先生とそのお布団

石川博品

第1話 没になってもがんばろう

 西せい線のなみのみや駅からみょうおう川に沿う道を行こうとして彼は考えた。


(これで自分とピコピコ文庫との関係は一段落を告げた)


(3年もかけてこんな結果になったと思うと、馬鹿馬鹿しくなる)


(けれど……けれど……これが事実だろうか)


(あれだけの力を注いで書きあげたものが、こんなふうに駄目になるものなのだろうか)


 ほんの3時間前には意気揚々と歩いた道であった。

 人生の新生面がひらけた喜びに足取りも軽く帰ってこられるものと思っていた。


 それがいまはコートのポケットに手をつっこみ、向かい風に身をすくめながら家路をたどっている。


 彼はライトノベル作家で、筆名を石川いしかわ布団ふとんといった。


 1年の間、改稿をくりかえしてようやく完成させた彼の新作『せからし!』はついに出版社の採るところとならなかった。

「全体的にわかりにくい」というのがその理由であった。


 確かに、ちょうしゅうばつに支配された現代日本の中枢にさつから来た美少女剣士3人が斬りこみ西南戦争の恨みを晴らすというストーリーは、ライトノベルの主な読者層である中高生に受けいれられにくいかもしれないと彼も思っていた。


 だがそれはあくまで設定部分にすぎず、中身の方は笑いあり百合ありのアクションコメディとなっていて、誰にでもとっつきやすいはずである――そう彼は主張したのだが、担当の齋藤さいとうは意見をかえなかった。


「そもそも主人公たちの鹿児島弁がわかりにくいんですよね」


 それがリーダビリティに欠けるものであることは彼も承知していた。

 だが愛郷主義に燃える西郷さいごうみなみ・きり亜季あきむらおんの3人にとって薩摩弁はみずからのアイデンティティの一部であり、それは彼女たちにとっても作者である彼にとっても譲ることのできないものであった。


 彼は納得ができなかった。

 編集会議をとおらなかったという結果だけ聞かされて簡単に引きさがれるほど、1年という時間は軽くない。

 それに、前の年に取りくんでいた原稿も同じような経緯で没になっていた。

 もうこんなことは終わりにしたかった。


をいうな! ったくっど!」


 話しあいは決裂し、最後には作中に出てくる西郷みなみの決め台詞ぜりふを吐いて彼は席を蹴った。

 3年間の作家生活で編集者相手にこうも激したのははじめてのことであった。


(自分はどこで道をあやまったのだろうか……)


 彼は川沿いの柵に手を置き、コンクリートの谷間に押しこめられた川面を見おろした。

 掌にじんと冷たい鉄柵が流れる水の温度を想像させた。


 デビュー作の不首尾を挽回し、一躍売れっ子作家の仲間入りとまでは行かないまでも、すんなり続巻を出せるくらいには売れる――そんな計画があっさり流れてしまった。


 どうすればうまく行ったのかと考える。

 あの場で齋藤を丸めこんでしまえばよかったのか。


 だが会議で決まったことを作家の舌先ひとつでくつがえせるはずもない。

 1年前、この企画を提出した時点でこの日の敗北は予定されていたのだ。


(実に参った……先生に何と報告したらいいのだろう……)


 音もなく忍びよってきた軽自動車に道を譲って彼は歩きだした。

 乾いた冬の夕空に踏切の赤いがにじんで見えた。


   □□□□□□□□


 アパートの階段をのぼって玄関のドアを開けると、暑かった。

 24時間エアコンを点けっぱなしにしているせいだ。

 彼の眼鏡めがねが曇った。


 彼は靴を脱ぐよりも先にコートを脱いだ。

 かまちに腰をおろし靴紐を解いていると、背後から忍びよる気配があった。

 足音は殺してあるが、小さな息遣いはエアコンのあげる低いうなり声の下にも消えない。


「暑くなかったですか、先生」


 彼がいうと、


「寒い」


 と返る声があった。


 丸い顔をした猫が彼の肘の下からひょいと出て前足を太腿の上に置く。

 彼は靴を脱いでしまって猫の背中を掻いた。

 柔らかい毛に膨れたその体は実のところ細く、毛を分け指がそこに届くと彼はいつも生命の不思議に触れたようでひやりとしたものを感じるのであった。


 彼はオレンジ色に縁どられた丸い瞳をのぞきこんだ。


「先生、エアコン23度でもまだ寒いんですか」


「床が寒い」


 猫は答え、首をひねって彼の手から脱した。


 彼が床に脱ぎすてたコートを猫は肉球で一度踏み、コートといっしょに肩から揺りおとされたリュックサックに前足をかけた。


「打ちあわせはどうなった」


「それが……」


 彼はいいよどんだ。「没になっちゃいました」


 猫は首を傾げた。


「企画は会議をとおっていたはずだが」


「僕もそう認識していたんですが、どうやらちがったみたいです」


「ふむ」


 猫は考えごとをするふうに虚空を見つめていたが、猫らしい気まぐれさで足音も立てずに部屋へともどっていった。


 彼はうがい手洗いをするため洗面所に向かった。


「やっぱりホットカーペット買いましょうよ。猫用の小さいやつもあるんですよ」


 ハンドソープの泡を手に塗りたくりながらいうと、


「あれはのぼせてしまうのでよくない」


 部屋から返り言がある。


「先生は寒がりのくせに、変なところにこだわるんですね」


 彼は冷たい水で手の泡を洗いおとした。


 猫を「先生」と呼ぶのはおかしな話だが、人語を解するこの「先生」はプロになって3年目の彼よりもよほどライトノベル業界に明るかった。

 年齢も10歳と、人間でいえば50代半ばに当たる頃合い、33歳の彼よりも言動に貫禄がある。


 八畳一間のフローリングに本が開いたまま置かれていた。

 彼が図書館で借りてきた『島崎藤村しまざきとうそん全集』である。

 それに沿うようにして彼は身を横たえ、腹這いになった。

 部屋は本の山で埋まっていて、体を伸ばすスペースはそこしかない。


 先生が彼の背中に跳びのり、四肢を腹の下に収めて香箱こうばこを作った。

 その姿勢のまま本に視線を落とす。


 彼は読みさしだった『しょう発掘はっくつ』を開いた。


「おいオフトン」


 背中の上で先生がいう。


「何ですか」


「おまえの毛は薄すぎて寒い」


 先生が彼のセーターを揉むように踏んだ。


「僕は先生みたいに毛が生えかわったりしませんので」


 彼は取りあわずに読書をつづけた。


 猫だというのに先生は読書に対して非常な集中力を発揮する。

 狩りの本能をこちらに振りむけたのだというように、布団代わりにした背中の上でひたすらに字を追う。

 ときおり尻尾が振られてはたりと彼の腹を打つ。

 ページをめくるときにはゆっくりと前肢を伸ばし、肉球を紙面に張りつかせる。


 いつも先に集中を途切れさせてしまうのは彼の方であった。


「先生、この本を借りに図書館行ったときの話なんですけどね――」


「ふむ」


「貸出カウンターの前を3歳くらいの女の子が歩いてて、行進するみたいに腕を大きく振りながら何かかけ声みたいなのを口にしてるんですよ。よく聴いてみるとその子、『とっしょかんでウーンチッ、とっしょかんでウーンチッ』って歌ってたんです。うしろについてたお母さんが恥ずかしそうにしてましたね」


「ふむ」


 先生がわずかにお尻を揺すった。「図書館でウンチをすることがそんなにうれしいものなのか。この猫の身にはわからぬことだ」 


「先生もウンチする前後はテンション高いですけどね」


 彼がいうと先生は「ふむ」といったきり黙ってしまった。

 どうやらたいして興味をかなかったようだ。


 背中に猫を乗せていると、何て重いのだろうと彼はしみじみ驚かされる。

 小さくて触るとふわふわしていてその芯にある体は華奢きゃしゃなのに、長く乗られているとつくづく疲れる。

 だがそれが黙って小説を読んでいると思うと、軽い。

 こんなに軽い体のどこに物語や比喩や会話文が入っていくのだろうと彼は不思議に思った。


「ふむ」


 先生が鼻を鳴らして立ちあがった。「偉いものだな」


「何がですか」


 彼は本から顔をあげずにたずねた。


「藤村という男は実に偉い。柄の大きな小説を書く」


「僕、藤村って読んだことないです」


「オフトンも彼にあやかって姪をはらませてそれを小説に書くくらいのことはしてみろ」


「ラノベでそれはまずいですよ」


 彼の頭を先生が踏んだ。

 髪の毛の隙間に肉球のすこし湿った感触がある。

 爪を立てられてはかなわないので、彼は先生が足をすべらせないよう頭を静止させた。


「いま読んでるところ、あくたがわりゅうすけの話です」


「ふむ」


 興味をそそられたのか、先生は本をのぞきこんできた。

 こわひげが彼のこめかみをこする。


「僕ってちょっと芥川に似てますよね」


「オフトンの分際でか」


「この本によると、芥川は読書家だったけど乱読にすぎなくて、漱石そうせき鷗外おうがいのような系統立った知識を得ることはついになかったそうですよ」


「いささか辛辣しんらつだな」


「僕にも系統立ったものが何もないですからね。ただ目についたものを手当たり次第に読んでいるだけで。そういうところが芥川に似てると思うんです。知識と才能はとてもくらべものになりませんけど」


「それに顔もまずい」


「学歴も負けてますしね」


「ただ芥川よりは長生きしそうだ」


「勝ってるところはそれくらいですかね」


 彼は笑い、本を閉じた。


 眠気がずっしりと、背中に乗った先生の体よりも重たく体に伸しかかってきていた。

 足元にたたんであった毛布を足でひっかけ、ひっぱりあげる。

 先生は波打ち際に遊ぶ子供のように、寄せてくる毛布を跳んでかわし、ふたたび丸くなった。


「それで、次の企画はどうするのだ」


「さっき没になってすぐ新企画なんて、芥川でも無理ですよ」


「だがオフトンは芥川の書けなかった長編をもう3冊も書いた」


「なるほど。これで僕の2勝目だ」


 彼は眼鏡をはずし、朝脱いだままのスウェットシャツを丸めて枕にした。

 仰向けになろうとする気配を先生が察し、一度床におりて今度は胸の上に乗る。


「眠るのか、オフトン」


「ちょっとだけ。先生は?」


「私は眠らない」


「もう眠そうですけどね」


 彼は目をつぶった先生の顔を撫で、額を優しく掻いた。


 窓の外が暗かった。

 カーテンを閉めなければと思いながらも彼は先生が胸に乗っているのを口実に、起きあがるのをやめ、睡魔に負ける自分を赦した。

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