no.15 ソグ『命乞い』

 煙をくゆらせながら、灰髪の男は扉を眺めている。手は大きいが骨のよう、体躯は細く枯れ木のよう。真っ赤な空に向かってタバコの煙を細く吐く。今日もくだらない一日がはじまる。


「命を」

「約束を」

「病気を」


 飛び石のように並べられた人間たちを踏みつけ、ソグ博士は黒い川を渡る。彼の羽織る白衣だけはこの世界において不自然に白く、事実それは超常の薬を持ってあらゆるケガレを受け付けなかった。ソグ博士そのものが穢だというのに、白衣は着る人を選べない。


「おれの気が向いたらいいな」


 ソグ博士の声に、川に沈む病人たちはおえおえと哀れな声を放つ。同情を誘う目的だろうがそんなものソグ博士の心に響かない。彼の心に響くのは、唯一……。


「待った」


 すぐに両腕を上げて、ソグ博士は女に乞う。


「それ、撃つなよ」


 川向こうの小さな研究室、その中、簡素なセキュリティをぶちやぶって"黒髪の女"はやって来た。

 構えているのは小ぶりの銃で、もう片方には長い骨。骨には血がこびりつく。女の足元には実験用研究員が5匹ほど転がっていた。すべて死んでいるということはソグ博士にもすぐ分かる。死体の相手なら慣れていたので。


「強盗か? 金が欲しいならそこの引き出しの中だ。いっぱいある。この世界の富の大半をおれは握っている」


 窓の外には赤い空が広がっている。


「おれの命は、この世界の富よりも重い。この命を守るためなら金なんて惜しくはないさ。持っていけ、ほら、持って、うお!?」

「話が長い」


 ソグ博士の白衣の裾に穴が空いた。この女、銃の腕はポンコツだ。それを確信した博士は、すぐ側の棚にある薬品に向けて腕を伸ばし、そうして意識が途切れてしまった。頭蓋骨が割れるような痛み。彼女が部屋の花瓶で殴ったのだとソグ博士が認識する日は来ない。


 黒髪の女は、銃の腕こそド素人であれ、ただの暴力や殺しについては経験をよく積んでいる。



 ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「クズが」

 白い部屋、グレゴリールームの手術台の上で黒髪の女は唸る。

「想像通りのクズっぷり、ゴミのように役立たずな命だ」


 ソグ博士はゆっくりと目を開いた。白と茶色で出来た部屋。この茶は元は血だったのだろう。体は縄で乱暴に縛られろくに動けない。後頭部はまだ痛い。


「世界の叡智に向かって……」

 痛みを紛らわせるために博士は呻く。

「私は、あんな狭い世界に居たらここまで尊大になれるの」

「はぁ?」

「証拠に軽い。骨が軽い。人ひとりの命に満たないクズ」


 女は手術台の横に置いている箱を蹴った。中にはわざわざ削って尖らせた人の骨がいくつも入っている。


「ま、そんなクズでも集まれば、それでようやく人ひとり」

「待った」

 頭を叩かれた、つまり大事な脳を損傷したソグ博士はきっと、以前ほど聡明ではないのだろう。

「生かして欲しい」

「はぁ?」


 女の冷たい声に、手術台の上の博士はおえおえと哀れな声を放つ。同情を誘う目的だろうがそんなもの女の心には響かない。彼女の心に響くのは、唯一……。


「おまえの願いが、より確実に叶うよう、おれの脳を持って、協力する」


 ソグ博士は冷静を装っていたが、両目からは涙を流していた。さらに言うと鼻水も流しているし、体中からあらゆる液体を流している。

 怖い、怖い、死ぬのが怖い。この部屋からは空が見えない。


「醜い……」

 黒髪の女は眉を潜める。

「ま、醜いやつが相手の方がこたえるね」


 黒髪の女は提案を受け入れる。灰髪の男はひひ、と短く病んだ笑みを見せた。


 ソグ博士は、あの世界に置いてきた川に沈む患者たちを思い出した。しかし博士はクズなので、自分の命を優先したのであった。

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