
釈然としないものが彼の中に残った。
「編集さんのアドレスは教えてもらえないんですね」
「向こうも個人情報の流出を恐れているのだろう。いきなり電話をかけてくる奴などろくなものではない」
先生が手作りキャットタワーの上からいう。
彼は首を傾げながらもメールを書きはじめた。
「でもまあ、読んでもらえそうなのでよかったです」
「ふむ。それが一番肝心なことだ」
先生はキャットタワーの上から飛びおりて本の山の上に着地した。
山が崩れて、いつもなら小言をいうところだが、いまはどうしても心が浮きたち、先生も自分も元気が一番、と思いながら彼はいきおいよくEnterキーを叩いてメールを送信した。
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