第2話 新作のアイデアを出そう

 彼が腕時計のストップウォッチを作動させたちょうどそのとき、客が声をかけてきた。


「ゼラチンってどこにある?」


「こちらになります」


 小さなスーパーなので店内のことはすべて把握している。


 お菓子の材料コーナーに案内しておいて、ふたたび乳製品の棚にもどった。

一時停止させるのを忘れていたためにストップウォッチは動きつづけていた。


(20秒ノーカウント……おぼえておかなきゃ)


 ため息ひとつつき、ひざまずく。


 彼は週5日、近所のスーパーでアルバイトをしていた。


 一番下の段に並んだ牛乳パックを前に引きよせ、賞味期限の順に並べかえる。

 棚の奥が汚れて見えたので、エプロンのポケットにつっこんである布巾で拭く。


 補充用の牛乳は汗をかいて湿っていた。

 横っ腹を押すとへこむ。

 まるで生き物のようだと彼は思った。

 冷えた棚の中に早く入れてやりたくて、すこし焦る。

 黄色いケースから出して、すでに1日以上そこに居座っている古参のうしろに並ばせる。

 奥まで詰めこむと、淡い照明の下でリズミカルな光景が生じてこころよかった。


 ヨーグルトやチーズ、その他乳製品の品出しを終えてストップウォッチを止める。

 21分34秒。

 最初のロスを差しひいても、すこし遅い。

 これで八時間労働の24分の1が終わった。

 原稿なら1日のノルマ5ページの内、約4行といったところか。


「石川くん、特売のお菓子減ってきてるよ」


 社員にいわれて彼は、レジ行きを命じられなくてよかったと安堵した。

 人とことばを交わすのは苦手であった。


 牛乳ケースの載ったカートを押してバックヤードに向かいながら、次の目標タイムを設定する――箱で持っていって、どかっと積むだけでいいから、往復5分。


 誰かに課せられたタイムリミットではない。


 クリアして時給があがるわけでもない。


 それでも一分一秒を真剣に積みかさねていく。


   □□□□□□□


 バイトを終えて急いで家に帰ると、テレビが点いていた。


「先生、どこまで行ってますか」


 先生は机の上で丸くなっていた。


「これから大関の登場だ」


「よかった。間に合った」


 彼はちゃぶ台をテレビの前に置いた。


 賞味期限切れでもらってきたブリの刺身と豆腐をレジ袋から出す。

 画面の中の力士たちが仕切りをつづけているあいだに台所でご飯をよそい、小皿も用意した。


 先生のために刺身と豆腐を取りわける。

 彼自身は容器に醤油を垂らしてそのまま食べるのであった。


 小皿をテーブルの上に置くと、先生はたいして興も湧かぬという様子でのっそりやってきた。

 だがその尻尾はしっかりと立ちあがっていて、よろこんでいるのが彼にはわかった。


 先生は豆腐をアイスのように舐める。

 食べおわったときには漫画に出てくるドジな女の子のように白く鼻の頭に豆腐をつけていた。


 刺身の方は首を傾げるようにして口の端で噛みきろうとする。

 なぜか一口食べるごとにあたりを鋭い目で見るのが彼には可笑おかしかった。


 彼は刺身を一切れ、醤油にどっぷり漬けた。

 それをご飯の上に着地させてから醤油を吸ったご飯ごと掻きこむ。

 冷たい刺身が熱いご飯に融けて、脂が甘く口にひろがる。


「う~ん、うまい。僕思うんですけど、米・魚・醤油って人間の三元素じゃないですかね」


「知らん。アリストテレスにきいてみろ」


 先生は刺身を食べつくして空になった皿を名残惜しげに舐めた。


 相撲の本場所中はいつもこのような食事であった。

 5時にアルバイトが終わるので、相撲を観ながら夕食を摂るのに料理をしていては間に合わない。


「相撲など観ている暇があったら新企画を考えろ」


 先生がまだ残る彼の刺身を横目に見た。


「そうなんですけどねえ……」


 つぶやいて彼は大関を立会たちあいから一気に押しだした平幕力士に拍手を送った。


 前に書いたものが没になって1週間がたっていた。

 気落ちはしたが、執筆のプレッシャーから解放されてほっとした部分もある。


 週五日のアルバイトが終わったあとも、休みの日も、彼は本ばかり読んでいた。

 いまは大相撲11月場所だけを楽しみに毎日を送っている。

 新しい企画などとうぶん浮かんできそうにない。


「相撲の何がおもしろいのか。この猫の身にはまるでわからない」


「極限まで体を鍛えあげた男たちが全力でぶつかりあうってところですかね」


「全力が見たいのなら野良猫の喧嘩でも見ていればいい」


「そういうことじゃないんですよ。あくまで僕たち観客に見せるためのものってことが重要なんです。もし僕が女だったらもっとキュンキュン来てただろうな。自分の応援する男が半裸で力の限り――んっ? 待てよ……」


 彼は箸を置いた。目をつぶり、ぶつぶつと何事かをつぶやく。


「相撲、裸、女の子……力士が女の子だったら……こ、これだッ! これはいける!」


 彼は跳びあがり、机に向かった。

 小学生のときから使っている学習机である。


 反故ほごを1枚ひっくりかえし、すこし思案したのち、一番上に『りょうごく学園がくえん乙女おとめしょ』と書きつける。


 それが呼び水となって、ことばが溢れでた。


 ――舞台は女子校・私立両国学園。

   そこでは秘密の相撲がおこなわれている。

   それはなぜか。

   江戸城大奥でもよおされた女相撲の伝統が密かに伝えられていたからだ。

   主人公の目的は何か。

   横綱を目指す。

   いや、それでは足りない。

   過去に何かあったのか、あるいは横綱になることで手に入るものがあるのか。


 もう文字だけでは追いつかず、彼は絵や図まで書きだした。

 邪魔なので『せからし!』の原稿は床におろす。

 ノートパソコンを開いて調べ物をはじめる。


「横綱が出てきたぞ」


 先生の呼びかけにも彼は応えなかった。


 その背中を先生は見つめていたが、やがて彼の刺身にかぶりつき、目を細めながらしゃくした。

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