あめにふられて

藤村 綾

あめにふられて

 寝不足だった。空がうっすらと明るくなってから寝落ちしたらしく、朝、ハッと、目が覚めたら、8時35分だった。仕事は9時から。あたしは、顔も洗わず、パジャマ変わりにしている高校時代の体操服を無造作に脱ぎすて、黒いニットのスプリングセータと、最近太ってしまい、無理矢理履いているジーンズを着て、急いで車に乗り込んだ。幸い車で行けば3分くらいで、到着する職場だ。近いことに対してはありがたいが、そこを車で行くあたしもあたしだな。ふっと、笑いを零した。あげく、眼鏡を忘れたことに気づく。四コマ漫画の主人公か?呆れて反対に泣けてきた。

 昨夜、彼から電話があった。本当に驚嘆し、この前のような震えはなかったけれど、やっぱり、電話に出た声は確かに震えていた。

『はい……』

『あ、俺、俺、』語尾上がり、笑いを抑えているのがわかる。俺、俺、詐欺を装っているつもりらしい。なんて解りやすい人なんだろう。

『え?なに?俺、俺、詐欺?』

 くだけた感じで、震える声を隠そうと必死になり、冗談を交えながら言葉を継いだ。本当にここ最近で一番驚いたことかもしれない。彼が率先して電話をしてくるだなんて。嘘。頭の中で渦巻く単語。『嘘』

 『ど、どうしたの?急に電話なんて。本当にびっくりして、鍋ひっくりかえしたよ』

 ひっくり返しそうになったのは、事実だった。簡易的なビーフシチュー肉なしを作っていた最中だった。

『あ、うん、ちょっとね、今いいかな』

 あたしは、嬉しさあいあまって、顔はかなりだらしなくなっていたに違いないけれど、あえて、声は冷静をつとめ、

「あ、うん、どうした?」

と、普通に呼応した。秀ちゃんが口ごもりながら、ポツポツと話をし出した。

「いやさ、職人が、俺が気を使っているのに、全く気を使わなくってさ、本当に板挟みでいやになるよ。まったく、っていう愚痴。誰かに訊いて欲しくって、あやちゃんに電話してみました」

 あはは、苦笑交じりに笑う秀ちゃんの声は少し前にあったときよりも、幾分快活に訊こえた。現場がかなり落ち着いて来たんだな、そう、感じた。

 そんなことよりも、愚痴云々、真っ先にあたしのことを思い出して電話をくれたことが本当に素直に嬉しかった。

『でさ、うん、だって、他に話す相手いないしさ』

『あたしだって、話す相手いないよ』

 秀ちゃんは家では、一切仕事の話はしないと決めていて、奥さんにも愚痴を吐露したことはないと、ゆっていたことを思い出した。

『でも、』

『ん?でも、なに?あー、また、今から家に帰って仕事あるわー』

あたしの、でも、の後の言葉を制するかのよう、他の話題に切り替えた。

わかってるのかな。でも、電話嬉しいよ。と、いうのがわかったのかな。

勘のいい彼のこと。解ったのかもしれない。見解にやや苦しむ。

『明日さ、また、実家に泊るよ。よかったら、あう?』

『ええ!いいの!いいの!』いいの。いいに決まってゆっているにもかかわらず、何度も確認をした。

 あたしは、もう、我慢ならなくて、電話で相手の顔なども見えないのに、腰を折りつつ、お願いします!あいにいきます!と、半ば怒声寄りな声を発していた。


「んー、これにしよ」

 以前彼と別れ話をしたとき、なにか、彼の身代わりになるものが欲しくって、ボールペンを下さいとねだった。今も大事に使っている四色のボールペン。

なので、彼にボールペンを返そうと職場の前の大型スーパーの文具売り場で物色をしていた。ひどく眠い。今日彼にあえると思っただけで寝れなかったのだ。目の下には青白いクマが住みつきコンシーラーでも隠せない強者で、どうしたものかと悩みあぐねる。彼にもらったボールペンを別れてから毎日持ち歩いていた。そして、鞄の中からその存在がひよいと顔を出すたび、彼の顔が浮かんで、こみ上げるものを嚥下するのにひどく疲弊をした。彼にもらったボールペンなのに、見るたび律儀に傷つき、涙する。彼のものが欲しくってもらったのに、それが、徐々に苦しむ魔物に変わっていった。ボールペンを握りしめながら、『秀ちゃん、秀ちゃん』と、口を開き、涙を浮かべる。紙に何を書くわけでもないのに、あ、の文字を千個くらい書いていたこともあった。あたしは、壊れていた。もう、終わったと、思っていたから。けれど、秀ちゃんにあげるボールペンを選んでいる。もらったものを返すのではなく、あたしが買ったものをあげるのだ。

 決めたものは、リラックマがプリントしてあるかわいいボールペンだった。

彼もまたあたしが選んだボールペンを見て、別れたあと、あやちゃんからもらったものだ。と、思い出すのだろうか。苦しまないとは思うけれど、あたしも同じことをしてやりたかったのだ。

 終止符を打ったのは、秀ちゃん、あなたなのに。あたしも、しつこくメールをしたかもしれない。けれど、優しい秀ちゃんはそれを無下に出来なかった。あたしの利己的な行動により、また秀ちゃんを惑わせている。もっと、もっと、警戒にあわないといけない。なので、実家に泊るということは、秀ちゃんもあたしとあっても平然としていられる。奥さんの目も気にならない。そんなところだろう。もう、4年目に突入している。秀ちゃんとつき合ってから。けれど、未だにこんなにも、大好きだなんて、本当にどうかしている。手に届かないからなのか、他人のものだからなのか。それはわからない。わかっているのは、あっても、先はないという事実だけ。

 約束の時間にきちんと電話があった。

 『6時に着くように、電車にのって、迎えに行くから』

 『あ、うん』

 いうまえに、電話が切れていた。あ、またか。ふっと、嘆息を吐きながら、Suicaで改札をくぐった。秀ちゃんは自分の用事だけ伝えたら電話を切る癖があった。長話は嫌い。業者との電話やメールも大嫌いで一緒に居るとき、セックスをしている最中でもおかまいなしに、電話は掛かってくる。奥さんからも電話があったっけ。奥さん。秀ちゃんに奥さんとは、どうなの?訊いても『変わりない』と、しか、ゆってくれない。変わりないってなんなの?あたしとのことが奥さんに知られ奥さんは苦しんでいるんじゃないの?あたしはあえて嬉しいし、出来ることならずうっとあっていきたい。迷惑をかけないから。とか、セックスをするだけでいいから。とか。細い糸でもいいから繋がっていたい。けれど、奥さんをまた裏切っている。今度奥さんに知られたらきっと殺されるだろう。思考が行ったり来たりして、定まらない感情は言葉には出来ない。どうしたい。どうしたらいい。あたしは、電車の中で自問自答しながら、スマホも弄らず目を伏せた。電車の中でスマホを弄っている率は90%に上る。皆一様に誰かと繋がっていたい。そうも見てとれる。あたしは、秀ちゃんだけと繋がっていたいだけなのに。どうして、こうも、見えない弊害があるのだろう。出会いは必然だと信じて疑わない。星の数程おとことおんなはいるのに、こんなに好きになるおとこに出会えたことは、必然の何者でもない。ただ、出会ったのが遅かっただけ。駅に到着するアナウンスを訊きながらあたしは、すくっと立ち上がった。

前に待ち合わせしたロータリーに秀ちゃんが停まっていた。

運転席を覗くと、親指を出し、裏、裏、と、ジェスチャーをした。確かに助手席は雑多に荷物が積んであった。

「雨、降って来た」

 後部座席をあけ、開口一番にゆった。

「ああ、さっきまで、なんともなかったのに」

 あたしを一瞥したのち、前を向いて、ハンドルを握った。

「あー!みていい?」

 今の現場の図面だった。図面というか、タウンペ−ジくらい分厚い、詳細が記された本。重たい。

「ああ、いいよ」

 あたしは、頷き、図面をぱらぱらとめくった。今までも図面を見せてもらったこともあれば、描いているところも見たことがある。建物はかなり大きな中華料理屋だった。

「まあ、大変だわ。竣工が今月末だし、今日もあんまり時間がないんだよね」

 ひとりごちるように付け足した。うん、わかってるよ。とても素直ないいこを演じる。時間がないのに、あってくれて確かに嬉しい。顔が見れるだけでも嬉しい。けれど、秀ちゃんはあたしとあう時間だけ仕事がおしてしまう。申し訳ない気持ちでいっぱいで側頭しそうになった。

 どこかで軽く食事して帰るのかと思った。けれど、違った。

 あたしたちは、またホテルに行った。些細な時間。許された時間。今度いつあえるかわからないあたし達。ホテルに行く以外、行くところはない。人目を憚るのは小さな個室以外ないのだ。

あたりまえのように、部屋に入り、あたりまえのように、お風呂を溜めた。

「はーあ」

 秀ちゃんがソファーに腰をおろしながら、ため息も落とす。

「こんな毎日ってなんだろうね。忙しいのってなんだろう」

 急に秀ちゃんが話し出す。あたしは、え?と、秀ちゃんの隣にすわり、話の続きを待つ。

「忙しい、忙しいって、俺、楽しいことがないし、何のために働いているのか、その意味がよくわからないんだよ」

「だって、家族がいるじゃん。守らないといけないものあるじゃないの」

 やんわりとした口調でたしなめる。秀ちゃんは、ああ、だけ、ゆって、立ち上がり、風呂入ってくると、いいながら、浴室に吸い込まれるように消えていった。

(なにがたのしいかわからない)

 ひどい言葉だなと思った。顔には出さなかったけれど、心は暗闇の中を這いつくばっていた。以前にも、言われた辛辣な言葉。

『だれといても気が休まらない』それの同義語だと思った。秀ちゃんにとってあたしの存在ってなんなんだろう。既に好きなおんなではない。友達?じゃあ、なんなの?親友?もしくは、セフレ?あたしは、これ以上の何を切望しているの?

 シャワーを捻る音がする。あたしは、頭をかかえ髪の毛をくちゃくちゃにし、やだょお、やだょお、と、口ずさんだ。あたしと秀ちゃんの中の温度差をひどく感じた。けれど、重たい存在にはこれ以上なりたくないので、顔を上げ、立ち上がり、洋服を脱ぎ出した。

「さむっ」

バスタオルを身体に巻き付けながら秀ちゃんが部屋に戻ってくる。なんだか、雨に濡れた子犬に見えた。秀ちゃんはクッキーみたい。クッキーは秀ちゃんが飼っている犬だ。クッキーにあったことがある。あたしクッキーになりたいの。なんてゆったことも。クッキーなら、秀ちゃんに無性で愛情を注がれる。あたしは、秀ちゃんの前ではクッキーなのだ。

 「あ、あたしもシャワーしてくる」

 裸体のままシャワーをしに浴室に向かう。

 シャワーから出たら確かに寒かった。雨音がだんだんと大きくなる。雨がはげしくなってきたのだろうか。

 ベッドにいき、パネルの上にある、照明の調光を2人で、あーだ、こーだといいながら、ちょうど良い明るさになったところで、あたしは、秀ちゃんの顔を覗き込んだ。目を綴じている。そのまま、唇を重ねた。

一旦離し、ねぇ、秀ちゃんの顔に言葉を落とす。

「なに?」

「ん?別にしなくてもいいんだけれどね、疲れちゃうじゃん」

 あたしは、苦笑まじりに、ゆった。

秀ちゃんは何もゆわない。そのまま目を綴じ、あたしの髪の毛を優しくひっぱり、自分の下半身に持っていった。

 熱い塊がそこにあった。あたしは、無心に塊を奉仕した。秀ちゃんは、腰を浮かせ、少し、悦の声をあげた。

 あたしは、我慢出来ずそのまま、上に乗った。腰を上下に動かし、喉を反らし、髪の毛を振り乱して、啼いた。ああっ、なんども、叫んだ。それは、悦の声音を通り越し、悲鳴に訊こえた。悲鳴。心の悲鳴。

『助けて、お願い、この感情をどこに、ぶつけたらいい、教えて、ねぇ、秀ちゃん……』

 秀ちゃんの指があたしの口の中に入ってくる。あたしは、目一杯指を舐めた。

 ふやけてしまうのではないのか。それほどにまで舐めた。監督のゴツい指。職人の指。

 涎が垂れるのも構わず。もう、どうなってもいい。後ろ向きにされ、後ろから何度も、何度も突かれ、どうかなってしまった。声すら出なくなっていた。後ろで、小さく声がする。あ、ダメ、決壊の声だった。あたしは、そのまま死んだように倒れ、秀ちゃんの体液を体内に流し込んだ。太ももからしたたる液体があまりにも、即物的であたしたちは、本当に犬なのではないのかと疑る程だった。

 抱かれることが全てではない。けれど、秀ちゃんはあたしに対しては、抱くことしか出来ないと思っている。抱きしめる以外、あたしと接する意味がないのだと思っている。違うのに。ただ、あって、他愛ない話しをして、それだけで充分なのに。秀ちゃんの優しい不器用さが痛いくらいにわかる。

 終わるとすぐにシャワーに向かう彼。

 あたしは、ベッドに裸で仰臥する。

 抱いてもらうことであたしは、安堵する。やはり、あたしも彼を欲しているのだろうか。許されないことをしている。罪悪感がいつまでたっても拭えない。けれど、求めあってしまう。求め合っても先はない。長いトンネルをさまよっているだけ。

 けれど、秀ちゃんを失いたくない。トンネルを抜けなくてもいい。漆黒の暗闇。光の全く届かないトンネルの中でただ手をつないでくれるだけでいい。

 雨音がさっきよりも大きくなっている。

 「支度していくよ」

 すっかり、着替えを済ませた秀ちゃんは、タバコを燻らせていた。

 「あ、」

 あたしは、思い出したかのように、自分の鞄にいき、昼間買ったボールペンを差し出した。

 「ん?」

 手にとりながら、え?なんで?怪訝そうに質問口調になる。

 「あげる」

 「なんで?」

 また、同じ質問。

 「この前、もらったから、変わりにどうぞ」

  んー、と、唸りながら、作業着のポケットにささっているボールペンを、ほい、と、あたしに差し出した。

 「上げちゃったから、買ったんだよね」

 確かに見たらあたしにくれた、ボールペンだった。色違いだったけれど。

 「このボールペン俺、以前使っとったやつだ!」

 目を丸くしながら、ああ、そうだ、そうだ、納得をしている。

 「え?な、訳ないじゃん!」

 あたしは、良く見てよ。よく見るように、語気を強めた。

 「みたよ、いっしょ」

 「だから、一緒な訳ないの。見てよ、クマついてるし」

 「ん?」

  秀ちゃんは今一度、ボールペンをくるくると回し確認をした。

 「あ、リラクマだ」

 「……」

  秀ちゃんは『リラックマ』を、なんども、『リラクマ』と、繰り返していた。

 クスクスと、小さく笑う。

 「なんで、笑うの?まあ、ありがとう」

 「ふふ、どういたしまして」

  リラックマのボールペンは無事に彼の右のポケットに収まった。

  やっと、使命を果たしたと、嬉しくなった。

  シンプルな黒いボールペン。四色の。クマは確かに良く見ないと解らない。

  いいの。そのほうが。

  そのボールペンを見る度に、彼はあたしを思い出すのか。わからいけれど。


  ホテルから出たら、案の定大雨が降っていた。

  駅まで一言も喋らなかった。ただ、雨の音が無言の空間を柔和にしてくれた。駅前は雨の送迎でごった返し、なかなか車を停めることが、出来なくて、東口からまわり、人の少ない西口に移動した。

  帰りたくなかった。雨もあいまって、車から降りれない。

 「図面それ、あげる」

 ええ!いいの?外は雨だけれど、目の前は急に晴れやかになる。

 「わ、ありがとう」

 「どういたしまして」

 秀ちゃんが後部座席にいるあたしに目を向ける。あたしは、中腰になり、秀ちゃんに抱きついた。髪の毛を梳くよう、頭をなぜた。柔らかい髪の毛。

 思い切ってゆった。

 「今度は、居酒屋さんいこうね。今の現場終わったら」

 「あ、ああ」

 言葉を選んでゆった精一杯の台詞だった。


 あたしは、もらった図面を抱え込んで車から降りた。

 雨がひどく降っている。図面だけは濡れないようにと、お腹にしまい、お腹を抱えた。

 駅から自宅までは自転車なので、絶対に濡れると見込んでさらに、図面をビニール袋に入れ、お腹にしまう。

 途中、風で傘が折れてしまい、あたしはずぶぬれになった。下着にまで雨がしみ込んでいる。

 けれど、頭の中は図面が、お願い濡れないで。そのことしか、頭になく、意識は図面以外はなかった。

 鞄も服も靴も髪の毛も全て濡れた。けれど、図面だけは一切濡れていなかった。


 大事に抱えた図面からは、秀ちゃんのタバコの匂いがした。

 濡れているだけ。

 あたしは、泣いてなんかない。


 雨はさらにひどくなってゆく。

 頭からポタポタと水滴がしたたりおちてゆく。


 

 

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あめにふられて 藤村 綾 @aya1228

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