コロッケ屋のお嬢さん

にしなり

コロッケ屋のお嬢さん

 可愛らしい笑顔で客を招き入れる、マニュアルどおりの仕草をして店番をしていたのが、そのお嬢さん。見たところ歳は17前後だろうか。長く伸ばした髪を後ろに束ね、制服の上からエプロンを着ている。健気に働くその姿からは『アルバイト学生』という印象よりも『家の手伝い』をしているように思えた。

 そしてその家というのがこのコロッケ屋さんである。繁盛はしていないものの、ここの揚げるコロッケは正直言って絶品なのだ。どうしてもっと客が集まらないのかと懸念する一方で、こんなに美味しい店を世間に広めるのはもったいない気もする。そんな風に、優越感を身に覚えながら足を運んでくるのがこの店の客である。もちろん俺もその一人だ。

 仕事帰りにここへ寄ると、いつもそのお嬢さんが店番をしている。ここへコロッケを買いに来る客も数少ないがために、俺はどうやらそのお嬢さんに顔を覚えてもらったらしい。


「今日もお疲れ様です」

 それがただの営業スマイルなのか、某ファーストフード店の0円スマイルと同じものなのか、それとも素の笑顔なのか分からないが、その子がにっこりと微笑んでそう言ってくれるだけで、一日の疲れが吹き飛ぶのだ。

 だけどそれ以外の会話はしない――はずだった。

 というのは、俺みたいな三十路近い男と知り合いになるのもこの子のためにならないだろうという勝手な配慮から、俺の方から敬遠していたのだ。

 しかしそのいたわりもまったく虚しく、ついにお嬢さんの方から声を掛けてきてしまったのである。


「いつも買いに来てくれて嬉しいです。あの、お名前を聞いてもよろしいですか?」


 最初は名前を尋ねてきた。次の日は住んでいる場所。その次の日は職場。

 結婚はしていらっしゃるのですか、子供さんはおられるのですか、日に日に訊いてくる内容がエスカレートしていった。

 だが俺も俺なのだ。その問いにちゃんと答えてしまっているからだ。お陰ですっかり俺のことを知り尽くしてしまった。俺はダメな男だな、と自分で自分を貶すことなど今では容易い。


「松永さん。今日もお疲れ様です」

「君も毎日大変だね」

「私は、楽しんでやってますから」

「そうか」


 だから今日は、ちゃんと男を見せてやることにした。

 おっと、勘違いしないでほしい。別に下劣な意味でも何でもなく、要は男としてケジメをつけてやることにしたのだ。


「すまないが、もうこの店には買いに来ない」


 いつもどおりコロッケを5つ買って、袋を受け取る瞬間に、俺はそう告げた。彼女は鳩が豆鉄砲を食らったかのように硬直して、俺の手渡す小銭を受け取らない。

 このままだと最悪、二人の距離が近づいてしまうかもしれない。それくらいに彼女も真剣に訊いてきていたし、何より彼女の眼差しからその本気さを感じていた。浅い経験ながらそれはまさに、恋する乙女だった。これが自惚れなら、むしろそれでもいい。だからこれ以上関わってはいけない。


「どうしてですか……? だっていつも、この店のコロッケは美味しいって」

 当然のごとく彼女は俺の言葉を許さない。カウンターから身を乗り出してくる。


「君は恋人はいるのかい?」

「いません。それが、何だって言うんですか」

「じゃあ正直に訊く。君は、俺のことをどう思っている?」


 途端に彼女の目が泳ぐ。カウンターの後ろでエプロンを握り締め、斜め下を見ながら口をごもごもと噤んでいる。そんな仕草につい心が揺らいでしまいそうになるが、何とか堪えた。

 ダメなんだ。分かってくれ。

 せめて若いうちは、きれいな恋をしてほしいから。


「松永さんは、私じゃ嫌なんですか……?」

「嫌じゃないよ」


 じゃあどうして、とさらに身を乗り出してくる。この必死さが彼女の気持ちを物語っているのは、もはや明白だ。

 俺だって、独り身の男としての正直な気持ちはある。こんなに可愛らしくて素朴な子が恋の対象なら、どれだけ幸せだろうか。だけどそんな気持ちに覆いかぶさるのが、俺の中に宿る良心という厄介なやつだ。この厄介なやつがあってくれるだけで、俺は辛うじて善人でいられるのだ。


「君に俺なんかは相応しくない。もっといい恋をしなさい」


 三十路のやさぐれ男なんかと一緒になってしまえば未来はない。なんせこの子みたいな若い時期に、結婚だとかのことなんて、これっぽっちも考え付いていないのが関の山だからだ。

 思春期は、呼吸をするように恋をする時期だ。

 それが落ち着いてしまうと、恋愛というやつが結婚という考えに結びつく。だが彼女はまだ落ち着いた時期ではないのだ。そんな彼女の恋をする権利を、俺が奪ってしまってはいけない。


「それじゃあ、元気でね」

「…………」

 俺が店を出るときまで黙りこくっていた彼女だが、ふと流し目で振り返るとわんわんと泣き崩れていた彼女が、今でも忘れられない。

 その日の帰り道は、珍しく雪が降っていた。

 たった今一人の少女の恋が散った、そんな様子を思わせるゆらゆらとした降り方をしていた。


   *


 そんなお嬢さんとの奇妙な出会いから、もう5年だ。


 あの後すぐに転勤が入ってしまい、居宅を移動。本当にあのコロッケ屋さんとは縁がなくなってしまった。それから四度目の冬が来て、ようやく俺はこの近くへ帰ることができた。前に居た場所に戻って安堵し、気が大きくなっていた俺は、様子見程度に店へ顔を出してみようとした。


 しかしあのコロッケ屋さんは、もうなくなっていた。

 建物はシャッターが下りており、人の気配がなかった。あの時のお嬢さんも別の場所へ引っ越してしまったんだろうか。いや、俺がいまさら気に掛けるのもおかしいのだが。

 何か吹っ切れたような気分になって、俺はその日も変わらず、元の職場へ向かった。


 そして冬が過ぎ、季節は少し肌寒い春になっていた。今日は何やら、職場へ研修生がやってくる日らしい。毎年この時期は、やけに会社の中がきれいになる。新人たちに印象好く思ってほしいからだろう。まったく、どいつもこいつも必死だ。


「――松永さん」


 と、何気なく缶コーヒーをたしなんでいるところ、俺はとあるスーツの女性に声を掛けられた。見ない顔だから研修生の子だろうか。えらく整った顔立ちをしていて、化粧の仕方がきれいだ。

 俺は、遅れてコーヒーを拭きこぼしてしまった。何故ならその子は、見覚えがあるからだ。


「君、もしかして……!」

「はい、お久しぶりです」


 間違いなかった。あのコロッケ屋さんのお嬢さん。あれから少し大人びた彼女が、今目の前でお辞儀をしている。驚きすぎて、零したコーヒーを拭くのを忘れていた。

 しかし今になって見れば、そうか。……あの子は俺の職場を知っていた。唐突に湧き上がってきた嬉しさと、それから罪悪感。いや、素直に再会できたのが嬉しかった。


「この度はお世話になります。松永係長」

「……君、なぜ俺が係長なのを知ってる?」

「ちゃんと事前に調べてますから。松永さんの名前、見つけやすかったですよ」


 と胸を張って言いながら、社員名簿のコピーをふりふりと手で泳がせる。あぁ、実に執念深い子だ。5年もここにいなかったのに、その間の毎年ずっと名簿を確認していたということだろうから。

 どうやら俺は、とんでもない子と出会ってしまっていたのかもしれない。

 勝手に穴場のコロッケ屋を見つけて優越感に浸っていた、俺への報いかもしれない。良いものはきちんと広めよと、まるで忠告されているみたいだった。


「松永さん、コロッケは今でも好きですか?」

「まあね。けどやっぱり、君のいた店のが一番かな」


 あぁ、やっぱり俺はダメな男らしい。ついそんなことを言ってしまう。すると彼女は決まりきったかのように、あの時と同じ笑顔になって、俺のスーツについていたコーヒーを拭ってくれた。


「今夜うちへいらして下さい。コロッケ、ご馳走しますから!」

 ずいずいと身を乗り出されて、結局俺は断れなかった。


 研修初日から、研修生と社員がコロッケパーティか。とんだイベントだ。それが二十歳過ぎの子と、アラサー男の二人だから困る。

 けれど、またあのコロッケが食べられるのは、少しだけ楽しみだったりするのだ。

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