no.35 モラル『蜘蛛の糸の引き上げ係』

「手袋を付けたらどうですか……」

 ドルトンは呆れ顔で黒髪の女に声をかけた。女は返事をすることもなく、もくもくとロープをたぐり寄せている。

 ロープは眼前の崖下に伸びている。見下ろしても霧がかかっていてよく見えない。しかし、耳をすませば人々の呻き声が聞こえてくる。鉄の匂いは血の匂い。

「ぐっ」

 黒髪の女が小さく声を漏らした。ズリ、と厭な音がする。ドルトンは彼女の手を直視しようとはしない。どうしようもなく、ただ魔法瓶に入ったホットミルクを飲む。


「また落ちた」

「そうですか」

 黒髪の女とドルトンの声には特に感情は含まれず、それは随分と淡々としていた。

 黒髪の女はロープを手放すと、脇においていた鞄から別のロープを取り出す。先端は輪になっていて、それは首を吊るための結び方だ。

「引っかかりますかねぇ……」

 いい加減諦めたらどうですか、とドルトンは続ける。

「何度言った所でムダ」

 黒髪の女は即座に切り捨てる。


 互いに、諦めが悪い。おそらくは、崖下に居る今回の標的も。


 ◆ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「……というわけで、モラル氏は地獄に落ちたのです」

 ドルトンの役目は釣りの間の"暇つぶし"だ。調べた話を黒髪の女に語る。ドルトンの宗教観を挟むことは禁止されている。黒髪の女は相槌をうつこともなく黙っていた。しかしドルトンも黙ると、近くに落ちている片足烏の死骸を投げつけられる。厭な役目である。ドルトンは、いつも厭な役目ばかりさせられている。


「正直、致し方のない事情かとは思いますが。彼の弾はいくつ分で?」

「ふたつ」

「厳しい判定ですね」

 HappyBullet2発分の価値。それでもドルトンよりは価値のある人間だ。

「可哀想に」

 ドルトンは地獄に降ろされたロープを見て深い溜め息をつく。

「これを登りきった所で、もう家族には会えないのに……」

 黒髪の女によって、弾の材料にされてしまうから。


 ◆ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 黒髪の女は、まだロープを垂らしている。何本ムダにしたかは分からない。何日経ったのかも分からない。分からなくても、問題はない。時間は無限にあるのだから。


「もう諦めたらどうですか」

 ドルトンの言葉は、黒髪の女にも、地獄の底にいるモラル氏にも届かない。

「いい加減に理解しろ」

 黒髪の女はイラついた声で返した。

「諦めが悪いのは、誰よりも自分がわかっているはず」

 光のない黒い狂目がドルトンの眼を射抜く。


 そう、ドルトンもずっと彼女に「諦めろ」と、諦めることなく請い続けている。


「おっと」

 黒髪の女が口元を小さく歪めた。おそらくは笑顔なのだろう。

「ようやく釣れそう」

 ロープを手繰り寄せる、手繰り寄せる、手繰り寄せる。


 それは救いの手ではない。ドルトンは思わず祈る。手を離してくれ。手を離してくれ。そうじゃなければ、貴方は。

 黒髪の女が顎で合図をする。

 ドルトンは青い顔のまま、懐から銃を取り出した……。

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